【時代解説:近世】世界の一体化のはじまり!中央集権・主権国家体制が確立した時代、「近世」とはどんな時代か解説!

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!

今回は、歴史の時代区分の1つ、「近世」について解説します。

時代区分については、主流となっている「先史時代」「古代」「中世」「近世」「近代」「現代」の六時代区分法を前提とします。

「近世」という言葉は、聞きなれない人も多いと思います。もともと三時代区分法では「近代」に含まれており、六時代区分法において、近代から分けられる形で誕生したのが「近世」だからです。

では、近世とはいつからいつまでの期間で、どんな時代だったのでしょうか?

この記事では、そんな比較的新しい概念である「近世」とはどんな時代だったのか、分かりやすく解説します。

目次

近世とはいつからいつまで?

世界の一体化が始まり、中央集権化・主権国家体制の確立した時代を「近世」といいます。

15~16世紀頃に封建制・荘園制社会が崩壊して主権国家体制が確立してから、18~19世紀の市民革命・産業革命までの約300年間です。

18~19世紀頃になると、富を蓄えて経済力を付けた市民が自由・平等・参政権を求めて革命を起こし、近世が終わりを迎えます。

日本では、16世紀末~19世紀前半の安土桃山時代終わりから江戸時代の期間です。豊臣秀吉の天下統一とそれに続く江戸幕府による中央集権的な全国支配のもとで日本として一体化し、江戸などでは富を蓄える市民も出てきました。

19世紀後半の明治維新により幕府の支配は終わり、日本の近世も終わりを迎えます。

近世の流れ

世界の一体化と主権国家体制のはじまり(15世紀後半〜16世紀)

西ヨーロッパでは、15世紀後半になると、レコンキスタを完了させてイベリア半島からイスラーム勢力を追い出したスペインとポルトガルが、イスラーム世界を介さないアジアとの直接交易とキリスト教布教を目指し、海路で対外進出を始めます。大航海時代の始まりです。

イングランド・フランスは百年戦争の途中から国王の権力が高まって中央集権国家・主権国家体制へと移行し、百年戦争の終結後にその体制が確立します。

また、宗教改革によってキリスト教世界はカトリックとプロテスタントの2つに分かれて争い始め、ルネサンスという神中心の世界観から人間中心の世界観への変化といった流れも引き起こされ、キリスト教の権威は大きく揺らぎます。

東ヨーロッパではモンゴル勢力を退けたモスクワ大公国が台頭し、シベリア方面への進出も開始します。

アジアでは国内経済が充実し、大帝国だけではなく周辺勢力も成長します。

イスラーム世界では、オスマン帝国がオリエントからバルカン半島に至るまでの大帝国を築き、神聖ローマ帝国にも攻め込んで西ヨーロッパ世界を脅かします。イスラームは再び拡大期となり、イランのサファヴィー朝やインドのムガル帝国も支配を拡大します。

中国の明も経済的には繁栄するも、周辺勢力の侵入に苦しめられ、対外的には縮小し始めます。

アメリカ大陸ではスペインとポルトガルが先住民を征服して植民地化し、大量の銀を手に入れたことで経済活動を拡大させ、アジア交易に参入するなどして世界各地を結びつけます。

そして日本は、戦国時代の真っ只中でした。

欧州諸国の絶対王政とアジア諸帝国の繁栄(17世紀〜18世紀前半)

17世紀は気候が寒冷化し、世界各地で飢饉や疫病、戦争が勃発して、経済は衰えます。

ヨーロッパでは中継貿易で富を築いたオランダが覇権を握り、世界各地の交易を支配します。ドイツ(神聖ローマ帝国)は三十年戦争で国土が荒廃して小国分立状態となり、その中からプロイセンとオーストリアが台頭します。イギリスでは革命が起こって絶対王政から立憲君主制へと移行します。フランスは絶対王政の全盛期を迎えます。

北欧ではスウェーデンが台頭してバルト帝国を築きますが、これを破ったロシア帝国が東ヨーロッパの覇権を確立させ、シベリア方面の進出もさらに強化してオホーツク海まで到達します。

