【百年戦争の原因】約300年にわたる因縁!?人類史上最長戦争の原因を解説!

出典:wikipedia

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!

今回は、一般的に「百年戦争」「英仏百年戦争」と呼ばれる、14~15世紀のイングランドとフランスを中心に起きた戦争が勃発するに至った原因を解説します。

実は、百年戦争は、フランス王とフランス諸侯による内戦という意味合いが強く、その原因をさかのぼると、約300年前のある出来事からの対立や抗争だったことが分かります。

この記事では、百年戦争の原因を地図を用いて追っていきます。

目次

百年戦争に至るまでの時代における世界の状況

百年戦争は1339年~1453年ですが、その原因の発端は1066年のとある出来事です。そのため、ここでは1066年~1339年までの世界の状況を解説します。

まず、この期間は封建制・荘園制を土台とする「中世」の後半の時期にあたり、諸侯の権力が強い地方分権の時代でした。一方で、君主の権力が強い、中央集権・主権国家を土台とする「近世」への移行も徐々に始まります。

11世紀の世界

11世紀の世界は、各地において自立化の動きが盛んになった時代です。

東アジアでは、唐の崩壊後に遼・西夏・高麗・大理・大越といった周縁勢力が独自の文化や制度を発展させながら自立化・強大化し、中華王朝の北宋を圧迫します。日本は平安時代後期でかな文字などの国風文化が栄える中で武士の成長が始まります。

西アジア・中央アジアのイスラーム世界は、アッバース朝の弱体後分立状態でしたが、トルコ人王朝のセルジューク朝が台頭してアッバース朝のカリフからスルタンの称号を得て、ビザンツ帝国を破りアナトリア(現在のトルコ共和国にあたる地域)に侵攻します。現在のパキスタン地域にもトルコ人王朝のガズナ朝が起こり、インドに侵入するなど、イスラーム世界拡大の第2幕を開きます。

東ヨーロッパでは、ビザンツ帝国が第一次ブルガリア帝国を征服してバルカン半島の大部分を回復しますが、11世紀後半になるとキエフ大公国やセルジューク朝などの外敵や国内の反乱に悩まされます。また、現在のロシア・ウクライナ地域ではスラブ人のキエフ大公国が衰退しますが、ギリシア正教圏に入る一方でビザンツ帝国と対立します。

西ヨーロッパでは、ローマ教会がギリシア正教と分離して教皇を頂点とするローマ・カトリック圏を形成して教皇の権力が高まる一方で、イベリア半島奪還を目指すレコンキスタや聖地エルサレム奪還を目指す十字軍など、イスラームへの反攻が始まります。

12世紀の世界

12世紀の世界は、群雄割拠の時代です。11世紀からの多極化の流れがさらに進みます。

気候温暖化の影響もあって各地で人口増加や経済発展がみられ、交易による各地の結びつきが活性化します。ダウ船によるムスリム商人の活動とジャンク船による中国商人の活動が本格化し、十字軍によるイタリア商人の東方貿易も活発化して、地中海から紅海、インド洋、東シナ海までにいたる海上ネットワークが成立します。

西ヨーロッパでは、農業生産力上昇による人口増加が農村共同体の形成をうながし、さらに東方植民を引き起こします。レコンキスタや十字軍により西ヨーロッパ世界が拡大するとともに、イスラーム文化の影響を受けて、教会建築や大学が発展するという12世紀ルネサンスが起こります。第1回十字軍は成功して聖地エルサレムを奪還しますが、その後はイスラーム勢力に押されていきます。

東ヨーロッパでは、セルビアとブルガリアの独立によってビザンツ帝国がバルカン半島で後退しますが、十字軍との協力によりアナトリアの領土を奪還します。ロシアではキエフ大公国が発展していました。

イスラーム世界では、北アフリカとイベリア半島のムワッヒド朝がレコンキスタに押される一方で、アイユーブ朝のサラディンが十字軍を破ってエルサレムを奪還します。西アジア・中央アジアではルーム=セルジューク朝やホラズム朝などが台頭し、アフガニスタンのゴール朝が北インドに侵入します。

東アジアでは、満州の女真族が起こした金が台頭して遼を滅ぼし、さらに北宋を破って華北を占領します。華北を失った北宋は江南に移り、南宋となります。金に滅ぼされた遼は中央アジアに移り、西遼(カラ=キタイ)を建国します。日本では武士の平氏政権が誕生し、12世紀末には源頼朝が平氏を倒して鎌倉幕府が成立します。

