【ヘンリー5世】放蕩王子から最高の名君に!?フランス征服を夢見た英国王の生涯を分かりやすく解説!

出典:wikipedia

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!

今回は、15世紀初頭に、巧みな外交と軍事により百年戦争を有利に進めてフランス征服を夢見るも、夢半ばで若くして病死したイングランド王、ヘンリー5世の生涯を分かりやすく解説します。

日本では歴史の教科書にも登場しませんが、イギリスでは非常に人気の高い国王の1人です。シェイクスピアの作品で放蕩王子から最高の名君になった庶民派国王として描かれていることもありますが、初めての英語を話す国王であり、「イングランド人」としてのナショナリズムを広めた国王であったことも人気の理由の1つです。

この記事では、まず当時の世界とイングランドの時代背景を分かりやすく解説し、彼の生涯を地図を用いて追っていき、最後に逸話を紹介します。

目次

ヘンリー5世が生きた時代の世界とイングランドの状況

世界の状況

ヘンリー5世は西暦1387年9月16日にウェールズのモンマス城で生まれ、1422年8月31日で34歳にして生涯を終えます。14世紀末〜15世紀前半に生きた人物です。

15世紀前半は、封建制・荘園制を土台とする「中世」の社会から、中央集権・主権国家を土台とする「近世」の社会への移行が徐々に始まっていた時期です。

また、15世紀後半以降の大航海時代に向けた準備の期間であり、危機と停滞の時代から交易と発展の時代への過渡期でもあります。

14世紀は北半球の各地で不作や飢饉が続いて政情不安になり、ペスト(黒死病)が流行するなど、危機と停滞の時代でしたが、15世紀前半に各地の経済は回復に向かい、中国の明では永楽帝のもとで全盛期を迎え、朝貢貿易の活性化をねらい鄭和がアジア・アフリカに航海した南海遠征が行われました。そして15世紀後半からは、ヨーロッパのイベリア半島でレコンキスタ(キリスト教徒によるイスラーム教徒に対する国土回復運動)を完了させたスペインとポルトガルが、イスラーム世界を介さないアジアとの直接交易とキリスト教布教を目指してアメリカ・アジア・アフリカに進出した、大航海時代の始まりとなります。

オリエントでは1000年以上続いたビザンツ帝国(東ローマ帝国)が15世紀に入ると風前の灯となり、1453年にはオスマン帝国に滅ぼされます。オスマン帝国はバルカン半島やアナトリアの支配地を拡大しながら発展を始め、中央アジアではティムール帝国が大帝国を築いています。一方、ロシアではキプチャク・ハン国の支配が続く中でビザンツ帝国の後継者を自称するモスクワ大公国が台頭を始め、モンゴル高原ではオイラトが北元を滅ぼしてモンゴル高原の支配者となります。インドでは北部のデリー・スルタン朝、中部のバフマニー朝、南部のヴィジャヤナガル王国が並立し、東南アジアのベトナムでは大越国(黎朝)が成立、明と明が支援するチャンパーと対立します。マレーシアでは明の支援のもとマラッカ王国が中継貿易で繁栄します。アメリカ大陸ではアステカ王国とマヤ文明、インカ帝国が発展しています。

そして日本は、室町幕府の全盛期を迎えていました。

このように、領主の権力が強い封建制・荘園制を土台とする中世社会から、王権が強い中央集権・主権国家の近世への移行が始まり、危機と停滞の時代から交易と発展の時代への過渡期にあたる時期が、ヘンリー5世が生きた当時の世界の状況です。

イングランドの状況

1339年にイングランド王エドワード3世が始めた百年戦争は、序盤のイングランドの快進撃とその後のフランスの反撃を経て、ほぼ開戦前の状態に戻って1375年から長期の休戦期間に入りました。

イングランドでは1377年にエドワード黒太子の息子リチャード2世が即位して1383年に親政を開始します。

リチャード2世は諸侯や議会を無視して極端な寵臣政治を行っていたため、諸侯や議会と対立します。対外的には、フランス王シャルル6世の娘イザベラと結婚するなど、フランスとの和平を重視していました。

ヘンリー5世の父、ヘリフォード公ヘンリー・オブ・ボリングブルック(後のヘンリー4世)はリチャード2世の従弟でしたが、国王リチャード2世とは対立していました。

対外政策的には、リチャード2世が和平派、諸侯や議会が主戦派です。リチャード2世によるフランスとの和平交渉は、国内では不人気でした。

ヘンリー5世は、国王と対立する傍系王族の子として生まれるのです!