イスラーム世界はオスマン帝国とムガル帝国がさらに勢力を伸ばしますが、オスマン帝国は17世紀後半のウィーン包囲敗北から、ムガル帝国は18世紀初頭の国内反乱から、徐々に衰退に入ります。とはいえ、オスマン帝国とムガル帝国はこの頃が全盛期であり、ヨーロッパ諸国を凌ぐ国力を持っていました。

中国では満州の女真族が清を建国し、明を滅ぼして中国を支配すると、ジュンガルとチベットも征服して中国史上最大の大帝国を築きます。

北アメリカはイギリス・フランス・オランダ・スペインによって分割され植民地化し、中央アメリカと南アメリカは依然としてスペインとポルトガルが大部分を植民地化しています。

そして日本は江戸時代となり、管理貿易体制によって対外関係を制限しながら、国内経済を発展させていました。

産業革命・市民革命による絶対王政の終わりとアジア諸帝国の衰退(18世紀後半)

18世紀後半の西ヨーロッパでは産業革命や市民革命が起こり、絶対王政が終わって資本主義が生まれ始めます。

イギリスでは産業革命が起こり、生産力を爆発的に発展させて各地の交易を支配し、世界の覇権を握ります。フランスでは国王の圧政への不満からフランス革命が起こり、その中からナポレオンが台頭してフランスをまとめます。

中央・東ヨーロッパのロシア・プロイセン・オーストリアでは啓蒙専制君主による上からの改革により、限定的に自由が生まれます。

北アメリカ大陸の植民地争いにはイギリスが勝利しますが、植民地でのイギリスの圧政に不満を持った植民たちが反乱を起こし、独立して北アメリカ東岸にアメリカ合衆国が誕生します。

このような目覚ましい発展を遂げるヨーロッパ諸国に対して、アジア諸国は次第に押され始めます。

オスマン帝国はオーストリアやロシアに押され、インドではムガル帝国の衰退後に小国分立状態となり、それに付け込んでイギリスが勢力を伸ばします。インドネシアではオランダが植民地を拡大していました。

日本は引き続き江戸時代の真っ只中です。

ヨーロッパの近世とアジアの近世

近世の大きな2つの特徴は、世界の一体化の始まりと、中央集権的な主権国家の誕生です。

しかし、アジアでは中央集権的な主権国家は現れませんでした。ヨーロッパではイギリスやフランスのような主権国家体制の国が多く現れますが、アジアではオスマン帝国や清のような多民族を支配する大帝国が繁栄します。

このような国のタイプに違いのあるヨーロッパとアジアが、世界の一体化による長距離交易の発展によって密接に結びついたのが、近世といえます。

近世ではヨーロッパ人が世界各地に進出しますが、まだヨーロッパがアジアに対して優位に立っていたわけではありません。ウィーン包囲が代表的な例ですが、アジア諸国はヨーロッパにとって脅威だったのです。。

ヨーロッパではアジアの繊維製品や陶磁器のような特産品を入手するため、アメリカ大陸で得た銀を代価にして購入していました。交易もアジア諸国の支配のもとで行われており、18世紀後半以降の帝国主義時代とは全く逆で、アジア諸国はヨーロッパ諸国を凌ぐ国力と軍事力を持っていました。

ヨーロッパがアジアに対して優位になったのは18世紀後半の産業革命以降であり、この15世紀後半〜18世紀の近世の時代は、むしろアジアがヨーロッパに対して優位に立っていたのです。

主権国家の誕生と絶対王政

権力や土地が各諸侯に分散していた中世と異なり、近世では君主に権力が集中し、絶対的な権力を持つようになります。

主権国家とは、外部の力に従属せずに自国のことを自国で決定できる国のことです。西ヨーロッパでは中世において教皇が絶対的な権力を持ち、国王も教皇に従属していましたが、近世に入ると教皇は世俗的な権力を失い、国王がそれぞれの国内で絶対的な権力を持ちます。

生産力の増加・都市や貨幣経済の発達により市民・農民も富を蓄え始めますが、参政権はなく、国王が決めたこと命じたことには絶対服従という社会でした。

絶対王政のように、君主の権力が非常に強かったのも、この近世という時代の特徴です。

これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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