13世紀の世界

13世紀はモンゴルの世紀です。モンゴル帝国の征服によりユーラシアが一体化します。

13世紀初頭からモンゴルが勢力を伸ばし、中央ユーラシアを支配します。「草原の道」「オアシスの道」といったユーラシア東西を結ぶ陸上交易ルートを支配下に置き、駅伝制を整備します。さらに南宋を征服し大運河を整備して「海の道」というユーラシア東西を結ぶ海上交易ルートと結びつき、ユーラシア規模の交易ネットワークを成立させます。

東アジアでは、フビライの元が金・西夏・南宋などを次々と征服し、中国からモンゴルに至る広大な地域を支配します。日本は鎌倉幕府が元の侵略を退けますが、この戦いが原因で鎌倉幕府は衰退していきます。

東ヨーロッパでは、バトゥの軍がキエフ大公国を滅ぼし、ポーランド・ドイツ騎士団の連合軍を破ってロシア地域にキプチャク=ハン国を建設します。

西アジアでは、フレグがアッバース朝を滅ぼしてイランからトルコに至る地域にイル=ハン国を建国します。このイル=ハン国はのちにイスラーム化します。

一方、イスラームは、マムルーク朝がエジプトを支配してモンゴルと十字軍を退け、デリー=スルタン朝が北インドを支配しますが、イベリア半島ではレコンキスタの勢力に押されて南端まで追い詰められます。

西ヨーロッパでは、イベリア半島でレコンキスタが進展して残るは南部のナスル朝のみとなりますが、1291年のアッコン陥落により中東の十字軍国家は消滅します。

14世紀の世界

14世紀は、危機と停滞の時代であり、新時代への胎動の時代でもあります。

14世紀に入ると中央アジアもしくは東アジアで発生した感染症のペスト(黒死病)が、その交易ネットワークを通じてヨーロッパやオリエントにも拡大していきます。

さらに14世紀初め頃から北半球で寒冷な気候が続き、各地で不作や飢饉が起こって政情不安となりました。

13世紀にユーラシア帝国を築いたモンゴル帝国も、14世紀に入るとその支配に陰りが見えてきます。中央アジアのチャガタイ・ハン国は1340年に東西に分裂し、オリエントのイル・ハン国は14世紀に入ってから分裂し、1353年に滅亡します。中国を支配した元も紅巾の乱などで弱体化し、1368年には漢民族王朝の明が建国され、元はモンゴルに追いやられます。キプチャク・ハン国は例外的に14世紀前半に最盛期を迎えます。

ヨーロッパではイングランドとフランスの百年戦争が始まり、イベリア半島ではキリスト教勢力がイスラム教勢力を圧迫していきます。ビザンツ帝国は勢力をさらに後退させ、アナトリアではオスマン帝国が台頭します。インドではトゥグルク朝が14世紀前半にインドのほぼ全域を支配し、東南アジアではインドネシアのマジャパヒト朝が広大な海域を支配します。アメリカ大陸では中央アメリカのマヤ文明とペルーのクスコ王国があります。北欧ではノルウェー・スウェーデン・デンマークがカルマル同盟を結んで団結します。

そして日本は、鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代に入ります。

百年戦争に至るまでの約300年にわたる対立と抗争

百年戦争は1339年~1453年までの約116年間の戦争ですが、その原因は1066年の出来事まで遡ります。

1066年から1339年までの約273年間は百年戦争の前哨戦のように対立や抗争を繰り返しており、百年戦争自体、この1066年からの対立や抗争の延長だったのです!

ノルマン朝イングランド王国の成立

グレートブリテン島とアイルランドには古来からケルト民族が住んでいましたが、4世紀から始まるゲルマン民族の大移動でその一派であるアングロ・サクソン人が現在のイングランドの地域に移住して、7世紀にアングロ・サクソン七王国が建てられます。

その後のイングランドはデーン人やノルマン人などの外敵の侵入に悩まされ、ついには1066年にノルマン人のノルマンディー公ギョーム2世がアングロ・サクソン人のウェセックス朝イングランドを征服し、ノルマン朝イングランド王国を建ててイングランド王ウィリアム1世となります。

このノルマンディー公によるイングランド征服は、ノルマン・コンクェストと呼ばれます。

ノルマンディーとはフランス北部の一地方です。10世紀にフランスに侵入したノルマン人が西フランク王国(のちのフランス王国)の国王シャルル3世に公位とノルマンディーの支配権を与えられて、臣下となっていました。

