【時代解説:近代】資本主義・民主主義が社会の土台となり、欧米諸国が世界を分割支配した時代、「近代」とはどんな時代か解説!

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!

今回は、歴史の時代区分の1つ、「近代」について解説します。

時代区分については、主流となっている「先史時代」「古代」「中世」「近世」「近代」「現代」の六時代区分法を前提とします。

みなさんも、「近代」という言葉を聞いたことがあると思います。「近代化」「近代日本」「近代美術館」など、さまざまな場面で「近代」というワードが出てきます。

では、近代とはいつからいつまでの期間で、どんな時代だったのでしょうか?

この記事では、そんな「近代」とはどんな時代だったのか、分かりやすく解説します。

目次

近代とはいつからいつまで?

資本主義・民主主義が社会の土台となった時代を「近代」といいます。

18~19世紀頃に市民革命・産業革命が起こって資本主義社会が確立してから、1918年に第一次世界大戦が終わるまでの約100~200年間です。

君主が絶対的な権力を持っていた近世と異なり、近代では市民の一部または大半に参政権が与えられ、民主主義のもと多数決で政治を行うようになります。

中央集権・主権国家体制は近世と同様に続きましたが、君主ではなく市民が権力を持ちます。

さらに産業革命による生産力の爆発的な増加に伴い、富を蓄えて生産手段を持つ市民が資本家となり、生産手段を持たない労働者を働かせて生産活動を行うようになります。

階級は大きく資本家と労働者の2つに分かれていました。

労働者は資本家に搾取されていましたが、実力次第で資本家に成り上がることも可能であり、次第に参政権も労働者まで拡大していきました。

この社会構造の基本部分は現在まで続いてますが、1918年の第一次世界大戦終了後、グローバル化の進展と国民国家群の増加、大衆消費社会の到来により、近代は終わりを迎えます。

日本では、19世紀後半の明治維新から1945年の第二次世界大戦終戦までの期間です。明治政府のもとで資本主義・民主主義が進展し、市民にも参政権が拡大していきます。

1945年の第二次世界大戦敗北によってグローバル化・大衆消費社会が日本にも浸透し、日本の近代も終わりを迎えます。

近代の流れ

産業革命・市民革命による絶対王政の終わりとアジア諸帝国の衰退(18世紀後半)

18世紀後半の西ヨーロッパでは産業革命や市民革命が起こり、絶対王政が終わって資本主義が生まれ始めます。

イギリスでは産業革命が起こり、生産力を爆発的に発展させて各地の交易を支配し、世界の覇権を握ります。フランスでは国王の圧政への不満からフランス革命が起こり、その中からナポレオンが台頭してフランスをまとめます。

中央・東ヨーロッパのロシア・プロイセン・オーストリアでは啓蒙専制君主による上からの改革により、限定的に自由が生まれます。

北アメリカ大陸の植民地争いにはイギリスが勝利しますが、植民地でのイギリスの圧政に不満を持った植民たちが反乱を起こし、独立して北アメリカ東岸にアメリカ合衆国が誕生します。

このような目覚ましい発展を遂げるヨーロッパ諸国に対して、アジア諸国は次第に押され始めます。

オスマン帝国はオーストリアやロシアに押され、インドではムガル帝国の衰退後に小国分立状態となり、それに付け込んでイギリスが勢力を伸ばします。インドネシアではオランダが植民地を拡大していました。

日本は引き続き江戸時代の真っ只中です。

ナポレオン戦争による混乱とウィーン体制による絶対王政の復活(19世紀前半)

19世紀前半のヨーロッパでは、フランス革命とナポレオン戦争によって自由と平等を求める動きが一旦高まりますが、ウィーン体制によって再び絶対王政が復活します。しかし、自由と平等を求める市民の動きを抑えることはできず、1848年の各地の革命によってウィーン体制が崩壊し、その後は市民優位の自由主義・資本主義・民主主義の時代となります。

西ヨーロッパでは、1830年頃までは絶対王政が機能しますが、1830〜1848年までの各地の革命によって各国は立憲君主制や共和制に移行し、民主主義の時代となります。

