こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、第二次世界大戦中のオランダで、ナチスに迫害される中、隠れ家で『アンネの日記』を書き続けたユダヤ人少女、アンネ・フランクの生涯を解説します。
著書『アンネの日記』は世界的ベストセラーであり、アンネがホロコースト犠牲者のユダヤ人であることは有名です。
若くしてホロコーストの犠牲となり命を落とした彼女ですが、いったいどんな人物であり、幼少期、隠れ家、強制収容所でどんな生活を送ったのでしょうか?
この記事では、まず当時の世界とユダヤ人を取り巻く時代背景を分かりやすく解説し、彼女の生涯を地図を用いて追っていき、最後に逸話を紹介します。
アンネ・フランクが生きた頃の時代背景
世界の状況
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アンネ・フランクは西暦1929年6月12日にドイツのフランクフルトで生まれ、1945年3月上旬に僅か15歳にして生涯を終えます。世界恐慌が始まった1929年に生まれ、1939年、10歳のときに第二次世界大戦が始まり、大戦が終わる年1945年、終戦直前まで生きた人物です。
1929年にアメリカから始まった世界恐慌は瞬く間にソ連を除く世界中に広がり、世界中が深刻な不況となってしまいます。広大な国土を持つアメリカ、植民地を多く持つイギリス・フランスは資源と市場が豊富なためブロック経済を構築して不況に対処しますが、ドイツ・イタリア・日本など植民地が少ない国は資源と市場を求め、対外進出を始めます。これらの国ではナショナリズムが強調され、国の利益が優先されて個人の人権や自由が制限される、ファシズムが台頭していきます。
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ドイツ・イタリア・日本のファシズム諸国と共産主義を掲げるソ連による侵略が始まります。イギリス・フランスはドイツをソ連に対する防波堤とするため、ミュンヘン会談などの宥和政策を取って懐柔しようとします。しかし、逆に増長させてしまい、さらに侵略戦争がエスカレートしていきます。その後、もともと不倶戴天の敵であったドイツとソ連が不可侵条約を結びお互いの侵略戦争を認め合って背後の安全を確保します。ドイツはイギリス・フランスとの戦争に向かい、第二次世界大戦が勃発します。
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フランスを破ってヨーロッパの大半を支配下に入れたヒトラー率いるドイツは、もともと不倶戴天の敵であった共産主義国家のソ連にも侵攻します。ソ連と米英は敵対していましたが、ドイツ打倒のため手を結びます。そしてアジアでは日本が真珠湾攻撃を行なってアメリカ・イギリス・オランダに宣戦布告し、第二次世界大戦は世界規模に広がります。序盤は枢軸国が優勢でしたが次第に連合国が逆転し、最終的には連合国の勝利で終わります。
このように、世界恐慌が発生して全世界不況となる中でファシズムが台頭し、ファシズム国家の侵略により第二次世界大戦が勃発して最終的に連合国の勝利で終戦するまでが、アンネ・フランクが生きた当時の世界の状況です。

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ユダヤ人とは
アンネ・フランクはユダヤ系ドイツ人です。ここで少しユダヤ人について解説します。
もともとはヘブライ人と呼ばれた、紀元前1500年頃からシリア・パレスチナ地方にいたセム語系の民族です。ヘブライ人は一神教のユダヤ教を作り、信仰します。紀元前11世紀末にヘブライ王国が建てられ、紀元前10世紀に全盛期を迎えますが紀元前922年頃に分裂します。北のイスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされます。南のユダ王国は新バビロニアに紀元前586年に滅ぼされ、このとき多くのヘブライ人がバビロンに連れ去られます。これをバビロン捕囚といい、この頃からヘブライ人はユダヤ人と呼ばれます。


