こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。
今回は、ユダヤ人の歴史を解説します。
ユダヤ人といえば、お金持ち、迫害された人々、というイメージが強いと思います。歴史でいえば、ダヴィデ王、ソロモン王、バビロン捕囚、離散(ディアスポラ)、シオニズム、ホロコースト、イスラエルなどが連想されます。
ではなぜユダヤ人は金融業で成功してお金持ちになったのか、なぜユダヤ人はヨーロッパで迫害されたのでしょうか。
この記事では、古代から現代までのユダヤ人の歴史をディアスポラ期間も含めて徹底的に解説し、ユダヤ人がお金持ちになった理由、迫害された理由も解説します。
ユダヤ人とは
ユダヤ人とは、もともとはヘブライ人と呼ばれた、紀元前1500年頃からシリア・パレスチナ地方にいたセム語系の民族です。ユダヤ人の定義も曖昧で時代とともに変遷してきました。基本的には、ユダヤ教を信仰する人々がユダヤ人とされます。しかし、ユダヤ教からキリスト教に改宗した者もユダヤ人とされることがあり、伝統的には「母親がユダヤ人である者」または「ユダヤ教に改宗した者」がユダヤ人の定義とされることが多いです。つまり、ユダヤ人として生まれた者は生涯ユダヤ人とされます。古代では人種的にも単一民族でしたが、ディアスポラ以降世界各地に移住して混血も増えたことで、外見の特徴でユダヤ人を識別することは困難となっています。現在は白人だけでなく黒人のユダヤ人もいます。
ユダヤ人の歴史
古代〜ユダヤ人王国の繁栄と滅亡〜
ヘブライ王国の繁栄

ユダヤ人がユダヤ人と呼ばれるようになるのは紀元前586年のバビロン捕囚以降であり、この頃はヘブライ人と呼ばれていました。ヘブライ人というのは他民族からの呼称であり、自分たちではイスラエル人と言っていました。ヘブライ人は紀元前1500年頃からシリア・パレスチナ地方に定住していたセム語系の民族です。聖書によると、ユダヤ人の父祖アブラハムがカナンの地(パレスチナ)を神から与えられ、メソポタミア南部のウルからカナン(パレスチナ)に移動したとされています。

ヘブライ人には12の部族があり、選挙で民族指導者である士師を選出していました。そんな中、次第に民から王政を望む声が高まります。そこで士師サムエルは、神の指示によりベニヤミン族の背が高く美しい若者サウルを選び、最初の王とします。ヘブライ王国の誕生です。ヘブライ王国のことも自分たちではイスラエル王国(古代イスラエル王国)と呼んでいましたが、一般的にはこの時の王国のことをヘブライ王国と呼び、紀元前922年頃に分裂した北半分の国をイスラエル王国と呼びます。統一王国をイスラエル王国と呼ぶ場合は、分裂後北半分の国を北イスラエル王国と呼びます。

王となったサウルはペリシテ人など周辺民族と戦い、勝利していきます。しかし、アマレク人との戦いに勝利した際、女子供家畜も含め皆殺しにせよ、という神の命令に背いて、アマレク人を憐れみ皆殺しにはしませんでした。神の命令に背いたサウルは、神から見放されます。酷い神様ですね。

神の命令を受けた士師サムエルは、サウルに代わる王を探します。ユダ族、ベツレヘムにいた羊飼いの美しい少年ダヴィデに目を止め、王となるべき人物と認めます。その日からサウルは悪霊に苛まれますが、竪琴の名人であるダヴィデを側近としたことで、竪琴の音色を聴いたサウルは心が休まりました。ダヴィデは竪琴の名人かつ戦士だったため、王の側近としてこの時から重要人物となります。ダヴィデが生まれたのは紀元前1040年とされています。

当時のヘブライ王国は、海の民の一派であるペリシテ人と頻繁に戦っていました。特に、ペリシテ人の中で最強の戦士ゴリアテはヘブライ兵たちに恐れられています。そこで、ダヴィデはゴリアテと一騎打ちすることにします。サウルは鎧と武器をダヴィデに与えますが、ダヴィデの体には合わず、石と投石器で戦うことにします。ダヴィデは石を見事にゴリアテの眉間に命中させ、倒れたゴリアテが持っていた剣を奪い、ゴリアテの首を取ります。ダヴィデの勝利です。ペリシテ軍は総崩れになり、ヘブライ軍の大勝利となります。
その後もダヴィデは連戦連勝し、王国の英雄として人気者になりますが、嫉妬したサウルはダヴィデを亡き者にしようと企みます。なんとかダヴィデは逃れ、逃げ出して各地を転々とします。
そんな中、サウルはペリシテ軍に敗れ、追い詰められて自害します。ダヴィデは出身部族のユダ族のもとに行き、そこでユダ王となります。

ユダ王となったダヴィデはサウルの後を継いだ息子イシュ・ボシェトと戦いますが、イシュ・ボシェトは昼寝中に部下に殺害されてしまいます。ダヴィデの勝利です。紀元前1000年、ダヴィデは2代目ヘブライ国王となり、エルサレムを都とします。