ヘンリー5世の生涯

父親のクーデターにより王子となる

ヘンリー5世は西暦1387年9月16日にウェールズのモンマス城で生まれます。

父は国王リチャード2世の従弟にしてヘリフォード公ヘンリー・ボリングブルックであり後のヘンリー4世、母はヘレフォード伯ハンフリー・ド・ブーンの次女メアリーです。

生まれた時は王位継承からは遠い位置にいましたが、公爵家の子なので、貴族の中でも上位の暮らしぶりだったようです。

小さい頃はオックスフォード大学クイーンズ・カレッジに通って勉強しますが、1398年、12歳の時に父がリチャード2世によってフランスに追放されてしまったため、短期間の勉強となります。母メアリーも既に他界していたため、両親のいないヘンリー5世を国王リチャード2世は引き取って優遇しました。

ヘンリー4世の父でありヘンリー5世の祖父、ランカスター公ジョンは、リチャード2世の幼少期に摂政をしていて、親政開始後は遠ざけられたが、リチャード2世と、国王に対立する諸侯や議会との仲裁をするなど、バランサーとして国内の対立解消に尽力したため、リチャード2世の信頼を得ていました。

しかし、ヘンリー4世は完全に諸侯や議会の側であり、対仏強硬派でした。ヘンリー4世は議会の場でリチャード2世による諸侯の粛清を批判するなど、反国王の先頭に立ったためリチャード2世の怒りを買い、フランスに追放されてしまいます。さらに1399年2月にランカスター公ジョンが亡くなると、追放刑を終身としてランカスター公家の相続権も剥奪するなど、徹底した制裁を行います。

このヘンリー4世への仕打ちによってリチャード2世と諸侯や貴族との対立は決定的となり、1399年7月にヘンリー4世が挙兵してイングランドに戻ると、諸侯や貴族たちはほとんどがヘンリー4世に味方します。そのときリチャード2世はアイルランド遠征中であり、8月に戻ったところを捕らえられます。

議会の決定により9月29日にリチャード2世は廃位され、ロンドン塔に幽閉されます。そして翌日1399年9月30日に議会の承認のもとヘンリー5世の父、ヘンリー4世はイングランド王に即位します。ランカスター朝の成立です。同時にヘンリー5世も王子(王太子)となり、ウェールズ公になります。

こうして、父のクーデターの成功によってヘンリー5世は王子となり、次期国王のポジションとなったのです!

王子時代の活躍と対仏政策をめぐる父ヘンリー4世との対立

ヘンリー4世はもともと対仏強硬派でしたが、即位後すぐにフランスと対立することはありませんでした。リチャード2世から王位を奪ったばかりでまだその支配が盤石ではなかったため、まずは内政に専念しようと考えます。そのため、1400年5月18日にフランスに使者を送って休戦条約を再確認します。

しかし、内政に専念する暇もなく、大規模な反乱が起こります。ウェールズの豪族オワイン・グリンドゥールによる反乱、グリンドゥールの反乱です。

リチャード2世はウェールズの地位を向上させるなど、ウェールズ人の支持を得ていたため、リチャード2世の凋落とヘンリー4世の即位によって、ウェールズの地位が危うくなります。リチャード2世によって与えられた土地を奪われる者も多く、オワイン・グリンドゥールもその1人でした。

そのような中で、1400年9月16日にオワイン・グリンドゥールがウェールズ公への即位を宣言したことで、本格的に反乱が始まります。その後、反乱はウェールズ全土に広がって1415年までの15年間続きます。

この頃、ヘンリー5世はイングランド軍の一部の指揮を任されるようになっており、グリンドゥールの反乱に対して、自分の軍隊を率いて戦います。

ヘンリー5世は1408年までグリンドゥールの反乱の鎮圧に全力を注ぎます。1408年以降はウェールズの勢力が弱体化したため、後は残党を掃討するような流れとなります。