紀元前538年に宗教に寛容なアケメネス朝ペルシアによって解放されてユダヤ人がパレスチナに戻ると、そこで一定の自治も認められます。紀元前332年からのヘレニズム時代にはさまざまな国の支配を受けながら内紛が続き、やがてローマに介入をされ、紀元前63年からローマの支配を受けます。ローマの支配は過酷で、ユダヤ人は抵抗を試みますが弾圧されます。2世紀前半にユダヤ人はローマ帝国によってパレスチナを追い出され、地中海、ヨーロッパ、メソポタミアなど世界各地に離散していきます。これをディアスポラといいます。
その後は各地で保護されたり迫害されたりを繰り返しますが、19世紀になるとパレスチナにユダヤ人国家を建設しようという動きが盛んになり、ユダヤ人入植者が増えていきます。これをシオニズムといいます。1914年に始まった第一次世界大戦でパレスチナを支配するオスマン帝国と戦ったイギリスは、各勢力の協力を得るため三枚舌外交を行います。ユダヤ人にパレスチナでの国家建設を約束する一方でアラブ人にも同様に国家独立を約束、さらにフランス・ロシアとはパレスチナの分割統治の約束をします。これが21世紀現在も続いているユダヤ人とアラブ人の対立の原因です。第二次世界大戦ではナチス・ドイツによって大量虐殺され、約600万人のユダヤ人が亡くなります。これをホロコーストといいます。大戦後の1947年、国連によってパレスチナをユダヤ人とアラブ人の居住地域に分割することが決定し、念願のユダヤ人国家イスラエルが建国されます。しかし、両者は納得せず、何度も戦争が勃発し、ユダヤ人とアラブ人の争いは続いています。
ナチスによるユダヤ人迫害(ホロコースト)
アンネ・フランクはナチス・ドイツによるユダヤ人迫害(ホロコースト)の犠牲者です。ここで少しホロコーストについて解説します。
キリスト教徒が大多数のヨーロッパにおいて、中世の頃から、宗教的対立による異教徒迫害の1つとしてユダヤ教徒を蔑視する風潮はありました。19世紀後半になると、ユダヤ人を宗教的な反感ではなく人種差別としての反ユダヤ主義が生まれます。西ヨーロッパのキリスト教徒はほぼインド=ヨーロッパ語族のアーリア人であり、セム語系のユダヤ人をアーリア人に比べ劣った人種だという考えです。もともとアーリア人とは言語的分類によって定義されたものでしたが、誤った解釈により人種や民族を指すものとして用いられます。
20世紀初頭の多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンでも、各民族の民族運動に脅かされていた支配階級ドイツ人の間で、ドイツ人の民族的優位を主張する考えが広まっていました。ここで青年時代を過ごしたアドルフ・ヒトラーもその影響を強く受け、ドイツ人を含むゲルマン民族などのアーリア人種が最も優れた人種であり、ユダヤ人が最も劣っている、という思想を持ちます。明らかに偏った思想ですが、経済的成功者の多いユダヤ人によるユダヤ資本の支配に反発する民衆の支持を得て、ヒトラー率いるナチスは1933年にドイツで政権を獲得します。
ドイツの総統になったヒトラーはユダヤ人排斥・絶滅政策を進めます。1935年のニュルンベルク法で公民権を奪い、1938年にはドイツ全土でユダヤ人商店が襲撃され破壊される水晶の夜事件が発生します。1939年の第二次世界大戦勃発以降は占領地でもユダヤ人を排斥して強制収容所に収容し、過酷な強制労働に従事させ、多数の死者が発生します。1942年1月、ユダヤ人絶滅政策が本格化され、ゲシュタポ(秘密警察)がその任務を行います。労働可能な者に強制労働をさせる強制収容所に加え、労働できない者を毒ガスで即殺害するための絶滅収容所も建設されます。1945年にドイツが降伏して第二次世界大戦が終戦するまでに、約600万人のユダヤ人がホロコーストの犠牲となりました。これはヨーロッパにいたユダヤ人の約半数といわれます。
このように、ユダヤ人のアンネ・フランクは、ナチス・ドイツにより迫害される対象だったのです。最期はアンネ・フランクも強制収容所の過酷な環境で病死します。
アンネ・フランクの生涯
ドイツのフランクフルトで生まれる

アンネ・フランクは1929年6月12日に、ドイツ西部のフランクフルトで生まれました。アンネというのは愛称で、正式にはアンネリース・マリー・フランクといいます。
父のオットー・フランクはユダヤ系ドイツ人で、銀行を経営していました。母のエーディト・フランクはアーヘンの有名な資産家の娘で、アンネの3歳年上に姉のマルゴット・フランク(愛称マルゴー)がいました。アンネは次女で、父・母・姉との4人家族です。