即位したダヴィデはペリシテ人を破り、さらに周辺部族のモアブ人、アラム人、エドム人、アンモン人も破り、領土を大きく拡大します。ダヴィデは中央集権的な国づくりを進め、ヘブライ王国繁栄の基礎を築きます。

紀元前961年、ダヴィデはこの世を去り、息子のソロモンがヘブライ王国の王になります。

ソロモン王は内政と外交を重視して巨万の富と平和を築き、「ソロモンの栄華」と呼ばれる、ユダヤ史上最も繁栄した時代を作り上げます。
しかし、ソロモンは土木工事や神殿建設などのために国民へ重税を課しており、国民の反発を招きます。

分裂王国とバビロン捕囚

紀元前931年にソロモン王は亡くなり、息子のレハブアムが後を継ぎます。しかし、国民の不満が高まっていたことで、ソロモンの死後すぐに反乱が起こります。その結果、イスラエル12支族のうち北部10支族がエフライム族出身のヤロブアムを擁立して分離独立し、紀元前922年、イスラエル王国(北イスラエル王国)が成立します。残された南部のユダ族とベニヤミン族は、レハブアムを国王とするユダ王国となります。都エルサレムはベニヤミン族の土地だったため、ユダ王国の都になります。



イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、住民は強制移住させられます。彼らのその後の行方は定かになっておらず、「失われた10部族」と呼ばれます。
南のユダ王国はほぼユダ族から構成される国で、部族同士の争いがなく王権が安定して長期間存続します。紀元前722 年にイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされたときもユダ王国はなんとか滅亡を免れ、アッシリアの属国として存続します。紀元前609年にアッシリアが滅亡すると、メソポタミアの新バビロニア王国とエジプトがユダ王国の支配を巡って争います。当初は新バビロニアに着きましたが、同紀元前609年のメギドの戦いでエジプトに敗れると、エジプトの属国となります。そして紀元前605年に今度はカルケミシュの戦いで新バビロニア王国がエジプトに勝利すると、また新バビロニア王国の属国となります。
ユダ王国第18代王ヨヤキムがエジプトの支援を期待して新バビロニアに対して反乱を起こすと、新バビロニアのネブカドネザル2世王が紀元前597年にエルサレムを占領します。このとき第1回目のバビロン捕囚が行われていますが、一般的にバビロン捕囚は第2回目の出来事を指します。ユダ王国は再び新バビロニアの属国となります。

第20代ゼデキヤ王が紀元前587年に再び新バビロニアに対して反乱を起こすと、ネブカドネザルは再びエルサレムを占領します。そして翌紀元前586年にエルサレム全体とソロモン王が築いたエルサレム神殿を破壊し、多数のヘブライ人が新バビロニアの都バビロンに連行されます。第2回バビロン捕囚です。一般的には、このときを「バビロン捕囚」と言います。

しかし、バビロン捕囚は決して過酷なものではなかったため、紀元前538年の解放後も自発的にバビロンに留まるユダヤ人もいます。

アケメネス朝ペルシアの王キュロス2世は、紀元前539年に新バビロニアを破ってバビロンを占領します。そして翌紀元前538年、ユダヤ人のエルサレム帰還と神殿再建の許可を出します。バビロン捕囚の終わりです。ユダヤ人たちは続々とエルサレムに向かい、帰還します。エルサレムに戻ったユダヤ人たちはヤハウェ神殿を再建し、紀元前515年に完成します。ソロモン王が建てた神殿を「第1神殿」、このとき建てられた神殿を「第2神殿」と言います。
アケメネス朝ペルシアは、征服先の住民の協力を得るため、他民族や他宗教に寛容な政策を取ります。その結果、ペルシアは広大な領土を約200年にわたって支配することができました。ユダヤ人は自治を認められながら、ユダヤ教を発展させていきます。

ハスモン朝とヘロデ朝

紀元前330年、ギリシア系のアレクサンドロス大王によってアケメネス朝は滅亡します。大王はパレスチナを含むオリエント全域に「ヘレニズム」と呼ばれるギリシア文化を広めていきます。すると、ヘレニズムかぶれのユダヤ人と、バビロン捕囚の頃からの伝統を守ろうとするユダヤ人の対立が生まれます。
パレスチナは紀元前198年にギリシア系のセレウコス朝シリアが支配下に置きます。セレウコス朝は次第にユダヤ人にギリシア化を強制するようになります。ユダヤ人のうち、ヘレニズムかぶれの者は貴族階級に多く、権力を得るためにセレウコス朝に接近します。これに対して、民衆は伝統を守ろうとする者が多くいました。セレウコス朝&貴族階級と、民衆の間の対立は深まっていきます。

紀元前167年、モディンの祭司マタティア・ハスモンが、セレウコス朝の役人を殺害して反乱を起こします。翌紀元前166年にマタティアが死亡すると、息子のユダ・マカベア(ユダス・マカベウス)が後継者となります。ユダ・マカベアは、ゲリラ戦法でセレウコス朝軍を苦しめ、紀元前164年にセレウコス朝軍を追い払ってエルサレムに入城し、異教徒に汚された神殿を清めます。セレウコス朝は内部での権力闘争のためにユダヤと戦う余力はなく、和解します。ユダヤに対するセレウコス朝の主権を認める代わりに、ユダヤ人の宗教的自由が認められることになります。
しかし、政治的独立を目指すユダヤ人はさらに戦いを挑みます。ユダ・マカベアの後継者のシモンはセレウコス朝軍を一掃し、政治的独立を勝ち取ります。同盟国のローマによる承認も受け、ハスモン朝は国際的承認を得ます。シモンは大祭司兼指導者という地位になります。しかし、紀元前135年、シモンは娘婿に暗殺されます。

