【人物解説:ダヴィデ王】ミケランジェロの彫像「ダヴィデ像」で有名なヘブライ王国の偉大な王の生涯を分かりやすく解説!

出典:wikipedia

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。

今回は、ミケランジェロの彫像「ダヴィデ像」で有名な、ヘブライ王国(古代イスラエル王国)繁栄の基礎を築いたダヴィデ王の生涯を解説します。

「ダヴィデ像」の美しい彫像、「ダヴィデとゴリアテ」、イスラエルの国旗「ダヴィデの星」と、ユダヤ人にとって特別なだけでなく歴史的に名が知れ渡っている彼ですが、いったいどんな人物であり、どんな活躍をしたのでしょうか?

この記事では、まず当時の世界とユダヤ人の時代背景を分かりやすく解説し、ダヴィデ王の生涯を追っていき、最後に逸話を紹介します。

目次

ダヴィデ王が生きた頃の時代背景

世界の状況

ダヴィデ王は、紀元前1040年にパレスチナのユダ族が住むベツレヘムで生まれ、紀元前961年に亡くなったとされています。ダヴィデ王が生きた紀元前1000年頃は、大国が衰退期を迎え、次の大国が生まれるまでの過渡期でした。

オリエントでは、紀元前1200年頃に系統不明の海の民の侵入によってアナトリアのヒッタイト王国、ギリシアのミケーネ文明、エジプトの新王国といった大国が衰退に追い込まれ、その影響を受けたメソポタミア北部のアッシリア、メソポタミア南部のバビロニアも衰退していました。

中国は、殷王朝が滅びて周王朝が誕生した頃でした。インドでは、アーリア人がインダス川上流からガンジス川上流へと移動し始めた時期です。そして日本は、縄文時代でした。

このような大国の衰退によって、メソポタミアとエジプトに挟まれた地域であるシリア・パレスチナでは、権力の空白が生まれます。そのような中、多くの小国が誕生し、ダヴィデ王が生まれたヘブライ王国もその1つでした。

ユダヤ人とヘブライ王国

ユダヤ人がユダヤ人と呼ばれるようになるのは紀元前586年のバビロン捕囚以降であり、この頃はヘブライ人と呼ばれていました。ヘブライ人というのは他民族からの呼称であり、自分たちではイスラエル人と言っていました。ヘブライ人は紀元前1500年頃からシリア・パレスチナ地方に定住していたセム語系の民族です。聖書によると、ユダヤ人の父祖アブラハムがカナンの地(パレスチナ)を神から与えられ、メソポタミア南部のウルからカナン(パレスチナ)に移動したとされています。

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ヘブライ人には12の部族があり、選挙で民族指導者である士師を選出していました。そんな中、次第に民から王政を望む声が高まります。そこで士師サムエルは、神の指示によりベニヤミン族の背が高く美しい若者サウルを選び、最初の王とします。ヘブライ王国の誕生です。ヘブライ王国のことも自分たちではイスラエル王国(古代イスラエル王国)と呼んでいましたが、一般的にはこの時の王国のことをヘブライ王国と呼び、紀元前922年頃に分裂した北半分の国をイスラエル王国と呼びます。

王となったサウルはペリシテ人など周辺民族と戦い、勝利していきます。しかし、アマレク人との戦いに勝利した際、女子供家畜も含め皆殺しにせよ、という神の命令に背いて、アマレク人を憐れみ皆殺しにはしませんでした。神の命令に背いたサウルは、神から見放されます。酷い神様ですね。

ダヴィデ王の生涯

竪琴の腕前を買われ王の側近になる

左がサウル王、右が竪琴を奏でるダヴィデ

神の命令を受けた士師サムエルは、サウルに代わる王を探します。ユダ族、ベツレヘムにいた羊飼いの美しい少年ダヴィデに目を止め、王となるべき人物と認めます。その日からサウルは悪霊に苛まれますが、竪琴の名人であるダヴィデを側近としたことで、竪琴の音色を聴いたサウルは心が休まりました。ダヴィデは竪琴の名人かつ戦士だったため、王の側近としてこの時から重要人物となります。ダヴィデが生まれたのは紀元前1040年とされています。

ダヴィデとゴリアテ

ダヴィデとゴリアテ(出典:wikipedia)