フランク一家はユダヤ人ですが、ユダヤ教にあまり熱心ではありませんでした。アンネが生まれた時は一家でアパートに住んでいましたが、1929年に発生した世界恐慌の影響でオットーの銀行業の業績が悪化し、節約のため1931年にオットーの母が住んでいる家に移ります。これはフランクフルトの中での移動です。

ナチス政権から逃れるためアムステルダムに移住

1933年1月30日、アンネ3歳のとき、ヒトラーがドイツ首相となり、彼が率いるナチスがドイツの政権を獲得します。反ユダヤを掲げるナチスが政権を獲得したことで、危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人たちはドイツ国外へ亡命し始めます。そんな中、母エーディトの弟エリーアスの提案により、父オットーがジャムの原料を製造するオペクタ商会のオランダ支社を経営することになり、フランク一家はオランダ首都アムステルダムへ亡命することになります。

1933年6月、アンネ4歳のとき、まず父オットーが単身でアムステルダムに移って仕事を軌道に乗せ、その間アンネ・姉マルゴー・母エーディトの3人はエーディトの母ローザ(アンネの母方祖母)が暮らすドイツ西部のアーヘンへ移り、一時的にそこで暮らします。

やがてオットーの仕事が安定して一家で住むアパートも購入し、全員でアムステルダムに移住する準備が整います。まず1933年12月に母エーディトと姉マルゴーが向かい、翌1934年2月にアンネもアムステルダムのアパートに移ります。ここから1944年8月、15歳のときにゲシュタポに連行されるまで、4歳から15歳のあいだ、アンネは人生のほとんどの期間をアムステルダムで過ごします。

学校に通って楽しい少女時代を過ごす
姉のマルゴーは普通の小学校に入学しますが、アンネはモンテッソーリ・スクールの附属幼稚園に入園します。そして6歳になった1935年9月、モンテッソーリ・スクールに入学します。モンテッソーリ・スクールとは、時間割もない自由な教育を行う学校です。明るく陽気でおしゃべりな性格のアンネにぴったりの校風でした。一方、姉のマルゴーは聡明で真面目な子でした。
モンテッソーリ・スクールはユダヤ系ドイツ人の子供が多く、アンネと同じくドイツから亡命してきた子がたくさんいました。その中でアンネはハンネリ・ホースラル(愛称ハンネ)、スザンネ・レーデルマン(愛称サンネ)と特に仲良しで、「アンネ、ハンネ、サンネの3人組」と呼ばれていました。特にハンネとは家族ぐるみで親しく付き合っていました。アンネは男子にも人気で、1937年秋、8歳のときに初めてのボーイフレンドができます。アンネは明るく陽気で映画スターやファッションに興味を持つ女の子でした。しかし、身体は病弱で麻疹やリウマチなど小児病に多く罹患しています。

1939年3月、アンネ9歳のときには、アーヘンにいた頃一緒に暮らしていた祖母ローザがアムステルダムに亡命してきて、フランク一家は5人暮らしになります。アンネはおばあちゃんっ子で、ローザが大好きでした。
ドイツ軍のオランダ占領

1939年9月1日、アンネ10歳のときに始まった第二次世界大戦に対してオランダは中立でした。しかし、翌1940年5月10日、ドイツはオランダに侵攻します。ユダヤ人の中にはイギリスに逃亡する者もいましたが、ほとんどは脱出できませんでした。フランク家は逃亡せず、アムステルダムに留まります。侵攻から5日後の5月15日にオランダは降伏し、アムステルダムはドイツの占領下に入ります。5月28日にはベルギーが降伏、6月22日にはフランスも降伏し、イギリスを除く西ヨーロッパの大半がドイツの支配下に入ります。