このノルマン人たちはキリスト教を受け入れてフランスに同化したため、11世紀には既にフランス人となり、フランスの一諸侯となっていました。

つまり、ノルマン朝イングランド王国とはフランス人がアングロ・サクソン人を征服・支配していた国なのです。庶民は英語を話し、王室や貴族などはフランス語を話していました。

このノルマン朝イングランド王国はノルマンディー公領の属国でしたが、属国のほうが王>公でランクが上という奇妙な状態となります。

ノルマンディー公ギヨーム2世はフランス王国の一諸侯でありフランス国王の臣下ですが、同時にイングランド国王ウィリアム1世としてイングランド全土を支配していました。

しかし、あくまでメインはノルマンディー公領であり、ノルマンディー公・イングランド国王の関心はフランス王国内の勢力争いに向けられていました。

ギヨーム2世がイングランドを征服したのも、王号を手に入れることでフランス内の勢力争いでフランス国王と対等になりたかったからです。

これは「イングランド人」と「フランス人」の対立ではなく、「フランス人」同士の対立でした。ノルマン・コンクェストにより本来の「イングランド」というものは消滅し、「フランス」の勢力圏が広がった上で内部対立となったのです。

アンジュー帝国の成立

1133年に生まれたフランス諸侯のアンジュー伯アンリは、相続や結婚を通してノルマンディー公・イングランド王・ブルターニュ公・ブロワ伯・アキテーヌ公といった複数の地位を手に入れます。

これによってイングランドはプランタジネット朝となり、アンリはイングランド国王ヘンリー2世となります。

その結果、それぞれの支配地域を合わせて「アンジュー帝国」と呼ばれる広大な帝国が誕生しました。

このアンジュー帝国も本拠地はアンジュー伯領であり、イングランドはノルマン朝からプランタジネット朝に変わってもフランス人に支配される国のままです。

ヘンリー2世はフランスの西半分とイングランドという広大な領土を手に入れ、カペー朝フランス国王ルイ7世の臣下でありながら、ルイ7世よりも広大な領土を支配することになります。

しかし、このアンジュー帝国は統一的な支配が及んでいたわけではなく、イングランドはイングランドとして、アキテーヌはアキテーヌとしてそれぞれの国や諸侯であり、トップが同一人物なだけの同君連合です。

ここでも「イングランド人」と「フランス人」の対立ではなく、「フランス人」同士の対立でした。

プレ百年戦争?

このような状況に対してカペー朝フランス王も黙ってはいません。ルイ7世の後を継いで1180年に即位したフィリップ2世は1182年からアンジュー帝国に対して戦いを挑みます。

ヘンリー2世やその息子のリチャード1世の戦いぶりは凄まじく、フィリップ2世は攻めきれずにいました。

しかし、リチャード1世の弟ジョンは失政を重ね、フィリップ2世にチャンスが巡ってきます。

フィリップ2世はアンジュー帝国支配下の諸侯を味方につけ、1202年に再び戦いを挑み、勝利します。

アンジュー帝国は崩壊し、プランタジネット朝は大陸の支配地をほとんど失い、それまで軽んじていたイングランドを本拠地とします。広大な領土を失ったため、ジョン王は失地王と呼ばれます。

しかし、プランタジネット朝の王侯貴族はもともとフランス人であり、祖国奪還を目指してその後も何回か大陸に攻め込みますが、惨敗します。

結局、1259年のパリ条約でプランタジネット朝イングランドとカペー朝フランスは和解し、一旦平和が訪れます。イングランド国王はフランス国王の臣下となりノルマンディー公位を放棄する代わりに、残された大陸の領土アキテーヌ地方の領有を認められることになりました。

しかし、アキテーヌ地方をイングランド領として残したことで、双方に課題が残ります。

フランスはアキテーヌ地方を征服して大陸を統一することが目標となり、イングランドはノルマンディーなどの失った領土の奪還が目標となります。

プランタジネット朝の王侯貴族もイングランドに同化し始めていましたが、もともと「フランス人」であり、アキテーヌ地方が残っていただけにフランスへの未練がありました。

このアキテーヌ地方の領土問題も後の百年戦争の原因の1つとなるのです。

百年戦争直前期における対立と抗争の激化

アキテーヌ地方の領土問題

1259年のパリ条約で講話した後もカペー朝のフランス王はアキテーヌの完全征服を狙います。「フランス人」であり自分の臣下でありながら自分と対等な「王」を名乗り、完全には服従していない勢力が大陸に領土を持つという危険を早く排除したかったのです。