シモンの後は、身内同士の権力争いとファリサイ派対反ファリサイ派の宗教対立が絡み、ハスモン朝は内紛が絶えず衰退していきます。それぞれがローマ帝国やパルティアと結んだため、両大国の介入も深刻化します。
そんな中、イドマヤ人の将軍アンティパトロスの息子ヘロデが、ローマに逃亡してローマに従うかわりに内紛に勝つための支援を要請します。ローマはまだユダヤを完全に支配する余力はなかったため、ローマはヘロデをユダヤ王として認め支援します。ローマ軍とヘロデはパルティア軍と敵対勢力を破ります。紀元前37年、ヘロデはユダヤ王となり、ハスモン朝は滅亡します。ヘロデ朝の始まりです。

王となったヘロデでしたが、もともと父がイドマヤ出身で母は非ユダヤ人ということもあり、ユダヤ人たちから人気がありませんでした。王となったヘロデの権力は盤石ではなく、敵が多かったのです。そこでヘロデは敵対していた王族貴族を処刑して財産を没収します。ヘロデの妻マリアムネもハスモン朝の王族だったので、妻マリアムネも処刑してしまいます。ヘロデはハスモン朝の血を引く者たちを一掃して権力を強化します。
ヘロデはローマ帝国のご機嫌を取り、ローマに従順に従う代わりにユダヤ人の自治権拡大を認めさせることもします。ローマの属国となりながらも、権力を強化してユダヤ人の自治を守ることに成功したのです。
権力を安定させたヘロデは、壮大な建築物を多数作ります。自身の名を冠した要塞都市ヘロディウムなど多くの建築物を残しますが、最も壮大だったのはエルサレム神殿の大改築です。各地に離散(ディアスポラ)していたユダヤ人も多くがこの神殿を訪れ、経済効果が生まれて富が蓄積し、ヘロデ朝の発展につながります。また、これによってさまざまな地域のユダヤ人同士の繋がりが促進されます。
ヘロデの治世の晩年は、家庭内トラブルが続き、息子達を処刑する事態にもなります。紀元前4年、ヘロデは残った息子達のうち最年長のアルケラオスを王位継承者とし、生涯を終えます。

ヘロデの死後、3人の息子達に領土が分割され、最年長のアルケラオスがエルサレムやサマリアなど主要部分を統治します。しかし、ローマはアルケラオスを王とは認めず、統治者として認定します。内紛や失政が続いたためアルケラオスは解任され、西暦6年からエルサレムやサマリアなど主要部分はユダヤ属州としてローマ帝国の直接統治を受けます。

イエス・キリスト
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イエスは紀元前7〜4年頃、ユダヤ人の父ヨセフと母マリアの子として生まれます。メシアとなる資格を持つのはダヴィデの子孫であることから、キリスト教の物語ではダヴィデの出身地であるベツレヘムで生まれたとされていますが、実際にはナザレの生まれである可能性が高いです。キリスト教では西暦1年にイエスが誕生したとされますが、実際には紀元前7〜4年頃とされています。
イエスは最初からキリスト教を始めたのではなく、ユダヤ教の枠内で改革を行おうとした人物です。キリスト教になるのはイエスの死後、弟子たちによってです。つまり、この時点では「ユダヤ教イエス派」というのが実態に合っています。福音書では律法学者やファリサイ派などを含めたユダヤ教の権威者全体が敵であるように描かれていますが、実はファリサイ派はイエスに友好的でした。イエスの弟子たちの中にはファリサイ派もいて、イエスに命の危険が迫っていることを伝えたのもファリサイ派です。ローマ帝国もイエスの敵ではありましたが、1番の敵ではありません。イエスが本当に敵視していたのは、大祭司とユダヤ教聖職者たちです。彼らはエルサレム神殿での儀式を重視し、神殿内の商売から大きな利益を得ていました。これに対してイエスは、神を愛し隣人を愛することを説き、貧しい人々の味方となったのです。
こうした動きに対して危機感を抱いたユダヤ教聖職者たちとローマ帝国は民衆煽動罪でイエスを捕まえて処刑します。そして、跡を継いだペテロやパウロらによる布教により、初期キリスト教へと繋がっていきます。
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ユダヤ戦争
ローマ帝国は皇帝を崇拝しており、皇帝は死後神格化されて神になります。しかし、ユダヤ教は唯一神ヤハウェ以外の神の存在を認めることはできないのです。そのため、ユダヤ人たちは皇帝崇拝を求めるローマに対する不満を募らせます。
紀元前4年にヘロデ大王が亡くなると、ローマはユダヤを直接統治します。66年春、ユダヤ総督フロルスが徴税の名目でエルサレム神殿の宝物を持ち出したことがきっかけで、エルサレムで暴動が起こります。これが第一次ユダヤ戦争のきっかけです。
ユダヤ軍は一時的にパレスチナのほぼ全土を支配します。ローマ帝国も将軍ウェスパシアヌスが鎮圧に向かいますが、68年頃からローマ帝国内の権力争いでローマが大混乱となり、ユダヤどころではなくなります。こうしてユダヤ戦争は膠着状態となります。