ドイツに占領されたアムステルダムでは、ユダヤ人迫害が始まります。1941年1月、アンネ11歳のときからユダヤ人は映画館に入れなくなり、5月には公園やプールなど公共施設への立ち入りを禁止されます。アンネはプールに入れないことをとても残念がりました。さらに1941年8月、アンネ12歳のときにユダヤ人はユダヤ人学校以外の学校に通ってはならないという法律が制定されます。アンネはモンテッソーリ・スクールに通えなくなり、マルゴーとアンネはユダヤ人中学校に転校します。このユダヤ人中学校にはハンネも一緒に通うことになりますが、サンネは別の学校に通います。ユダヤ人中学校で、アンネは新たな親友ジャクリーヌ・ファン・マールセン(愛称ジャック)と仲良くなり、頻繁にお互いの家に泊まりあったりします。
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1942年1月29日には祖母ローザが癌で亡くなります。おばあちゃんっ子のアンネは非常に悲しみました。1942年1月、ユダヤ人絶滅政策が本格化され、ゲシュタポ(秘密警察)がその任務に当たります。1942年4月29日には、ユダヤ人は黄色いダヴィデの星のワッペンを付けることが義務付けられます。

13歳の誕生日プレゼントにもらったサイン帳に日記を書く
1942年6月12日、アンネ13歳の誕生日、父オットーからサイン帳をプレゼントされます。アンネはこれを日記帳として使うことにし、その日に最初の日記を書いています。後に世界的ベストセラーになる『アンネの日記』執筆の始まりです。アンネの日記は「キティー」という架空の女の子宛てに手紙を書くという設定で書かれています。最初の日記は以下のように記されていました。
1942年6月12日
あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを、何もかもお話しできそうです。どうか私のために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。(出典:アンネ・フランク『アンネの日記』)

隠れ家での潜伏生活が始まる

1942年1月からユダヤ人狩りが本格化されると、ユダヤ人はポーランドへ連行されてそこで虐殺されるという噂が流れます。危険が迫っていると感じた父オットーと会社の相談役ヘルマン・ファン・ペルスは、会社が入っている建物の裏に繋がっている「後ろの家」を隠れ家に決めます。この「後ろの家」がある建物の構造はアムステルダムにはよくある形状です。1941年中頃から1年近くもかけて徐々に家財道具を運び入れ、フランク家とファン・ペルス家全員でそこに身を隠す準備を進めていました。会社の非ユダヤ人社員であったミープ・ヒース、ヨハンネス・クレイマン、ヴィクトール・クーフレル、ベップ・フォスキュイルの4人も、この計画に協力してくれ、隠れ家潜伏生活が始まってからも食料や日用品をこっそり調達するなど全面的に協力します。もし隠れ家が見つかった場合は彼らもただでは済まないのに、身を挺して協力してくれたのです。

こうしていつでも隠れ家に入れる準備を進めていたところ、1942年7月5日、姉マルゴーに対してナチスから出頭を命じる通知が届きます。これはアムステルダム中の15〜16歳のユダヤ人少年少女を対象としたもので、出頭すれば強制収容所で労働させられます。いよいよです。父オットーはすぐに全員で潜伏生活を始めることに決めました。翌7月6日早朝、フランク一家はアパートを出て隠れ家に移動します。その日から隠れ家での潜伏生活が始まりました。その日の昼、アンネの親友ハンネとジャックはアンネの家を訪れますが、既にもぬけの殻でした。7月13日からはファン・ペルス一家が、11月16日からは歯科医のフリッツ・プフェファーも合流します。フランク家は父オットー、母エーディト、長女マルゴー、次女アンネの4人です。ファン・ペルス家は父ヘルマン、母アウグステ、長男ペーターの3人です。歯科医のプフェファーは1人です。隠れ家潜伏生活のメンバーはこの合計8人でした。