ヘンリー5世の初陣は大勝利で終わり、さらにウェールズ鎮圧の功績によってイングランド国民の間でも人気が高まってきました。

このように、王子ヘンリー5世の力が強まる中、国王ヘンリー4世は1405年頃から体調を崩してしまいます。政治もままならなくなったため、王子のヘンリー5世が代わりに政治を行い、実質的な支配者となります。1408年の時点でヘンリー5世はすでに21歳となっていました。

ヘンリー5世の政策は、国内政策・対外政策ともに父ヘンリー4世と異なっていました。国内政策は、ヘンリー4世がウェールズなど対立諸侯に厳しかったのに対して、ヘンリー5世は過去の国内対立を全て水に流して1つのイングランドとしてまとまる方針を取ります。対外政策は、ヘンリー4世がフランスへの介入に消極的だったのに対して、ヘンリー5世はフランスの内乱に付け込んで北フランスを征服しようと考えていました。

特に、対仏政策に関する意見の相違から、ヘンリー4世とヘンリー5世父子の仲が一時悪化してしまい、1412年にヘンリー5世をはじめとする主戦派のメンバーが更迭され、ヘンリー5世は政治から遠ざけられてしまいます。しかし、対立していたのは政治方針のみであったため、のちに和解しました。

1413年3月20日、父ヘンリー4世が伝染病によって崩御すると、翌21日にヘンリー5世がイングランド国王に即位します。

国王に即位!イングランド人としてのナショナリズムを出現させる

ヘンリー5世はまず、過去の国内対立を全て水に流して、イングランドを1つにまとめる挙国一致体制の構築に取り掛かります。

ヘンリー5世は、「イングランド人」として即位した最初のイングランド王です。1066年のノルマン・コンクェスト以来、イングランド王家はフランス語を話す「フランス人」であり、英語は征服されたアングロ・サクソン人、つまり庶民の言葉でした。

しかし、ヘンリー5世はフランス語を話さず、英語しか話しませんでした。血筋的には、ヘンリー5世もフランスの血を多く引いていましたが、自らフランス人であることを捨ててイングランド人になることで、イングランドにナショナリズムを出現させようとします。

さらにヘンリー5世は、さまざまな書物の英訳を命じたりと、国語として英語を普及させ、それまでのフランスの一部であった状態から脱却して、「イングランド」という国家の感覚を広めました。

ヘンリー5世の最大の目的は、フランスを征服することです。外の強敵を倒すためには、国内がまとまっていることが必要不可欠と考え、イングランド全体が「イングランド人」として1つにまとまるためのナショナリズムを広めたのです!

百年戦争再開!アザンクールの戦いで大勝利してノルマンディーを征服!

ヘンリー5世が即位した1413年頃、宿敵フランスは内乱の真っ最中でした。1392年に国王シャルル6世が突然精神に異常をきたして以降、アルマニャック派とブルゴーニュ派の2つが王位継承をめぐって権力闘争を激化させていました。

これを好機と見たヘンリー5世は、1414年12月、かつてのアンジュー帝国が支配していたフランスのほぼ西半分の領地とフランス王位を要求して、長らく休戦状態だった百年戦争を再開します。

宿敵フランスが内部で争っている隙に、漁夫の利を得て勝利しようと考えたのです!

ヘンリー5世の頃から、百年戦争はその性格を変えます。「フランス人」同士の戦いであったのが、これからは「イングランド人」と「フランス人」の戦いです。フランス諸侯としてノルマン朝やアンジュー帝国の頃の領土を奪還する内戦から、イングランドの領土を拡大するためにフランスという「外国」を征服する侵略戦争に変わりました。明確に「国」という意識も芽生え始め、領主や諸侯の権力が強い中世から、国王の権力が強い集権的な近世の時代へと徐々に移っていきます。

かつてエドワード3世の頃までは真の目的であったアンジュー帝国の領土奪還やフランス王位の継承も、「イングランド国王」のヘンリー5世には、領土拡大を正当化するための材料にすぎなくなっていたのです。