1294年、イングランドの船がフランス王港ラ・ロシェルを略奪したことで、フランス王フィリップ4世はアキテーヌの没収を宣言して征服してしまいます。

しかし、イングランド王エドワード1世も対抗してローマ教皇の仲裁のもと和平に持ち込み、1299年のモントルイユ条約で占領地を返還させます。

次は1324年、イングランド王エドワード2世がフランスのサン・サルド要塞を破壊したため、フランス王シャルル4世は再びアキテーヌ没収を宣言し、征服します。

これも1326年のアルク条約で返還されますが、一連の抗争でアキテーヌ地方はフランスに侵食され、イングランドの支配地が少なくなってしまいます。

アキテーヌ地方はぶどう酒(ワイン)の名産地でもありました。

フランス王位継承問題

フランスやイングランドなどの西ヨーロッパの王位継承において、女子が王になることは不可能ではありませんでした。

当時、男子のみの継承とされていたのはローマ教皇と神聖ローマ皇帝だけであり、カスティリャ王国などでは女王が誕生した例もあります。

あくまで男子優先・男子が望ましいという風潮があり、女王の例が圧倒的に少ないだけで、不可能ではなかったのです。

このことが、問題を起こします。

カペー朝フランス国王フィリップ4世が1314年に逝去した後、長男ルイ10世、次男フィリップ5世、三男シャルル4世が即位しますが、跡継ぎの男子を残さずに相次いで早世してしまい、次の王位が誰になるかという問題が発生します。

カペー朝の本家が断絶したため、フィリップ4世の甥にあたるヴァロワ伯フィリップ6世が即位し、ヴァロワ朝が成立します。

ここで、異議を唱えた人物がいました。フィリップ4世の娘イザベルの息子、イングランド王エドワード3世です。

言いがかりのようにも思えますが、正当な理由がありました。

当時、女子よりも男子の王位継承が望ましかったとはいえ、女系の男子が継承する、つまり母方の血縁を理由にした男子の継承はよくあることでした。

それに、エドワード3世はフィリップ4世の直系の孫ですが、フィリップ6世は傍系のヴァロワ伯の血縁です。しかもフランス語を話す「フランス人」です。

こうしてエドワード3世がフランス王位継承を主張したことが百年戦争の直接的な原因となります。

エドワード3世は1329年にアミアンに赴いてフィリップ6世と主従の契りを交わしますが、エドワード3世は内心では不満であり、のちにフランス王位を主張してフィリップ6世に宣戦することになります。

百年戦争はイングランドとフランスの戦争ではなく、フランス王家の血筋を引いた人間同士の王位継承争いだったのです。「元祖長浜ラーメン戦争」のように、どっちが正統なフランス王位継承者かというくだらない争いであり、双方とも間違ってはいないのに争いが生じてしまうという悲劇でした。

フランドル問題

現在のフランス北東部・ベルギー・ルクセンブルクにあたるフランドル地方は古くから羊毛の産地でそれを原料に毛織物が生産されていましたが、11世紀のノルマン朝イングランド王国成立以降はより良質なイングランド産の羊毛を輸入するようになり、羊毛を加工して毛織物を生産して輸出する毛織物産業が発展してヨーロッパ経済の中心地となり、イングランドとの関係が深まります。

この豊かなフランドル地方を支配しようと、フランス王フィリップ4世はたびたび侵攻します。フランドル伯はイングランド王エドワード1世と同盟してフランスに対抗しますが、エドワード1世はスコットランド侵攻を重視してフランスと単独講和したため、支援のないフランドルは敗れて1300年にフランスに併合されます。

一旦はフランスの統治下になりますが、過酷な支配に不満が高まったフランドルの都市同盟は反乱を起こし、1302年の金拍車の戦いでフランス軍を破り、独立を認めさせます。

しかし、1322年にフランドル伯となったルイ1世が親フランスを取ったため、都市同盟はまた反乱を起こしてルイ1世を追放します。

ところが、フランス王フィリップ6世は1328年にフランドルを鎮圧して再びルイ1世をフランドル伯とします。その後しばらくは、フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドの状況が続きます。

フランドルを巡る争いや、フランス王位継承問題、後述のスコットランド問題によりイングランドとフランスの対立が深まる中、イングランド王エドワード3世はフランドル進出を画策し、1336年にフランドルへの羊毛輸出を禁止します。