会社と隠れ家の建物について少し解説します。まず1階は全面大きな倉庫になっていて、ここは会社の建物、「後ろの家」ともに店舗として使われています。2階はまず会社の建物に大きな事務室があり、ミープ、クレイマン、ベップなどが事務仕事をしています。その奥に役員室があり、さらにその奥、「後ろの家」の2階部分に社長室があります。3階には会社の建物に商品貯蔵室があり、この3階にある本棚の後ろに隠れた秘密の入口から、「後ろの家」3階部分、隠れ家に入ります。隠れ家の3階にはフランク一家の居間兼フランク夫妻の寝室と、アンネ・マルゴー姉妹の勉強部屋兼寝室があります。プフェファー合流後はマルゴーがフランク夫妻の部屋に移動し、プフェファーはアンネと一緒の部屋になります。隠れ家の4階はガスコンロ付きキッチン、洗面台、トイレと、ファン・ペルス夫妻の寝室兼居間兼全員の居間と、ペーターの部屋があります。さらにその上には屋根裏部屋もあります。潜伏生活にしてはかなり快適な環境ですね。
潜伏生活にしては快適とはいえ、外に一切出ることができず食料や日用品等も限られ、狭い空間で8人が一緒に暮らすというのは、かなりのストレスです。隠れ家のことを打ち明けていない会社の従業員も昼間は会社で働いているため、存在を気づかれないように物音に気をつけないといけません。そういったストレスから、人間関係が悪化することもありました。アンネと母エーディトは対立することが多くなります。ちょうどアンネは反抗期なので、仕方ないことですが。アンネは父オットーのことは大好きなので、よく父オットーが2人の仲裁に入ります。日記にも最初の頃は母エーディトの批判をする記述が多いですが、徐々に精神的に成長したアンネは攻撃を緩め、反省します。また、母エーディトは優等生の姉マルゴーを見習うようにいつもアンネに言っていたので、姉マルゴーをやっかむことも多くありました。しかし、やがて親への不満を共通の話題として、姉妹の仲が良くなります。また、ファン・ペルス夫妻やプフェファーと対立することもありましたが、そのようなときは母エーディトは必ずアンネの味方をします。アンネはアウグステ(ファン・ペルス夫人)への批判をよく日記に書いています。
しかし、楽しいときもたくさんありました。隠れ家では、お祝い事をよくしていました。毎週金曜日のユダヤ教安息日、メンバー8人の誕生日、クリスマス、新年などでは、みんなでテーブルを囲んで祝い、ふざけたりしてみんなで大笑いして楽しい時間を過ごします。
また、1944年に入ると、アンネはファン・ペルス家長男のペーターと恋仲になっていき、屋根裏部屋で2人で過ごすことが多くなります。4月16日、アンネ14歳のとき、初めてアンネはキスをします。日記にもそのことを記していました。
隠れ家生活は外部と遮断されており、外部との接触はミープ、クレイマン、クーフレル、ベップといった、隠れ家の協力者の非ユダヤ人社員のみでした。彼らを通じて食料や日用品を得るだけでなく、アンネ、マルゴー、ペーターは通信教育を受け、勉強することもできました。さらに、戦争の趨勢や社会情勢を彼らや社長室にあるラジオから聞くことができたため、戦況が連合国側に有利になるにつれ、隠れ家メンバーは解放の時が近づいたと大喜びします。特に1943年9月8日のイタリア降伏、1944年6月6日の連合軍ノルマンディー上陸は大きな嬉しいニュースでした。
すべての人が尊重され愛と平和が実現される世界を願う
アンネは、中学生にして戦争中に迫害され潜伏生活を送るという、想像を絶するほど過酷な環境の中でも、決して希望を失わず、未来を見つめ続けていました。そんなアンネの将来の夢は、ジャーナリストか作家になることでした。アンネは戦後に日記を出版しようとしていたため、途中からは出版を意識して執筆したり、書き直したりしました。
1944年4月5日
はたしてこのわたしに、なにか立派なものが書けるでしょうか。いつの日か、ジャーナリストか作家になれるでしょうか。そうなりたい。ぜひそうなりたい。(出典:アンネ・フランク『アンネの日記』)
アンネは、すべての人が尊重され愛と平和が実現される世界を願う思いを、日記に書きます。普通ならドイツやナチスを憎む気持ちでいっぱいになると思いますが、アンネはそれでも「人間の本性は善」と信じます。
1944年7月6日
誰もが幸福になりたいという目的を持って生きています。生き方はそれぞれ違っても、目的はみんな同じなんです。(出典:アンネ・フランク『アンネの日記』)
1944年7月15日
なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。(出典:アンネ・フランク『アンネの日記』)
1944年7月15日
わたしは思うのです。いつかは全てが正常に復し、今のこういう惨害にも終止符が打たれて、平和な、静かな世界が戻ってくるだろう、と。それまでは、なんとか理想を保ち続けなくてはなりません。(出典:アンネ・フランク『アンネの日記』)
日記は8月1日を最後にして終わっています。アンネは15歳になっていました。
ナチスに捕まり過酷な強制収容所に送られる
1944年8月4日朝、隠れ家が見つかりました。SD(ナチス親衛隊情報部)とオランダ人警官数名が会社の建物に入ります。彼らはミープ、クレイマン、ベップに銃口を突きつけ、クーフレルに、「ユダヤ人が匿われていることは分かっている。案内しろ。」と指示します。クーフレルはなすすべなく、観念して隠れ家を案内します。警官たちが家宅捜索を行い、アンネを含む隠れ家メンバー8人全員が拘束され、連れて行かれます。クーフレルとクレイマンも連行されますが、ミープとベップ、他の従業員たちは拘束されずに済みます。このとき、ミープがアンネの日記を保管しました。連合軍は既に北フランスに上陸していましたが、オランダまで到達するのはまだずっと先でした。
非ユダヤ人のクーフレルとクレイマンは、ユダヤ人たちとは別にされ、拘置所を経てドイツ国内の労働収容所に送られますが、その後釈放・脱走によって市民生活に戻ります。
隠れ家メンバーの8人はその日一晩はSD本部で取り調べを受けて過ごし、翌8月5日に拘置所へ移されます。