69年12月、ローマ帝国ではウェスパシアヌスが皇帝に即位し、混乱状態が終わります。そして70年4月14日、ティトゥス率いるローマ軍によるエルサレム攻囲戦が始まります。9月7日、ローマ軍はエルサレムを完全制圧します。この戦争の後、ローマ帝国はユダヤの反乱を未然に防ぐため、エルサレムに軍団を駐屯させます。

2世紀に入ると、再びユダヤ人の反ローマ闘争が活発になります。ユダヤ属州でシメオンという人物が、自分こそはユダヤ人を救う救世主(メシア)だと言い始めます。これに対して当時のユダヤ教の聖職者のリーダーであるラビ・アキバが支持を表明します。ユダヤ人たちはシメオンを支持するようになり、彼は「バル・コクバ」というメシアの称号を自称するようになります。
131年、第2次ユダヤ戦争が始まります。ユダヤ側の指導者はバル・コクバでした。
当初は、ユダヤ軍が優勢でした。各地でローマ軍の守備隊を破り、パレスチナ全土を制圧してユダヤの支配権を取り戻します。それから2年半にわたって、バル・コクバが政治的指導者、ラビ・アキバが宗教的指導者として、ユダヤの支配構造が確立します。
しかし、ローマ軍も黙ってはいません。ハドリアヌス帝はブリタニアから将軍ユリウス・セウェルスを呼び寄せ、軍団を与えてユダヤの鎮圧に向かわせます。ローマ軍はユダヤ軍を次々に破り、135年に再びエルサレムは陥落します。エルサレムは完全に廃墟となり、ユダヤ全土は荒廃します。こうして、第2次ユダヤ戦争は終結します。

ハドリアヌス帝は、ユダヤ地方が不安定な原因はユダヤ教にあると考え、根絶を図ります。ユダヤ教の指導者たちは殺害され、律法の書物は廃棄されます。エルサレムは「アエリア・カピトリナ」に改称され、ユダヤ人が市内に入ることは禁じられます。
このユダヤ戦争は、ユダヤ人の最後の抵抗でした。ユダヤ国家は完全消滅し、全てのユダヤ人が地中海各地やメソポタミアなどに離散(ディアスポラ)していきます。以降、1948年にイスラエル国が独立するまでの約1800年間、ユダヤ人は自分たちの国を持つことができませんでした。


