こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、イングランドとの百年戦争で劣勢に立たされていた15世紀前半のフランスで、奇跡の大逆転によりフランスの勝利に貢献したオルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクの生涯や真相を解説します。
フランスでは国民的ヒロインであり、カトリック教会においては聖人となっています。
救国の英雄、聖女、魔女、美少女、男勝りなど、さまざまな評判のある彼女ですが、いったいどんな人物であり、どんな活躍をしたのでしょうか?
この記事では、まず当時の世界とフランスの時代背景を分かりやすく解説し、彼女の生涯を地図を用いて追っていき、最後に逸話を紹介します。
ジャンヌ・ダルクが生きた時代の世界とフランスの状況
世界の状況
ジャンヌ・ダルクは西暦1412年に東フランスのドンレミで生まれ、1431年で僅か19歳にして生涯を終えます。15世紀前半に生きた人物です。
15世紀前半は、封建制・荘園制を土台とする「中世」の社会から、中央集権・主権国家を土台とする「近世」の社会への移行が徐々に始まっていた時期です。
また、15世紀後半以降の大航海時代に向けた準備の期間であり、危機と停滞の時代から交易と発展の時代への過渡期でもあります。
14世紀は北半球の各地で不作や飢饉が続いて政情不安になり、ペスト(黒死病)が流行するなど、危機と停滞の時代でしたが、15世紀前半に各地の経済は回復に向かい、中国の明では永楽帝のもとで全盛期を迎え、朝貢貿易の活性化をねらい鄭和がアジア・アフリカに航海した南海遠征が行われました。そして15世紀後半からは、ヨーロッパのイベリア半島でレコンキスタ(キリスト教徒によるイスラーム教徒に対する国土回復運動)を完了させたスペインとポルトガルが、イスラーム世界を介さないアジアとの直接交易とキリスト教布教を目指してアメリカ・アジア・アフリカに進出した、大航海時代の始まりとなります。
オリエントでは1000年以上続いたビザンツ帝国(東ローマ帝国)が15世紀に入ると風前の灯となり、1453年にはオスマン帝国に滅ぼされます。オスマン帝国はバルカン半島やアナトリアの支配地を拡大しながら発展を始め、中央アジアではティムール帝国が大帝国を築いています。一方、ロシアではキプチャク・ハン国の支配が続く中でビザンツ帝国の後継者を自称するモスクワ大公国が台頭を始め、モンゴル高原ではオイラトが北元を滅ぼしてモンゴル高原の支配者となります。インドでは北部のデリー・スルタン朝、中部のバフマニー朝、南部のヴィジャヤナガル王国が並立し、東南アジアのベトナムでは大越国(黎朝)が成立、明と明が支援するチャンパーと対立します。マレーシアでは明の支援のもとマラッカ王国が中継貿易で繁栄します。アメリカ大陸ではアステカ王国とマヤ文明、インカ帝国が発展しています。
そして日本は、室町幕府の全盛期を迎えていました。
このように、領主の権力が強い封建制・荘園制を土台とする中世社会から、王権が強い中央集権・主権国家の近世への移行が始まり、危機と停滞の時代から交易と発展の時代への過渡期にあたる時期が、ジャンヌ・ダルクが生きた当時の世界の状況です。
フランスの状況
世界全体の状況としては回復傾向にありましたが、ジャンヌ・ダルクの祖国フランスは、未だに危機的状況でした。1339年に始まったイングランドとフランスの百年戦争は、15世紀に入ってからフランスの内部分裂の影響もあり、イングランドが優勢となっていました。
ジャンヌが生まれた1412年頃のフランス王はヴァロワ朝のシャルル6世でしたが、精神障害を抱えており、弟のオルレアン公ルイと従兄弟のブルゴーニュ公ジャンが権力争いをしていました。そんな中、1407年にブルゴーニュ公ジャンがオルレアン公ルイを暗殺したことがきっかけで、オルレアン派とブルゴーニュ派で内乱が起こってしまいました。
当時のイングランド国王ヘンリー5世はフランスの内乱を好機と見て、ブルゴーニュ派を手を結んでオルレアン派を攻撃していきました。ヘンリ5ー世はシャルル6世の娘カトリーヌと結婚し、1422年にヘンリー5世とシャルル6世が亡くなると、2人の子を英仏両国の王としました。これに対抗してオルレアン派はシャルル6世の息子をシャルル7世としてフランス王に即位させました。
どっちが正統な王家だとかいうくだらない理由で血みどろの争いを繰り広げていますが、どこの国の歴史もそんなものです。オルレアン派とブルゴーニュ派がまるで福岡の元祖長浜ラーメン戦争のごとく熾烈な争いを繰り広げる中でイングランドが漁夫の利を得た形になりましたが、百年戦争の終結後にはイングランドのランカスター家とヨーク家が元祖長浜ラーメン戦争のごとく争います。
イングランドとブルゴーニュの連合軍に対してフランス王国軍(オルレアン派)は劣勢であり、イングランドとブルゴーニュはパリ、ルーアン、ランスといった主要都市を含むフランス北部のほとんどと南西部の一部を支配下に置いていきました。そして1428年、イングランド軍はフランス王国の重要都市オルレアンを包囲しました。オルレアンはフランス中心部への攻撃を防ぐ最後の砦であり、オルレアンが陥落すればフランスの敗北は決定的になるといった、極めて危機的状況となりました。そのオルレアン包囲戦の最中である1429年、ジャンヌ・ダルクは歴史の表舞台に登場するのです!