8月8日、隠れ家メンバー8人はオランダ北東部のヴェステルボルク収容所に移されます。ここは一時的に拘留しておく通過収容所です。

ここで男性は丸刈り、女性は短髪にさせられ、アンネも髪を切られます。このヴェステルボルク収容所で、フランク一家はド・ヴィンテル一家と仲良くなります。この一家は父マヌエル、母ローザ、娘ユーディーの3人家族でした。さらに、アンネ、マルゴー、エーディトは、この収容所で同じ作業をしていたヤニーとリーンチェの姉妹とも仲良くなります。

1944年9月3日、隠れ家メンバー8人とド・ヴィンテル一家、ヤニーとリーンチェ姉妹は一緒にポーランド南部のアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所へ移動する列車に乗せられ、3日後の9月6日に到着します。ここで労働可能な者と労働できない者に分けられ、労働不能と判断された者はすぐにガス室に送られて虐殺されます。今回の移送で送られてきたうち約半数がガス室送りになりましたが、アンネたちは全員労働可能と判断され、ガス室送りは回避できました。また男女が分けられ、父オットー、ヘルマン・ファン・ペルス、ペーターとは今生の別れになります。女性はビルケナウ収容所に入れられ、男性はアウシュヴィッツに入れられます。


ここでは女性も丸刈りのため、アンネも丸刈りにされます。ビルケナウでのアンネは、エーディト、マルゴー、ローザとユーディーのド・ヴィンテル母娘と一緒に過ごしました。食料はわずかなパンしか与えられず、不衛生な環境でシラミやダニに喰われます。

10月28日、ソ連赤軍の接近に伴い、アンネとマルゴーはドイツ北部のベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送られることが決まります。母エーディトはビルケナウに留まることにされたため、母エーディトとはここで今生の別れになります。
ベルゲン・ベルゼン強制収容所はもともと捕虜交換のための収容所で、他の収容所と比べてマシなはずでした。しかし、劣悪な衛生環境により病気が大流行していました。食料もほとんど与えられず、餓死者と病死者が多数発生しています。ここでアンネとマルゴーはヤニーとリーンチェの姉妹と再会し、4人で一緒に過ごします。食料はさらに減らされ、アンネの顔は痩せこけて目だけになってしまったようだったと言います。
11月には、アウグステ・ファン・ペルスが移送されてきて再会します。1945年1月には、マルゴーが衰弱して危篤になる中、別の区画にいた親友ハンネ(ハンネリ・ホースラル)と有刺鉄線越しに再会します。ハンネの証言によると、その時のアンネはかつての明るさや陽気さ、隠れ家生活の頃の未来への希望など全くなく、完全に打ちひしがれた様子だったそうです。2人は泣きながらお互いの境遇とこれまでの生活を語り合います。その後も3回か4回有刺鉄線越しに話をしますが、2月末にアンネがベルゲン・ベルゼン内の別の収容所に移され、会うことはなくなりました。