中世〜イスラーム圏とキリスト教圏への離散〜

イスラーム圏に離散したユダヤ人
2世紀にローマ帝国によってエルサレムを追放されたユダヤ人の多くはローマ帝国に離散しますが、392年にローマ帝国でキリスト教が国教とされると、ユダヤ人は迫害こそされないものの差別されます。そんな中、7世紀にアラビア半島でイスラーム教が起こると、ユダヤ人の多くはイスラーム圏に移住します。
今日の国際情勢からは想像もつかないと思いますが、イスラームはユダヤ人に対して寛容でした。法を重視する姿勢が共通していることもあり、意外にもキリスト教とユダヤ教よりもイスラーム教とユダヤ教のほうが共通点が多いのです。7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教は瞬く間に勢力を拡大し、イスラーム勢力はパレスチナを含む西アジアを支配します。750年にアッバース朝が成立すると、異民族であってもイスラーム教に改宗すればジズヤ(人頭税)が免除されることとなったため、ユダヤ教から改宗する者もいました。しかし、イスラーム国家でユダヤ教徒やキリスト教徒は「啓典の民」としてズィンミー(庇護民)の地位を与えられます。ムスリムの支配に服従してジズヤ(人頭税)を納めれば、生命・財産の安全と宗教の自由が保障されます。ユダヤ人にとって、迫害してくるキリスト教世界と比べてイスラーム世界に住むほうが遥かに条件が良かったのです。7〜13世紀まで、世界のユダヤ人の9割がイスラーム諸国で暮らすことになりました。
ところが、13世紀にモンゴル帝国がアッバース朝を倒して西アジアにイル=ハン国を建国すると、政治的混乱の影響で西アジアのユダヤ人は激減します。この状況で新たにユダヤ社会の中心となったのがイベリア半島です。イベリア半島は8〜15世紀まで、北部はキリスト教勢力が支配し南部はイスラーム勢力が支配する状況が続きます。政治的には両者は対立していましたが、文化の面では繋がっていきます。そこで活躍したのが読み書きが得意なユダヤ人でした。イスラームのアラビア語圏で発展した学術書を、ユダヤ人がラテン語やヘブライ語に翻訳してヨーロッパのキリスト教世界に伝えます。こうして、ユダヤ人はキリスト教世界とイスラーム世界の橋渡し役となったのです。
キリスト教圏に離散したユダヤ人
キリスト教圏では差別されるユダヤ人ですが、商業や金融業の役割を生かして現在のドイツやフランスなどの西ヨーロッパに移住します。中世までは、キリスト教では利息を取ることが禁止されていました。ユダヤ教では、同胞から利息を取ることは禁止されていますが異教徒から利息を取ることは許されています。そのため、ユダヤ人はキリスト教徒にお金を貸す金融業や商業で活躍するようになります。ローマ教皇とフランク王国、つまりキリスト教と世俗権力が手を結んでいた中世初期の西ヨーロッパでは、世俗権力は実利的な経済発展の観点からユダヤ人とも協調します。ユダヤ人を保護しながら商取引に関する特権を与えたのです。中世初期の西ヨーロッパでは、ユダヤ人は世俗権力にとって有益な少数精鋭の金融業者でした。このような特権を与えられたことで、ユダヤ人も柔軟に応じます。ユダヤ教の教えでは偶像崇拝者と商取引を行ってはならないとされていますが、当時のラビはこの偶像崇拝者からキリスト教徒を除くことにします。
そのようなユダヤ人の地位は、ユダヤ人が庶民との商取引は金貸しで得た儲けを権力者が税金として納めさせるというシステムで成り立っていました。しかし、これをよく思わないのがキリスト教徒の庶民たちです。金貸しは悪いイメージで語られることが多いですが、当時の庶民たちも権力者とユダヤ人の結びつきを癒着ととらえ、憎むようになるのです。
このようなキリスト教徒の庶民たちのユダヤ人に対する敵意が表面化したのが、12世紀の十字軍運動の盛り上がりでした。イスラム勢力に圧迫されているビザンツ帝国がローマ教皇に支援を求めたことで始まったのが十字軍です。聖地エルサレム奪還を掲げて何度も派兵され一時的にエルサレムを占領することに成功します。この十字軍は、エルサレムに到達するまでのヨーロッパで、ユダヤ人を迫害します。この頃から、民衆のあいだではユダヤ人が儀式のためにキリスト教徒の子供を殺してその血を食用に使うというデマが広がり、報復と称したユダヤ人襲撃が起こります。もっとも当時迫害されたのはユダヤ人だけではありません。キリスト教徒の異端者、ハンセン病患者、同性愛者、売春婦、浮浪者なども、キリスト教社会の規範から逸脱する存在として、ユダヤ人と同様に迫害されました。
西ヨーロッパからの追放
イギリスでは1290年にユダヤ人が追放され、フランスでも14世紀に追放令が出されます。さらに14世紀にはペストの流行によりユダヤ人が毒を入れたというデマが広まり、またユダヤ人襲撃が起こります。この頃からキリスト教でも利息が解禁されたことでキリスト教徒も金融業に参入できるようになり、ユダヤ人の居場所がなくなります。早くから中央集権化が進み統一的にユダヤ人が追放された英仏と異なり、ドイツでは諸侯の権力が強かったため、統一的にユダヤ人が追放されるのは遅くなります。ユダヤ人はしばらくドイツに留まりますが、15世紀にはドイツからも追放されます。西ヨーロッパを追放されたユダヤ人の多くは東欧に逃れていき、「アシュケナジム」となります。
近世〜セファルディムとアシュケナジムの成立〜