当時の西ヨーロッパにおけるローマ・カトリック教会の権威
ジャンヌの生きた時代の西ヨーロッパは、宗教改革が始まっており、ローマ・カトリック教会の権威が衰退期を迎え王権が伸張していた時期でしたが、教会は未だに一定の権威を誇っていました。神の声を聴いたジャンヌを皆が崇めたことも、ジャンヌ処刑の原因となる異端審問も、カトリック教会が当時のヨーロッパで広く信仰されており権威があったからこそ起こった出来事であり、当時の教権への理解なくしてジャンヌ・ダルクを理解することはできません。
教権は教皇を頂点とし、その下に大司教、司教、司祭などの聖職者が存在するヒエラルキーであり、皇帝や国王を頂点とする世俗のヒエラルキーと二重の構造で西ヨーロッパを支配していました。
14世紀から15世紀の不作・飢饉やペスト(黒死病)の流行、宗教改革や宗教戦争による社会的な混乱は魔女や異端者のしわざとみなされ、反カトリックとみなされた大勢の人々が処刑されていました。
このように、当時の西ヨーロッパでは未だにローマ・カトリック教会が一定の権威を誇り、異端者が迫害され、正統なカトリック信者であることが良いとされていた時期であったのです。
ジャンヌ・ダルクの生涯と活躍
農家の娘で教会に通っていた幼少時代
ジャンヌ・ダルクは1412年1月6日に、フランス東部のドンレミ村で生まれました。
ドンレミ村はフランス王家に忠誠を誓う村で、ジャンヌの幼少期にもブルゴーニュ派の襲撃を何度か受けていました。ジャンヌのフランス王家に対する忠誠心も、このドンレミ村で生まれ育ったことが大きく影響していそうです。
父は農業を本業としつつ、村の税金徴収係と自警団長も兼ねていました。
ジャンヌは母からカトリックへの信仰や家事を教わり、教会に通いながら家畜の世話や裁縫をしていました。
正面ドアの上にある像は天使でしょうか。敬虔なキリスト教一家なのでしょう。
神の声を聴き預言者となる
1424年、12歳頃、ジャンヌは屋外を1人で歩いていたときに、大天使ミカエル、聖カタリナ、聖マルガリタの姿を幻視し、神の声を聴いたと、のちの異端審問の場で語っています。
「シャルル王太子をランスに連れて行って戴冠させ、イングランドに占領されているフランス領を奪還せよ!」
この声を聴いたジャンヌは1428年、16歳のときにドンレミ近郊のヴォークルールに行き、守備隊長のロベール・ド・ボードリクール伯に、シノンの仮王宮にいるシャルル王太子に謁見させてほしいと頼みこみます。
ボードリクールは相手にせず笑って追い返しましたが、ジャンヌの決心は揺らがず、翌年1429年1月に再び訪れ、ジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジという2人の貴族と仲間になります。
ジャンヌに相棒ができました!しかも農家の娘が貴族2人と仲間になるってすごいですね!