東ヨーロッパのロシアは、こうした自由と平等を求める動きを抑え、自国だけでなく各国の革命や運動を鎮圧する役割を担います。ロシアはしばらく帝政が続くことになります。

アメリカ大陸では、アメリカ合衆国が太平洋沿岸まで領土を拡大し、経済発展を進める一方で、ヨーロッパには関わらないモンロー宣言を唱えます。中南米諸国はこの頃一気にスペインとポルトガルの支配から独立します。

オスマン帝国では、エジプトの離反やロシアの南下政策により縮小が続く中、上からの近代化改革を進める動きが進みます。

インドはイギリスによる植民地支配が進み、ほぼ全土がイギリスの支配下となります。アフリカ・東南アジア・太平洋地域の植民地化も進みます。

東アジアでは、日本が鎖国政策を終えて開国し、近代化を進める動きが活発になります。中国の清も近代化を進めようとしますが、アヘン戦争やアロー戦争の敗北によって半植民地化が進みます。

欧米諸国が世界を分割支配した帝国主義時代(19世紀後半)

19世紀後半に入って市民優位の資本主義・民主主義の社会が確立すると、欧米諸国は資源と市場を求めてさらに植民地を拡大させ、帝国主義の時代に入ります。

ヨーロッパでは、イギリスとフランスは互いに競い合いながら植民地を拡大させ、広大な植民地帝国を築きます。国内統一が遅れたドイツとイタリアも少し遅れて帝国主義に参加し、植民地を拡大します。

特にイギリスの植民地帝国は広大で、ヨーロッパ諸国の中でも抜きん出ていました。この時期はイギリスの覇権によるパクス・ブリタニカの時代となります。

ヨーロッパ諸国同士は、ドイツのビスマルクによるビスマルク体制の期間は勢力均衡による平和が保たれていましたが、ビスマルクの失脚後は徐々に対立が激化します。

ヨーロッパ諸国の強大な生産力と軍事力の前にアジア・アフリカ諸国はなすすべなく、ほとんどがヨーロッパ諸国の植民地または勢力圏となり、支配下に入りました。

アメリカ合衆国は広大な土地と工業力を活かして国力が急成長し、中南米や太平洋地域への進出も行います。

東アジアの日本は、明治維新による近代化に成功し、国力を急成長させて欧米諸国と対等に渡り合える力を手に入れます。中国の清は欧米諸国と日本によって半植民地化されていました。

列強間の対立激化と第一次世界大戦(1900〜1920年頃)

20世紀初頭になると列強による世界分割もほぼ完了します。1890年のビスマルク失脚以降、ヨーロッパ諸国同士の対立は激化し、イギリス・フランス・ロシアの三国協商とドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟の二大勢力の対立が深まります。

オスマン帝国の衰退によってバルカン半島に諸国が独立しますが、この地域に勢力を伸ばしたいオーストリアとロシアの利害関係の対立などによって三国協商と三国同盟の対立はさらに深まり、ロシアが支援するセルビア人の青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺したことが決定打となり、三国同盟と三国協商の全面戦争となる第一次世界大戦が勃発します。

第一次世界大戦は協商国側の勝利に終わりますが、ヨーロッパが主戦場となったことで各国の戦争によるダメージは甚大で、戦勝国も含めてヨーロッパ諸国の国力は低下します。中でもロシアは深刻で、内戦状態となります。

協商国側で参戦しつつも戦場とならなかったアメリカ合衆国と日本は武器の輸出などで好景気となり、国力を増加させます。特にアメリカ合衆国はイギリスを抜いて世界一の大国となり、覇権国家はイギリスからアメリカに移行しました。

資本主義・民主主義が社会の土台となり、欧米諸国が世界を分割支配した時代

君主が絶対的な権力を持っていた近世と異なり、近代では市民が権力を持つようになります。

市民の中で富を蓄えた者が資本家となって生産設備を持ち、市民の中で貧しい労働者たちを使って工業製品を大量生産させ、産業と国力を爆発的に発展させました。

産業と国力が高まると、生産の材料となる資源と工業製品の市場を求め、欧米諸国は海外に植民地を拡大します。産業の爆発的な発展により武器も発展したため、欧米諸国は圧倒的に優位な軍事力でアジア・アフリカ諸国を制圧していきます。

このように、資本主義・民主主義が社会の土台となり、欧米諸国が世界を分割支配した時代が、「近代」です。

これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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