スペイン追放
イベリア半島のユダヤ人はさまざまな職業に就いていました。大航海時代に入るとイスラーム圏との地中海貿易に携わり、商業の分野でも活躍します。しかし、イベリア半島でのレコンキスタが進んでキリスト教勢力が優位に立つと、イスラームとの橋渡し役だったユダヤ人の利用価値が低下し、迫害が始まります。十字軍やペストの影響もあります。この結果、イベリア半島にいたユダヤ人の半数以上はキリスト教に改宗します。1492年にレコンキスタが完了してスペインとポルトガルによってイベリア半島が完全にキリスト教勢力に支配されると、イスラーム教徒が追放されるのと同様にユダヤ人も改宗しない場合はスペインから追放されることになりました。この、イベリア半島に住んでいたユダヤ人が「セファルディム」と呼ばれます。
ポルトガルとオランダへの移住
同じイベリア半島でも、ポルトガルではしばらくのあいだユダヤ人迫害はされませんでした。大航海時代が始まると、ユダヤ人やコンベルソ(改宗者、隠れユダヤ人)は新大陸との貿易で活躍します。しかし、ローマ教皇の命令で1536年に異端審問が実施されるようになると、彼らはオランダに移住し、コンベルソはユダヤ教に再改宗します。
オランダに移住したユダヤ人は、再び新大陸との貿易で活躍します。砂糖貿易やプランテーション経営にも関わります。オランダの首都アムステルダムは、セファルディムの商業の一大拠点となり、西欧最大のユダヤ共同体が生まれます。アムステルダムはその後も長くユダヤ人の一大拠点であり続け、17世紀には三十年戦争によってドイツから逃れてきたアシュケナジームが多く流入してきます。この頃からユダヤ人は公職・軍・小売業などから排除されるようになりますが、迫害はされなかったためユダヤ人の拠点の1つではあり続けます。20世紀にナチスドイツからアムステルダムに亡命してきたアンネ・フランクの一家もこのドイツからアムステルダムに逃れてきたアシュケナジムです。
オスマン帝国への移住
セファルディムが最も多く移住したのは、オスマン帝国でした。レコンキスタが完了した15世紀後半は、オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼして急成長していた時期です。ユダヤ人は金融や商業に長けていただけでなく、当時最先端だった印刷技術や医療技術などを持っており、オスマン帝国の経済を強化するためには絶好の人材たちでした。イスラーム国家のオスマン帝国の統治体制はアッバース朝と同じで、ユダヤ教徒やキリスト教徒は「啓典の民」としてズィンミー(庇護民)の地位を与えられます。ムスリムの支配に服従してジズヤ(人頭税)を納めれば、生命・財産の安全と宗教の自由が保障されます。ユダヤ教を含む他宗教には、ミッレト(共同体)を作らせ、ムスリムよりも高い税率のジズヤ(人頭税)を納めさせる代わりに自治を認めます。かつてのアッバース朝時代のように条件の良かったオスマン帝国には多くのユダヤ人が集まり、近世初期にユダヤ人が最も多く居住していたのはオスマン帝国でした。ヨーロッパのユダヤ人は金融以外の職に就くことは難しかったのですが、オスマン帝国のユダヤ人はさまざまな職に就きます。織物産業、金銀の産出・造幣・流通、国際貿易などの商業です。
オスマン帝国の衰退とフランス化するユダヤ人
17世紀末にオスマン帝国が第二次ウィーン包囲に失敗して衰退期に入ると、経済も停滞して統治の寛容さは失われていきます。イベリア半島からのセファルディムの移民は激減し、彼らはオスマン帝国ではなくオランダに向かいます。19世紀に入るとオスマン帝国内のユダヤ人への迫害も散発するようになります。オスマン帝国領内ではセルビア、ギリシア、エジプトなどの独立運動が盛り上がり、英仏露といったヨーロッパ諸国の介入も招きます。そんな中で進められたのが、1839年からのタンジマートです。オスマン帝国は西欧化を目指しつつ、非ムスリムにムスリムと同等の権利を与えます。これにより、外国のユダヤ人が帝国内に学校を作ることができるようになります。1860年にフランスのパリで「世界イスラリエット連盟」が結成されます。これは、当時の最先端の西欧教育を受けるユダヤ人が、イスラーム諸国に住む遅れたユダヤ人を教育する目的の組織です。連盟はオスマン帝国領内にユダヤ人学校を多く開設していきます。オスマン帝国に代わってフランスが植民地化したアルジェリアでもこの学校が建設されます。ユダヤ人はフランス化し、1870年にはユダヤ人にのみフランスの市民権が与えられます。

ポーランドへの移住
アシュケナジムの主な移住先となったのが、ポーランドでした。14世紀後半にドイツ騎士団に対抗するためにリトアニア大公国と連合してヤゲウォ朝リトアニア・ポーランド王国が成立します。この国は西欧向けの穀物輸出で繁栄し、地域大国としての地位を固めていたところでした。ポーランドの国家を運営していたのは人口の約1割を占める小規模貴族たちであり、このポーランド貴族と組み合わせが良かったのがユダヤ人でした。ユダヤ人は土地の管理や農民からの徴税を任されます。人頭税を支払うことと引き換えに宗教の自由と全国的な自治も認められます。ポーランド各地のユダヤ人の地方評議会をまとめた「四地方評議会」が設置され、各共同体からの税金徴収に責任を持ちます。ポーランド王国は経済的にも繁栄していたため、ユダヤ人はこのポーランド時代を黄金時代と呼びます。ポーランドに暮らすユダヤ人の人口は17世紀半ばには約50万人、18世紀後半には約75万人にまで増加します。これは当時の世界のユダヤ人口の約3分の1でした。
ポーランドの衰退
1572年にヤゲヴォ朝が断絶するとポーランドは選挙王制となり、貴族たちの権力争いや周辺国の介入、経済の悪化によって衰退していきます。反乱も発生し、貴族の手先というイメージから来る農民のユダヤ人に対する憎悪から、多くのユダヤ人が殺害されます。18世紀末にはプロイセン、オーストリア、ロシアによってポーランドの全国土が分割され、ポーランドという国家は消滅します。しかし、その後もユダヤ人の大多数は旧ポーランド領に留まり、プロイセン(ドイツ)、ロシア帝国の支配下で暮らしていくことになります。

近代〜ユダヤ人大虐殺とシオニズム〜
ロシア帝国とポグロム、シオニズム
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1900年の時点で世界のユダヤ人口の約半数、520万人が暮らしていたのがロシア帝国です。ポーランド分割により多くの領土を獲得したロシア帝国は、その地に住んでいたユダヤ人もそのまま支配下に入れます。ドイツに住んだユダヤ人は52万人だったためにドイツ人への同化が進められますが、ロシアに住むユダヤ人は520万人と多かったため、西部の都市部では過半数近くを占め、ユダヤ人がマジョリティとなります。しかし、ロシア帝国に住むユダヤ人のほとんどは貧困層であり、主に零細商店経営者や工場労働者でした。ところが、ポーランド時代の貴族の手先というイメージは残っており、19世紀以降、複数回の反ユダヤ暴動が発生します。ロシア帝国では何度もユダヤ人に対する集団的迫害(殺戮・略奪など)が発生しており、これらは「ポグロム」と呼ばれます。