この2人の助けでボードリクールに再会したジャンヌは、オルレアン近くのニシンの戦いでフランス軍が敗北するという予言をし、的中させます。
この予言的中を見たボードリクールは、ジャンヌが2人の仲間と共にシノンの仮王宮を訪問することを許可します。
神の幻視といい、予言的中といい、ジャンヌには何か不思議な力が宿っていたのかもしれません。
シャルル7世への謁見とジャンヌの指揮官任命
ジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジの2人の相棒を連れたジャンヌは男装して、敵地ブルゴーニュ公国領を通りながら、シャルル7世のいるシノン城に向かいました。
1429年3月、ついにシャルル王太子(シャルル7世)に謁見となりますが、ここでシャルル7世はジャンヌを試すために、身分が分からない服装をして人混みの中に紛れていました。
しかし、ジャンヌはシャルル7世を見分けることに成功し、シャルル7世はジャンヌの話を聞くことにしました。やはりジャンヌには不思議な力が宿っているのでしょう。
それでも、ジャンヌが異教の魔女ではないかという危険があったため、シャルル7世は審議会を開き、ジャンヌが高潔で誠実で純真な良きキリスト教徒であることを認めました。ジャンヌは魔女ではなく聖女であり預言者だったということです。
そこで、シャルル7世はジャンヌを軍の指揮官に任命し、オルレアン解放を命じます。
この軍には、ラ・イル、ジル・ド・レといった軍人がおり、2人はジャンヌの最も忠実な戦友となります。
神の声を聴いた聖女が軍の指揮官となったことで、軍の士気は高まります。フランスには神の助けがあるのだと皆思いました。
それにしても、神の声を聴いた聖女とはいえ、実戦経験もない農家の娘に軍の指揮官を任せるって常軌を逸していますね。「フランス軍の状況があまりにも絶望すぎてジャンヌが唯一の希望に見えた」という説もあります。
ジャンヌ率いるフランス軍がイングランド軍を破りオルレアン解放!
前述したように、1428年からイングランド軍はオルレアンを包囲しており、オルレアンに籠もるフランス軍は風前の灯でした。
そのような状況で翌1429年4月、神の声を聴いた聖女ジャンヌ率いるフランス軍が到着し、決定的な勝利を収めます。この戦いの中でジャンヌは首に矢を受けて負傷してしまいますが、それでもめげずに戦線に復帰して兵士たちを鼓舞し続けました。なんという不屈の精神力でしょう!
この戦いは、ジャンヌのデビュー戦にして最も活躍した戦いでした。オルレアンの戦い以降、ジャンヌは一躍有名人となり、「オルレアンの少女」と呼ばれます。ジャンヌ・ダルクといえばオルレアン、いえ、オルレアンといえばジャンヌ・ダルクでしょう!
戦いの中で、ジャンヌは元々いた指揮官のデュノワと意見が食い違い、たびたび衝突します。積極策を主張するジャンヌに対して、慎重論を唱えるデュノワがジャンヌの動きを妨害しますが、最終的にはデュノワもジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となります。
ボードリクールといい、デュノワといい、初めはジャンヌを認めていなかった人物が後にジャンヌの支持者となるパターンが多いです。
ランスの大聖堂でシャルル7世が戴冠!
オルレアンを解放したジャンヌは、シャルル7世を説得して、戴冠式を行うためにランスを占領する作戦の許可を得ました。
オルレアンからランスはパリよりも遠く、無謀な作戦に見えますが、パテーの戦いなどジャンヌ率いるフランス軍はイングランド軍に対して連戦連勝を重ね、1429年7月にはランスを占領しました。ランスまでの道中で次々とフランス軍に加わる者が現れ、当時宮廷の権力争いにより遠ざけられていたリッシュモンも加わりました。
フランスの王は代々ランスの大聖堂で戴冠式を行うことが慣例となっており、ここで戴冠式を挙げなければフランスの王とは認められない風潮にありました。
だからこそ、ジャンヌもシャルル7世も、パリよりも遠い道のりを無謀とも言える進軍を行ってまでも、ランスでの戴冠式にこだわったのです。
このランスで戴冠式を行ったことで、対外的にもシャルル7世は正式なフランスの王として権威が高まりました。
農家の娘が国王の戴冠式で1番そばにいて旗を掲げるって衝撃ですね。シャルル7世をはじめ、周りが皆ジャンヌを1番の功労者だと認めていたことが伺えます。
パリ攻略の失敗
ランスでの戴冠式を終えたフランス軍の次の行動は意見が分かれます。ジャンヌとその上官ジャン2世はパリへの進軍を主張しますが、シャルル7世はブルゴーニュ公国との和平締結を優先します。
しかし、ブルゴーニュ公フィリップ3世が和平交渉を反故にしたため、フランス軍はパリに進撃することになります。
しかし、パリ市民はイングランドを支持していました。1420年にイングランドがパリを占領して以来、イングランドの統治は緩やかで、フランスが統治していた頃よりもパリ市民の特権を拡充する動きもありました。さらに、パリ市民はシャルル7世が自由を脅かしていると思い、嫌っていました。
これまでは友好的な都市に対して進軍していたため、フランス軍は常に市民から快く受け入れられてきましたが、ここで初めて市民が敵対的な都市の攻略を目指すことになります。
1429年9月、ジャンヌとジャン2世率いる約1万人のフランス軍はパリを包囲します。対してパリを守っていたのは約3,000人のイングランド軍とパリ市民でした。なんとパリ市民はイングランド軍に協力して必死に抵抗したのです。
この戦いでジャンヌは太ももに矢を受けて負傷しますが、それでも攻撃を続けようとします。しかし、シャルル7世からの撤退命令を受け、ジャンヌとジャン2世率いるフランス軍はパリ攻略を諦めて撤退します。
実質的にジャンヌ初めての敗北でした。この戦いを境に、ジャンヌの命運が尽きていってしまうのです。
そして1429年12月、ジャンヌとその家族はこれまでの功績を認められて貴族となります。
コンピエーニュ包囲戦でブルゴーニュの捕虜に!