当時のヘブライ王国は、海の民の一派であるペリシテ人と頻繁に戦っていました。特に、ペリシテ人の中で最強の戦士ゴリアテはヘブライ兵たちに恐れられています。そこで、ダヴィデはゴリアテと一騎打ちすることにします。サウルは鎧と武器をダヴィデに与えますが、ダヴィデの体には合わず、石と投石器で戦うことにします。ダヴィデは石を見事にゴリアテの眉間に命中させ、倒れたゴリアテが持っていた剣を奪い、ゴリアテの首を取ります。ダヴィデの勝利です。ペリシテ軍は総崩れになり、ヘブライ軍の大勝利となります。

サウルから逃れユダ族の王となる

その後もダヴィデは連戦連勝し、王国の英雄として人気者になりますが、嫉妬したサウルはダヴィデを亡き者にしようと企みます。サウルは自分の娘をダヴィデの妻として与える代わりにペリシテ軍と戦わせて戦死させようとしますが、思惑に反してダヴィデは勝利を重ねます。業を煮やしたサウルは部下に命じてダヴィデを殺させようとしますが、なんとかダヴィデは逃れ、逃げ出して各地を転々とします。

そんな中、サウルはペリシテ軍に敗れ、追い詰められて自害します。ダヴィデは出身部族のユダ族のもとに行き、そこでユダ王となります。

サウルの息子を破りヘブライ王国の王になる

ユダ王となったダヴィデはサウルの後を継いだ息子イシュ・ボシェトと戦いますが、イシュ・ボシェトは昼寝中に部下に殺害されてしまいます。ダヴィデの勝利です。紀元前1000年、ダヴィデは2代目ヘブライ国王となり、エルサレムを都とします。

ダヴィデ王の治世

即位したダヴィデはペリシテ人を破り、さらに周辺部族のモアブ人、アラム人、エドム人、アンモン人も破り、領土を大きく拡大します。

ダヴィデは、あるときバト・シェバという美しい女性に心を奪われます。しかし、バト・シェバはウリヤという人の妻でした。そこでダヴィデは、バト・シェバを手にいれるためウリヤを戦場の最前線に送り、戦死させます。ダヴィデとバト・シェバの間にソロモンという男の子が生まれ、ダヴィデはソロモンを後継者にします。ところが、ソロモンは長男ではなく、ダヴィデは他の女性との間に何人も子供がいます。バト・シェバを寵愛するあまり、ソロモンを後継者にしたのです。そのことがダヴィデの子供達の間での骨肉の争いに繋がります。三男アブサロムが長男アムノンを殺し、さらに父ダヴィデに対して謀反を起こし、一時期ダヴィデは都エルサレムを追われます。最終的に謀反は鎮圧されますが、ダヴィデの意に反してアブサロムは殺されてしまいます。

このように子供達の反乱などで国は混乱しますが、ダヴィデは中央集権的な国づくりを進め、ヘブライ王国繁栄の基礎を築きます。

晩年と死

晩年のダヴィデは、アビシャグという若い娘を寝るときに傍に侍らせます。また、ダヴィデの子アドニヤが自ら王を名乗る事件が起こります。しかし、ダヴィデがソロモンを後継者にすると宣言し、ソロモンが次の王に決まります。そして紀元前961年、ダヴィデはこの世を去ります。

ダヴィデ王の死後

ダヴィデの後を継ぎ3代目のヘブライ国王となったソロモンは、「知恵の王」と言われます。聡明なソロモンは内政を重視し、交易を拡大して経済を発展させ、官僚制度を整備します。そして、「ソロモンの栄華」と呼ばれる、ヘブライ王国の最盛期を築きます。

ダヴィデ王にまつわる逸話

ミケランジェロの彫像「ダヴィデ像」

ミケランジェロ「ダヴィデ像」(出典:wikipedia)

ダヴィデといえば、ルネサンス期イタリアの有名な彫刻家ミケランジェロの作品「ダヴィデ像」が有名です。この作品は巨大な大理石から彫り出されており、高さは517cmもあります。この「ダヴィデ像」は、ペリシテ人の戦士ゴリアテとの戦いで、投石器で狙いを定めている場面を表現しています。

イスラエル国旗「ダヴィデの星」

イスラエル国旗(出典:wikipedia)

1948年に建国されたイスラエル国の国旗には、「ダヴィデの星」と呼ばれる六芒星が取り入れられています。しかし、ダヴィデ王との関連は不明です。

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