ポグロムで迫害されたユダヤ人は、かつての故郷パレスチナにユダヤ人国家を建国する思想・運動を始めます。これは「シオニズム」と呼ばれます。ロシア帝国に住むユダヤ人の一部は、パレスチナに移住を始めます。フランスで発生したドレフュス事件もきっかけの1つです。


とはいえ、大多数のユダヤ人はロシア帝国に残っていました。ポグロムは何度も発生しますが、特に大規模だったのは1918年からのロシア内戦期のポグロムです。白軍、ウクライナ民族主義者などにより、正確な数字は分かっていませんが、50万人以上のユダヤ人が死亡したとされます。一方で、赤軍によるポグロムはほとんど発生していません。共産主義者(ボリシェヴィキ)は反ユダヤ主義をブルジョワが作り上げた民衆の目を逸らすためのまやかしだと考え、反ユダヤ主義を禁止します。結果的に、1番マシだったボリシェヴィキにユダヤ人たちは味方することになります。
ナチスとホロコースト
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キリスト教徒が大多数のヨーロッパにおいて、中世の頃から、宗教的対立による異教徒迫害の1つとしてユダヤ教徒を蔑視する風潮はありました。19世紀後半になると、宗教的な反感ではなく人種差別としての反ユダヤ主義が生まれます。西ヨーロッパのキリスト教徒はほぼインド=ヨーロッパ語族のアーリア人であり、セム語系のユダヤ人をアーリア人に比べ劣った人種だという考えです。もともとアーリア人とは言語的分類によって定義されたものでしたが、誤った解釈により人種や民族を指すものとして用いられます。
20世紀初頭の多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンでも、各民族の民族運動に脅かされていた支配階級ドイツ人の間で、ドイツ人の民族的優位を主張する考えが広まっていました。ここで青年時代を過ごしたアドルフ・ヒトラーもその影響を強く受け、ドイツ人を含むゲルマン民族などのアーリア人種が最も優れた人種であり、ユダヤ人が最も劣っている、という思想を持ちます。明らかに偏った思想ですが、経済的成功者の多いユダヤ人によるユダヤ資本の支配に反発する民衆の支持を得て、ヒトラー率いるナチスは1933年にドイツで政権を獲得します。
ドイツの総統になったヒトラーはユダヤ人排斥・絶滅政策を進めます。1935年のニュルンベルク法で公民権を奪い、1938年にはドイツ全土でユダヤ人商店が襲撃され破壊される水晶の夜事件が発生します。1939年の第二次世界大戦勃発以降は占領地でもユダヤ人を排斥して強制収容所に収容し、過酷な強制労働に従事させ、多数の死者が発生します。1942年1月、ユダヤ人絶滅政策が本格化され、ゲシュタポ(秘密警察)がその任務を行います。労働可能な者に強制労働をさせる強制収容所に加え、労働できない者を毒ガスで即殺害するための絶滅収容所も建設されます。1945年にドイツが降伏して第二次世界大戦が終戦するまでに、約600万人のユダヤ人がホロコーストの犠牲となりました。これはヨーロッパにいたユダヤ人の約半数といわれます。

現代〜流転の果てに手にしたもの〜
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1939年に約1700万人いた世界のユダヤ人口のうちホロコーストによって約600万人が死亡すると、1948年時点でユダヤ人口の中心は約450万人が住むアメリカ合衆国に移ります。ソ連には約200万人が住み、1948年に建国されたイスラエル共和国には約72万人が住んでいました。その後、イスラエルのユダヤ人口は急増し、2024年時点ではイスラエルが約700万人、アメリカ合衆国が約600万人となります。
ソ連からの出国
1922年に建国されたソ連は、諸民族の協力を取り付けて国家を盤石にするため、ユダヤ人差別を廃止し、ユダヤ人を民族として認めます。ユダヤ人の側も、ソ連社会の中で上昇していくため、ウクライナなどのロシア西部のユダヤ人が多い地域から出てモスクワやサンクトペテルブルクなどのソ連中心部へ進出する人が多くなります。スターリンは第二次大戦中はアメリカの支援を取り付けるためにユダヤ人を懐柔します。しかし、大戦後に冷戦が始まってアメリカとの冷戦が始まると、ユダヤ人のアメリカとの繋がりを怪しく感じ、ユダヤ人文化人・経済学者・スポーツ選手などを追放します。1953年にスターリンが死去してフルシチョフが第一書記になると、スターリンに追放されたユダヤ人文化人たちを復帰させます。1964年にブレジネフに書記長が変わると再び体制は厳しくなります。ユダヤ人知識人はこのブレジネフ体制に異論を唱え、特にソ連の厳しい出国制限に異論を唱えます。ブレジネフも、経済に行き詰まっていく中で西側からの支援が欲しかったため、少しずつ出国を認めます。1985年にゴルバチョフに書記長が変わると、出国制限を大幅に緩和します。ソ連経済の崩壊もあり、1989年から多くのユダヤ人がソ連を去ります。彼らは主にイスラエル共和国とアメリカ合衆国に移住します。
イスラエル共和国建国