1430年に入り、一旦はフランスとイングランドの間で休戦協定が結ばれるなど、少し落ち着いた時期となります。
パリ北方にあるコンピエーニュはブルゴーニュ派に支配されていましたが、シャルル7世の戴冠式直後にシャルル7世側に寝返ります。
コンピエーニュは当時のフランス支配地の中では最も北にあり、イングランドが占領するパリとブルゴーニュ領アミアンの中間に位置しているため、フランスの突出部となっていました。
ジャンヌとジャン2世のパリ攻略失敗後、イングランドとブルゴーニュの同盟軍は戦況を打開するため、このコンピエーニュの奪還を計画します。
1430年4月、イングランドとブルゴーニュの同盟軍はコンピエーニュを包囲します。しかし、ジャンヌはパリ攻略の失敗を理由に軍の指揮を認められていなかったため、数百人の志願兵を集めて内密にコンピエーニュに行きます。
1430年5月、コンピエーニュに到着したジャンヌは包囲しているブルゴーニュ軍に攻撃をしかけます。ところが、これを予測していたブルゴーニュ軍の反撃に遭います。
ジャンヌはコンピエーニュに退却しようとしますが、ジャンヌが逃げ込む寸前に城門が閉じられてしまいます。まさか、ジャンヌは裏切られたのでしょうか!?
このとき城門が閉じた理由は、ジャンヌと一緒に敵が侵入するのを防ぐためという説が有力ですが、味方に内通者がいたとか、シャルル7世がジャンヌの人気を恐れて陥れたといった説もあります。
ブルゴーニュ軍に囲まれたジャンヌは戦い続けますが、1人の兵がジャンヌを掴んで馬から引きずり下ろし、ジャンヌは捕らえられてしまいます。
当時は捕虜の身内が身代金を支払って捕虜を解放してもらうことが普通でしたが、シャルル7世はなんとジャンヌを見殺しにしてしまいます。
ジャンヌは一旦ブルゴーニュ領のアラスに移され、その間にイングランドとブルゴーニュの間でジャンヌの身柄引き渡し交渉が行われます。
このとき、ジャンヌは何回か脱走を試みますが、失敗してしまいます。
交渉の末、最終的に1430年12月、ジャンヌの身柄は身代金と引き換えにイングランドに引き渡されることとなります。このとき、イングランド側に付いているフランス人司教ピエール・コーションが身柄引き渡し交渉とその後の異端審問に深く関わっていきます。
なお、コンピエーニュ包囲戦は、フランス軍の勝利に終わり、フランス軍はコンピエーニュの防衛に成功します。
異端審問で無実の罪を被せられ有罪に!