イングランド王ヘンリー5世は、1415年8月12日、12,000人のイングランド軍と共にノルマンディーに上陸して、フランス北部を蹂躙していきます。しかし、対するフランス側はブルゴーニュ派とアルマニャック派の内紛に明け暮れており、ブルゴーニュ派はイングランド軍への対応を放棄してしまいます。アルマニャック派は、ブルゴーニュ派と内戦をしながら単独でイングランド軍に立ち向かうことになりました。

10月25日、アルマニャック派のフランス軍5万とイングランド軍1万2000が激突します。数の優勢に油断し切ったフランス軍を、イングランド軍の長弓兵が狙い撃ちにし、このアザンクールの戦いはイングランド軍の圧勝に終わります。

アルマニャック派はこのアザンクールの戦いで膨大な犠牲者を出してしまい、弱体化します。これに対してブルゴーニュ派が攻勢を強め、王太子シャルル(のちのシャルル7世)とアルマニャック派をパリから追放してパリを占領します。

アザンクールの圧勝で勢いを得たイングランド軍は1417年8月に大陸に再上陸し、ノルマンディー公領を次々と占領していき、1419年1月にはルーアンまで占領します。

ヘンリー5世率いるイングランド軍に対して内乱に明け暮れていたフランス軍はなすすべなく、ヘンリー5世はノルマンディーの征服に成功したのです!

巧みな外交でフランスを孤立させることに成功!

1378年の教会大分裂によって教皇がイタリアのローマとフランスのアヴィニョンの2つに分立して以降、アヴィニョン教皇庁を支持するカスティリャ王国・アラゴン王国・神聖ローマ帝国内のハプスブルク家などはフランスとの結びつきを強めていました。

そのような中で、1410年に神聖ローマ皇帝に即位したルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝ジギスムントは、ローマ教皇を保護することで皇帝の権威を強化するため、教会大分裂を終結させてローマ教皇を1人に戻そうと画策します。

教会大分裂終結のためにはイングランドとフランスが戦争を続けることが望ましくないと考えたジギスムントは、和平調停のためにヘンリー5世のもとを訪れて、フランスに対する要求を緩和するように説得します。

しかし、ヘンリー5世はジギスムントの目的が教会大分裂終結ということに着目して、教会大分裂終結のために協力することを約束することで、味方に引き入れようとします。ヘンリー5世の作戦は成功して、1416年8月15日、イングランドと神聖ローマ帝国の同盟条約、カンタベリー条約が締結されます。

1417年のコンスタンツ公会議によってローマ教皇が1人に戻ったことで、教会大分裂は終結して、アヴィニョン教皇庁を支持していた国々とフランスとの結びつきが弱まります。

こうして、ヘンリー5世の巧みな外交によって、フランスを孤立させることに成功したのです!

フランス征服の夢

イングランドの快進撃に対して、ブルゴーニュ派は傍観を決め込み、むしろイングランドに接近する構えを見せます。

しかし、1419年7月31日、イングランド軍がブルゴーニュ派の守る都市ポントワーズを略奪したことで、ブルゴーニュ公ジャン1世も親イングランド政策を撤回してアルマニャック派に接近しようとして、9月10日に王太子シャルルと会談しますが、ここで衝撃的な事件が起きます。

王太子シャルルは側近に命じてブルゴーニュ公ジャン1世を殺害してしまったのです!1407年のオルレアン公ルイ暗殺に対する報復でしたが、もうこれでアルマニャック派とブルゴーニュ派の関係は修復不可能となります。

殺されたジャン1世の後を継いでブルゴーニュ公となったフィリップ3世は10月からイングランドとの同盟交渉に入り、12月2日にイングランドとブルゴーニュ派の同盟、「アングロ・ブールギニョン同盟」が成立します。同時に、ブルゴーニュ公フィリップ3世の妹アンヌと、イングランド王ヘンリー5世の弟のヘッドフォード公ジョンの婚約が決まります。

イングランドとブルゴーニュは1420年5月21日、トロワ条約を締結して実質的にイングランド・フランスの二重王国を実現します。その内容は、フランス王シャルル6世の娘であり王太子(シャルル7世)の姉カトリーヌと、ヘンリー5世が結婚し、ヘンリー5世とヘンリー5世の子をシャルル6世の継承者とするものでした。つまり、ヘンリー5世はシャルル6世が亡くなればフランス王となるのです!