ポグロムで弾圧されていたユダヤ人の中で生まれたシオニズムは、オーストリア出身のユダヤ人ヘルツルによって1897年にスイスのバーゼルで第1回シオニスト大会が開催されたことで、一大政治勢力となります。第一次世界大戦でオスマン帝国と戦ったイギリスはユダヤ人の協力を得るため、オスマン帝国の支配下にあるパレスチナにユダヤ人国家を建設することを約束するバルフォア宣言を行います。その結果、多くのユダヤ人がパレスチナに渡ります。しかし、イギリスはアラブ人の協力を得るためにアラブ人にも独立を約束するフサイン・マクマホン協定を結び、さらにオスマン帝国領をフランス・ロシアと山分けするために両国とサイクス・ピコ協定を結びます。イギリスによる三枚舌外交です。1918年に第一次世界大戦が終結すると、イギリスはサイクス・ピコ協定通りにオスマン帝国領をフランスと山分けし、パレスチナはイギリスが統治します。ロシア帝国は革命で倒れたため除外されます。裏切られたユダヤ人とアラブ人はイギリスに対する反乱を起こし、さらにユダヤ人とアラブ人の間でも紛争が起こります。第二次世界大戦によってイギリスが弱体化すると、イギリスはパレスチナ問題を対処しきれなくなり、国連の場で協議されることになります。1947年11月、国連でパレスチナ分割決議が採択されます。ところが、これはパレスチナ人口の3割しかいないユダヤ人に6割の土地を与えるものだったため、シオニストは賛成しますがアラブ諸国は猛反発します。1948年5月、イギリス委任統治の終了に合わせてシオニストがイスラエル独立を宣言すると、アラブ諸国がイスラエルに攻め込み、第一次中東戦争が始まります。シオニスト軍は大勝し、分割決議よりもユダヤ領が増え停戦となります。2世紀にローマ帝国にパレスチナを追放されて以来2000年弱も自分の国を持たなかったユダヤ人は、ついにかつての故郷の地で独立を達成したのです。しかし、その結果アラブ人のパレスチナ難民が発生します。その後イスラエルはアメリカ・イギリス支援のもと経済と軍事を強化し、アラブ諸国と何度も戦争を繰り返して領土と入植地を広げていきます。ところが、21世紀に入ってもパレスチナ問題は解決せず、ユダヤ人とアラブ人の対立は激化しテロや紛争が頻発しています。
当初はシオニズムから距離を置いていたセファルディムも、パレスチナでのユダヤ人とアラブ人の紛争が激化すると、巻き込まれていきます。ユダヤ人口を増やしたかったアシュケナジムも、セファルディームの移民を表面上は歓迎します。しかし、アシュケナジムはセファルディムを遅れた人々と考えていたため、伝染病を疑われて殺虫剤を体中に散布されたりといった事件も起こります。中東・北アフリカからの移民はどんどん増えていき、1970年代にはイスラエルのユダヤ人口の半数が中東・北アフリカ系になります。セファルディムの中でも中東・北アフリカ系の人々は「ミズラヒム」とも呼ばれます。アシュケナジムとミズラヒムは思想や習慣にすれ違いがあり、ミズラヒム差別によって暴動が起きたりもしています。
イスラエル共和国のユダヤ人口は2024年時点で700万人を超え、世界で最もユダヤ人が多く住む国となっています。
アメリカ合衆国への移民
1654年に現在のニューヨークにセファルディムが初めて移民してからしばらくの間、アメリカ大陸のユダヤ人口は非常に少ない状態が続きます。19世紀半ばにドイツのアシュケナジムがアメリカへの移民を開始し、ロシア帝国でポグロムが吹き荒れた1881年以降はロシア帝国からのアシュケナジムの移民が劇的に増加します。この流れはアメリカ合衆国が東欧からの移民を大幅に制限する移民法を制定した1924年まで続きます。1924年の時点でアメリカ合衆国のユダヤ人口は400万人に到達し、その後はあまり増えず2024年時点で約600万人のユダヤ人がアメリカ合衆国に住んでいます。これはイスラエルに次いで世界で2番目のユダヤ人口です。当初、アメリカ合衆国に移住したユダヤ人は衣服産業に従事する者が多く、労働環境は過酷でした。しかし、その衣服産業が成功したことや、ユダヤ人同士の相互扶助や仕事の紹介というコネが充実していたことで、20世紀半ばまでにアメリカ合衆国のユダヤ人は中流階級へと上昇します。すると肉体労働の衣服産業からホワイトカラーの職種へ移る者も多く現れます。この背景には、ユダヤ人弁護士の尽力もありました。彼らは同胞ユダヤ人の労働環境と給与の改善に尽力したのです。また、アメリカ合衆国では反ユダヤ主義はほとんど発生しませんでした。さまざまな人種を抱えるアメリカ合衆国にはアフリカ系の黒人やアジア系の黄色人種など見た目からして異なる人々が多く、そのため多数派である白人と見た目が同じユダヤ人は、キリスト教とユダヤ教という宗教の違いを超えて、白人という大きな枠の中に入ることができたのです。「ユダヤ・キリスト教文明」という言葉も流通し、アメリカ合衆国においてキリスト教徒とユダヤ教徒は同盟関係にあるとまで言われます。そして、アメリカ合衆国に住むユダヤ人のロビー活動により、アメリカ合衆国はイスラエル共和国への支援を継続しているのです。

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