終戦直前に発疹チフスにかかり病死

1944年9月のマーケット・ガーデン作戦失敗により1944年中の早期終戦はならず、西部戦線の連合軍は1945年3月にようやくライン川を超えてドイツ国内に進撃します。1945年4月15日にはイギリス軍がベルゲン・ベルゼン収容所を解放します。しかし、時すでに遅しでした。アンネとマルゴーは収容所で流行していた発疹チフスにかかり、正確な日付は分かっていませんが、3月上旬頃、まずマルゴーが、2、3日後にアンネが息を引き取ります。アンネは父オットーと母エーディトは既に亡くなったと考えていました。そのため、姉マルゴーの死により、家族が全員亡くなってひとりぼっちになったと思い、もう生きる気力が無くなったのでしょう。
アンネ・フランクの死後
ドイツが敗北し第二次世界大戦は連合国の勝利で終わる
1945年3月から西部戦線の連合軍はライン川を超えてドイツ本土に侵攻し、東部戦線のソ連軍も4月からベルリンとウィーンを攻撃します。ドイツに抵抗する力はもはやなく、1945年4月30日に総統ヒトラーが自殺、5月8日にドイツは連合国に無条件降伏します。オランダやフランスなどの西欧諸国は自由を取り戻し、一旦平和が訪れます。ドイツ降伏でヨーロッパでの戦争は終わりましたが、まだアジアでの戦いが残っていました。唯一の枢軸国となった日本は未だに抵抗を続けていましたが、原爆2発を投下され、ソ連も対日参戦したことで、8月15日に日本は連合国に無条件降伏します。こうして、ユダヤ人約600万人を含め世界全体で約5000〜8000万人が犠牲となった、人類史上最大の戦争である第二次世界大戦が幕を閉じます。ようやくアンネが願った平和な世界が訪れるかに見えましたが、もともと対立していた米英など西側諸国とソ連の対立が鮮明となってすぐに冷戦の時代に入ります。ユダヤ人も悲願を叶えてイスラエルを建国しますが、アラブ諸国との紛争が絶えません。
生き残った父オットーと親友ハンネとジャック
隠れ家メンバー、そしてアンネの家族で唯一生き残ったのが父オットーでした。オットーはアウシュヴィッツに収容されており、1945年1月27日にソ連軍に解放されました。その後1945年6月3日にアムステルダムに帰還し、会社の取締役に復帰します。また、住む家が無かったためミープ・ヒースとヤン・ヒースの夫妻が自宅に同居させてくれました。オットーは娘たちの情報を探しますが、7月18日にベルゲン・ベルゼンでアンネやマルゴーと一緒にいたヤニー・ブリレスレイペルから、2人の死を聞きます。それを聞いた瞬間、オットーは顔面蒼白になり崩れ落ちます。
親友ハンネ(ハンネリ・ホースラル)も生きていました。別の収容所に移送されるときに列車がソ連軍の攻撃を受けて解放され、その後アメリカ軍によってマーストリヒトに移され、7月から9月まで入院して体を回復させます。そこにアンネの父オットーが訪れ、2人は再会します。ハンネも家族を全員失っていたため、しばらくオットーがハンネの父親代わりになります。ハンネはパレスチナで看護婦になるのが夢だったため、オットーの助けにより、1947年に建国直後のイスラエルに行き、イスラエルで暮らします。その後もオットーとの交流は続いています。

もうひとりの親友ジャック(ジャクリーヌ・ファン・マールセン)も生きていました。ジャックは、母が非ユダヤ人だったことで、母の尽力によりユダヤ人狩りの対象から外されます。普通の学校に通い、戦後にオットー・フランクと再会します。その後もアムステルダムで暮らし、1952年にイギリスに留学します。オットーとの交流は続き、1990年にアンネとの友情について書いた本『アンネとヨーピー』を出版します。
著書『アンネの日記』が世界的ベストセラーになる
アンネの死を知ったミープ・ヒースは、「日記」を「アンネのお父さんへの形見です」と言ってオットーに渡します。オットーはこの日記を広めたいと思い、アンネのかいたオランダ語からドイツ語に翻訳し、親戚や友人に配ります。アンネは日記の出版を夢見ていたため、オットーも出版業者を探します。そんな中、友人ヴェルナー・カーンの上司ヤン・ロメインが雑誌にレビューを書くと、これに興味を持ったアムステルダムの出版業者コンタクト社が出版してくれることになります。