イングランドに身柄を引き渡されたジャンヌは、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンに移送され、この地に監禁されながら異端審問裁判を受けます。ジャンヌの異端審問は1431年1月に開始されます。
イングランドがジャンヌの異端審問を行った理由は、シャルル7世のフランス王位継承の正当性を揺るがすためです。
ジャンヌを殺害することだけが目的なら、戦場で殺してしまえばいいのです。しかし、当時ジャンヌは神の声を聴いた聖女で、その聖女が力を貸したシャルル7世こそが正当なフランス王という認識が広まっていました。
ただジャンヌを殺してしまうだけでは、よりジャンヌが神格化されてしまい、シャルル7世への支持が高まってしまうだけです
イングランドは、ジャンヌを魔女・異端者とすることで、シャルル7世を偽物の王とし、イングランド王ヘンリ6世こそが本当のフランス王だということにしたかったのです。
ジャンヌの裁判における問題点としては、当時の教会法に違反していたことが挙げられます。異端審問を主導した司教コーションは司法権を有しておらず、さらにジャンヌを有罪とする証拠もないまま有罪判決となってしまいます。
ジャンヌの裁判は、完全にイングランドの思惑に沿った形で行われたのです。
ジャンヌへの尋問でもジャンヌの異端性は証明されず、それどころか常に明晰な返答をし、ジャンヌが真の聖女であり敬虔なカトリック教徒であることが証明されました。
しかし、ジャンヌの裁判記録は改ざんされ、異端だと認めたという書類に強制的にサインさせられます。ジャンヌは文字が読めなかったために、何が書いてあるのか分かりませんでした。
当時異端の罪で死刑となるのは、異端を認め悔い改めた後に再び異端の罪を犯したときのみでした。そして、異端と認めた書類でジャンヌは男装をやめることに同意します。
また、教会法で定められた手順では、ジャンヌは女性の監視のもとで監禁されることになっていましたが、コーションはイングランドの男性兵士をジャンヌの監視役とします。
このような状況でジャンヌは自分の身を守るため仕方なく、再び男装せざるを得なくなります。
こうして、ジャンヌは再び異端の罪を犯したとされ、死刑判決を受けることとなってしまいます。
無実の罪で処刑に!
1431年5月30日、19歳にして、ジャンヌはルーアンのヴィエ・マルシェ広場で火刑に処されます。
柱に縛り付けられたジャンヌは、立会人の2人の修道士に、自分の前に十字架を掲げてほしいと頼み、十字架を掲げてもらいました。
そして息絶えて黒焦げになったジャンヌの遺体は処刑執行人たちの手によって人々の前に晒されます。「実はジャンヌは生きている!」と言わせないためです。
その後、ジャンヌの遺体はセーヌ川に流されます。
フランスを救い英雄となったオルレアンの少女ジャンヌ・ダルクは、理不尽に魔女・異端と決めつけられて火炙りの刑という悲劇的な結末となり、わずか19歳の生涯を終えました。
シャルル7世からも見捨てられ、卑怯なブリカスによって魔女として火炙りになるなんて可哀想すぎます!しかし、ジャンヌの活躍によってフランスは百年戦争に勝利し、ジャンヌは国民的ヒロインとなります。今なおジャンヌはフランス国民の心の中に生き続けているのです!
ジャンヌ・ダルクの死後
百年戦争はフランスの勝利で終結!
英仏百年戦争はジャンヌの死後も1453年まで22年にわたって続きます。
ジャンヌの死後にフランス軍を率いて活躍したのはリッシュモンでした。リッシュモンはブルゴーニュとの和約も成立させ、1436年にはパリを奪還します。
その後もリッシュモン率いるフランス軍は進撃を続け、1453年にカレーを除くフランス全土を奪還し、百年戦争をフランスの勝利で終結させました。ちなみにこの年1453年は、オスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が滅亡した年です。日本では室町幕府の第8代将軍で銀閣寺を建てた足利義政が将軍となって4年目でした。
しかし、百年戦争の転換点は間違いなくオルレアンの戦いであり、ジャンヌの活躍がなければフランスの勝利はなかったでしょう。
復権裁判で異端審問の有罪判決が覆され無罪に!
百年戦争の終結後、1455年からジャンヌの復権裁判が開かれます。
ジャンヌの死後24年が経過していますが、百年戦争中はジャンヌが処刑されたルーアンが1449年までイングランドの支配下にあり、1453年のコンスタンティノープル陥落により教会が混乱したりと、復権裁判を開催する体制が整っていなかったことが原因です。
復権裁判は、ジャンヌの母イザベル・ダルク(旧姓イザベル・ヴトン)の要請をもとに、シャルル7世が聖職者たちを集めて開催します。シャルル7世は教皇に復権裁判の開催を認めてもらうよう働きかけ、開催を認めてもらいました。
復権裁判の法廷にて、ジャンヌの母イザベルは、聖職者たちと大勢の群衆の前で、嘆きながら嘆願書を読み上げました。娘の名誉を挽回するために尽力したのです!