あとは厄介なアルマニャック派を倒して、シャルル6世が亡くなれば、ヘンリー5世はイングランド王兼フランス王として、イングランドとフランスを合わせた大帝国が手に入り、フランス征服が実現するのです!

「イングランド人」となったヘンリー5世にとって、フランス王位など実はどうでもよく、欲しいのはフランスの領土でした。

1420年にはブルゴーニュ公国からパリを譲渡され、パリを占領します。

まさか、自分が19歳も年上のシャルル6世より早く亡くなるとは思っていません。英仏二重王国、フランス征服の夢の実現はすぐそこでした。

北フランスを征服するも夢半ばにして崩御

しかし、王太子(シャルル7世)とアルマニャック派はトロワ条約を認めません。アルマニャック派は依然としてフランス中部から南部にかけて大きな勢力を持っており、フランス征服のためには、このアルマニャック派を倒さなければなりません。

1421年から1422年春にかけてヘンリー5世率いるイングランド軍はアルマニャック派に対して連戦連勝して北フランスの大半を征服しますが、1422年8月31日、ヘンリー5世は34歳の若さにして、突然病に倒れて亡くなってしまいます。赤痢にかかって、フランスのパリ郊外ヴァンセンヌ城で亡くなりました。

そしてフランス王シャルル6世も10月21日に54歳で亡くなりますが、ヘンリー5世より後に亡くなったため、フランス王位も継承することができず、ヘンリー5世は結局フランス征服の夢を叶えることはできませんでした。

フランスを征服するという野望を叶えることはできませんでしたが、ヘンリー5世はイングランドにナショナリズムをもたらして英語を母国語として普及させるなど、今日のイギリスの土台を作った、偉大な名君でした!

百年戦争のその後

圧倒的にイングランド優勢で進んでいた百年戦争ですが、ヘンリー5世の死後、同盟相手のブルゴーニュ公国がアルマニャック派の掃討を放置してフランドル政策に夢中になるなど、先が読めない展開となります。

イングランド軍は1428年からオルレアンを包囲して一気にアルマニャック派を倒す作戦を取りますが、翌1429年にフランスの救世主ジャンヌ・ダルクが登場したことで形勢は完全に逆転します。1435年にはアルマニャック派とブルゴーニュ派が和解、1436年にはパリを奪還されるなど、イングランドは敗走を重ねます。

その後もアルマニャック派のフランス軍による反撃は続いてイングランドはノルマンディーやアキテーヌの占領地を次々と失い、1453年には開戦前から領有していたアキテーヌを含めて大陸の領土をほとんど失い、残るはカレーのみとなったところでイングランドとフランスは終戦します。

ヘンリー5世にまつわる逸話

シェイクスピアの作品では史上最高の名君として描かれ、百年戦争がイングランドの勝利で終わっている

「ハムレット」「オセロ」「ロミオとジュリエット」などの多くの傑作を残したことで知られる16〜17世紀イギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピアの作品、「ヘンリー5世」の主人公としても、ヘンリー5世は登場します。

ヘンリー5世の若い頃は柄の悪い連中とつるんでいた放蕩王子とされており、国王に即位してからは史上最高の名君として描かれています。こういった庶民派王子のイメージが、イギリスでのヘンリー5世人気の理由のようです。

驚くべき点は、その中での百年戦争についての描写です。なんと、百年戦争がイングランドの勝利とされているのです!ヘンリー5世がトロワ条約により英仏二重王国を実現したところで百年戦争が終結しています。その後、薔薇戦争によるイングランド国内の内乱によってフランスを手放したとされているのです。

そのため、多くのイギリス人は、百年戦争でイングランドが勝利したと思い込んでいるようです。シェイクスピアは劇作家のため、作品の人気を出すために、イングランドが勝利したとうまくこじつけたのでしょう。

ヘンリー5世年表

1387年9月16日ウェールズのモンマス城で誕生
1399年9月30日父ヘンリー4世が国王に即位して王子となる
1413年3月21日イングランド国王となる
1414年12月フランス王位と広大な領土を要求して百年戦争再開!
1415年10月25日アザンクールの戦いで大勝利
1420年5月21日トロワ条約を締結してブルゴーニュと同盟を結ぶ
1422年8月31日34歳の若さで病死
目次