1947年6月25日、オランダ語で『後ろの家』というタイトルで出版されます。さらに1950年にドイツ語版とフランス語版で『アンネ・フランクの日記』というタイトルで、1952年には英語版『少女の日記』と日本語版『光ほのかに アンネの日記』が出版されます。瞬く間に世界中に翻訳版が出版され、『アンネの日記』は世界的ベストセラーになります。

1944年4月5日
はたしてこのわたしに、なにか立派なものが書けるでしょうか。いつの日か、ジャーナリストか作家になれるでしょうか。そうなりたい。ぜひそうなりたい。(出典:アンネ・フランク『アンネの日記』)
1944年4月5日
周囲のみんなの役に立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。わたしの周囲にいながら、実際にはわたしを知らない人たちに対しても。わたしの望みは、死んでからもなお生き続けること!
(出典:アンネ・フランク『アンネの日記』)
アンネの夢は叶い、立派な作家として人々に喜びを与えています。今なお、アンネは世界中の人々の心の中に生き続けているのです。
父オットーのその後の人生
1952年、オットー・フランクは母と姉がいるスイスに移住します。そして1953年、エルフリーデ・ガイリンガーと再婚します。エルフリーデもユダヤ人で、強制収容所に送られ夫と息子を亡くしていました。エルフリーデと娘エファだけが生き残ります。娘エファはアンネと同い年で知り合いだったため、エファがアムステルダムでオットーを見つけたことで知り合いました。オットーとエルフリーデの間には子供はいません。その後もオットーは1980年に亡くなるまで、アンネの残した寛容と思いやりのメッセージを世界中に広め続けました。『アンネの日記』の読者から届く手紙に対して、何千通もの返事も書いています。

〜『アンネの日記』日本語訳を読んで〜歴史ワールド管理人ふみこ
管理人も『アンネの日記』の日本語訳を読みました。読む前、アンネに対して抱いていたイメージは「ホロコースト犠牲者」「悲劇の少女」「かわいそう」といったものでしたが、読み進めるにつれて、そんなイメージは無くなっていきます。豊かな感性を持つ思春期の少女が内面的に成長していく物語、というイメージに変わり、楽しく読んでいきました。ところが、1944年8月1日を最後に、日記が突然終わります。この直後にアンネはナチスに連行されたのです。その瞬間、心にぽっかり穴が空いたような喪失感に襲われ、その後の悲惨な運命を思い出して目頭が熱くなりました。間違いなくアンネには文章を書く才能があると思います。世界的ベストセラーとなったのは、悲劇性や歴史史料としての重要性だけでなく、読み手を惹きつける素晴らしい文章だからだと思います。ぜひみなさんにも『アンネの日記』を読んでほしいです。
アンネ・フランクにまつわる逸話
隠れ家をナチスに密告した人物
アンネが暮らしていた隠れ家がナチスに見つかったのは、密告者がいたからという可能性が高いです。可能性が高いのは、ユダヤ人公証人のアーノルド・ファンデンベルフという人物です。おそらく、彼自身も自分の家族を守るためにナチスに有益な情報を提供するため、仕方なく裏切った可能性が高いです。
いつでも両肩を脱臼させることができた
アンネには、いつでも両肩を脱臼させることができるという特技がありました。これは親友のハンネ(ハンネリ・ホースラル)の証言によるものです。
アンネ・フランク年表
1929年6月12日 | ドイツのフランクフルトで生まれる |
1933年6月 | アーヘンの祖母の家で暮らす |
1934年2月 | アムステルダムに移住する |
1940年5月 | ドイツ軍がアムステルダム占領 |
1942年6月12日 | 『アンネの日記』執筆開始 |
1942年7月6日 | 隠れ家で潜伏生活を始める |
1944年8月4日 | 隠れ家が見つかりナチスに連行される |
1944年8月8日 | ヴェステルボルク通過収容所へ移される |
1944年9月3日 | アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所へ移される |
1944年10月28日 | ベルゲン・ベルゼン収容所へ移される |
1945年3月上旬頃 | 発疹チフスにかかり病死 |