原料をイングランド産羊毛に依存していたフランドルの毛織物産業はたちまち麻痺してしまい、不満が高まった都市市民が、1337年に有力者ジャック・ファン・アルテフェルデを指導者に掲げて再び反乱を起こし、フランドル伯ルイ1世を追放してフランドル都市連合を結成します。

同年10月にエドワード3世がフランス王位を主張すると、フランドル都市連合はエドワード3世を支持することになります。

スコットランド問題

大陸領土の大半を失った「フランス人」の支配する国イングランドは、いっそ「イギリス人」になろうと、グレート・ブリテン島の統一にも力を入れます。

イングランド王エドワード1世は1276年からウェールズに侵攻しましたが激しい抵抗にあい、1282年にようやく併合します。さらにスコットランドにも侵攻しますが、遠征途上の1307年に病死します。

息子のエドワード2世も意志を継いでスコットランドに侵攻しますが、1314年のバノックバーンの戦いでスコットランド王ロバート・ブルースに大敗してしまい、頓挫します。

しかし、1327年にイングランド王エドワード2世の息子エドワード3世が即位し、1329年にスコットランド王ロバート・ブルースが亡くなって5歳のデイヴィッド2世が即位すると、力関係が大きく動きます。

1333年、エドワード3世はスコットランドに侵攻すると連戦連勝し、スコットランド王族のエドワード・ベイリアルをイングランドの傀儡としてスコットランド王とします。

その結果、敗れたデイヴィッド2世が1334年にフランスに亡命してフィリップ6世が受入れたため、今度はフランスのアルトワ伯継承争いで謀反人の疑いをかけられたロベール・ダルトワがイングランドに亡命すると、仕返しにエドワード3世がこれを受け入れ、エドワード3世とフィリップ6世の関係は一気に険悪となります。

両者の対立が深まる中、1337年5月、フィリップ6世はアキテーヌ地方の没収を宣言します。

エドワード3世は怒りました。フィリップ6世のフランス王位継承を認めることで「フランス人」であることを諦め、おとなしく引き下がって「イギリス人」になろうとグレートブリテン島統一を進めようとしたところ、それも邪魔されたのです。

プランタジネット朝イングランド王国が繁栄するためには、フィリップ6世を倒すしかありません。

1337年10月7日、エドワード3世は、フィリップ6世との主従関係の破棄と、自分が正統なフランス王であることを宣言します。

さらに11月1日にエドワード3世はフィリップ6世に挑戦状を送りつけ、宣戦布告しました。百年戦争の始まりです。

イングランドとフランスの国力差

百年戦争開始時、フランスはイングランドの3~4倍の国力を持っていました。

当時の国力の指標は農業生産力と人口であり、人口約370万人のイングランドに対してフランスは人口約1,200万人でした。

イングランド(イギリス)がフランスの国力を上回るのは産業革命の起こった18世紀後半以降であり、それ以前のイングランド(イギリス)はヨーロッパの中でも辺境の田舎という扱いでした。

フランスの一諸侯に過ぎないノルマンディー公がイングランドを征服できたことからも、その圧倒的な国力差が分かります。例えるなら、沖縄県が中国を征服するようなものです。

その国力差からイングランドは圧倒的不利に見えますが、イングランドはノルマン朝による征服以来、国内の領主や貴族をほとんどフランス人に入れ替えており、アングロ・サクソン人など外様の諸侯がいなかったため、王の力が強く、国内がまとまっていました。

一方のフランスは諸侯や都市の力が強く、半ば独立国家のようにふるまい、フランス王に従わない勢力もありました。そういったフランス国内の対立に付け込んで、イングランドは勢力を伸ばしていくのです。

百年戦争の原因は約300年続くフランス王とフランス諸侯の対立と抗争が激化したことだった!

1339年に始まった百年戦争の直接的な原因はフランス王位継承問題と領土問題ですが、その2つの問題の原因をさらに遡ると、1066年のノルマン・コンクエストから続く、約300年にわたるフランス王とフランス諸侯による対立と抗争であったことが分かりました。

百年戦争は独立した出来事ではなく、1066年から続く対立と抗争の延長線上であり、対立と抗争が激化した結果として百年戦争という大戦争に至ったのです。

そして1066年のノルマン・コンクエストにより「イングランド人」が支配する国は消滅していたため、その対立と抗争は、イングランドを征服してイングランド人を支配しながら元々いた大陸にも拠点を持つ「フランス人」諸侯と、その君主である大陸の「フランス人」王によるものでした。

「イングランド人」と「フランス人」の対立ではなく、「フランス人」同士の対立であったのです。

これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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