さらに、ジャンヌの子供時代を知っているドンレミの人々、ジャンヌがフランス軍を率いて戦っていたときの兵士など、ジャンヌが関わった様々な人々が、ジャンヌの無実を証明するために証言をします。
ジャンヌが処刑される理由となった男装については、当時の教会法では有効でしたが、ジャンヌが拘束されており、身を守るために仕方なく男装したため例外だとして、復権裁判の法廷は1456年7月7日にジャンヌの無罪を宣言します!
ジャンヌの死から25年後、ついにジャンヌの無実が証明されたのです!
列聖されローマ・カトリック教会の聖人に!
キリスト教では、主に徳が高く、模範となるような殉教者を聖人として教会が公式に認定(列聖)し、崇敬しています。そして聖人に継ぐ地位として福者があり、まずは列福され、その後列聖される流れとなります。
16世紀には宗教戦争の間、カトリック連盟の象徴としてジャンヌが用いられ、19世紀にはナポレオンがフランス国民のナショナリズムを煽るためにジャンヌを利用し、オルレアンにジャンヌ像を建てることを認めます。
こうして大衆の間にジャンヌの存在が広く浸透していき、1909年4月18日に列福され、1920年5月16日に列聖されます。
無実の異端の罪で処刑されてから490年後、ジャンヌはローマ・カトリック教会で崇敬される聖人となったのです。
ジャンヌ・ダルクにまつわる逸話
オルレアンでは毎年ジャンヌ・ダルク祭が行われている
ジャンヌの死から4年後の1435年から今日まで毎年、4月下旬から5月上旬にかけて、オルレアンではジャンヌの功績を称えるお祭りが開催されています。お祭りでは毎年女性が1人「ミス・ジャンヌダルク」として選ばれてジャンヌ役になり、その他大勢の人々が当時の服装を再現した中世再現パレードが行われています。
オルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクはオルレアン市民にとって永遠のヒロインなのです。
美少女だった
オルレアン公シャルル・ドルレアンがオルレアン解放のお礼にジャンヌに送った衣服には詳細な覚書があり、そこからジャンヌは四肢の均等が取れ、美形で整った容姿で、身長約158センチであったとされています。
やはりジャンヌは美少女だったようです!魔女ではなく、聖女であり美少女でした!
文字の読み書きができなかった
ジャンヌは文字の読み書きができませんでした。当時は王侯貴族や聖職者などの特権階級を除き、ほとんどの市民や農民は教育を受けておらず、読み書きができないことは普通のことでした。
しかし、文字が読めないために、異端審問の場で改ざんされた書類にサインをしてしまったことが処刑される要因となってしまいました。
幻視と神の声は本当だったのか!?
聖人の姿を見たり神の声を聴くといったことは、今日の科学では証明できないものであり、ジャンヌが精神疾患により幻覚や幻聴を発症していたという説もあります。
しかし、もし本当に精神疾患だとしたら、シャルル7世はジャンヌを指揮官に登用するでしょうか?異端審問に対して明晰な答えを返せるでしょうか?
特にシャルル7世の父親シャルル6世が精神疾患を患っていたこともあり、シャルル7世は精神疾患者をある程度見分けることができたはずです。そのシャルル7世は指揮官に登用したジャンヌの精神状態はまともだったことが分かります。
おそらく、ジャンヌの幻視と神の声は本当であり、科学では証明できない神秘体験であったのだと思います。
「多様性」としてのジャンヌ・ダルク
「救国の英雄」「聖女」といったジャンヌ像のほかに、「多様性」としてのジャンヌ像もあります。
女性でありながら男装していたことは現代の多様性社会を先取りしていたといえ、農民の出身でありながら貴族を従えて戦ったことは後の市民革命の原点といえます。
このように、ジャンヌには、伝統を重んじる敬虔なカトリック教徒であり国王に忠実といった保守的な側面と、性別や身分にとらわれない革新的な側面があります。
ジャンヌ・ダルク年表
1412年1月6日 | 東フランスのドンレミ村で生まれる |
1424年 | 神の声を聞き、フランスを救う使命に駆られる |
1429年1月 | 予言を的中させシャルル7世に謁見する許可を得る |
1429年3月 | シャルル7世に謁見して軍の指揮官になる |
1429年4月 | オルレアンを解放して救国の英雄となる |
1429年7月 | ランス大聖堂でシャルル7世の戴冠式に出席 |
1429年9月 | パリ攻略に失敗 |
1430年5月 | コンピエーニュの戦いでブルゴーニュ公国の捕虜となる |
1430年12月 | イングランドに引き渡される |
1431年1月 | イングランド占領下のルーアンで異端審問が開かれる |
1431年5月30日 | ルーアンにて火刑に処される |