サラサーテとは?ツィゴイネルワイゼンで知られるヴァイオリニストにして作曲家の生涯をわかりやすく解説

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。

今回は、『ツィゴイネルワイゼン』の作曲者として有名な19世紀のスペイン出身ヴァイオリニストにして作曲家、サラサーテの生涯を解説します。

サラサーテという名前は一般にはあまり知られていませんが、『ツィゴイネルワイゼン』という曲名や衝撃的な冒頭のメロディは、誰もが1度は聞いたことがあると思います。ヴァイオリンの超絶技巧といえばこの曲です。

他にも『カルメン幻想曲』などいくつかの曲を作曲している一方で、ヴァイオリンの腕前も凄まじく、19世紀ヴァイオリニストを代表する人物としても知られています。

この記事では、まず当時の世界とスペインの時代背景と音楽史について分かりやすく解説し、サラサーテの生涯を追っていきます。そして最後に、管理人によるサラサーテ作曲『ツィゴイネルワイゼン』のヴァイオリン演奏動画を載せています。

目次

サラサーテが生きた頃の時代背景

世界の状況

サラサーテは、西暦1844年3月10日にスペインのパンプローナで生まれ、1908年9月20日にフランスのビアリッツにて64歳で生涯を終えます。19世紀半ばから20世紀初頭に生きた人物です。この時期は、ウィーン体制が崩壊して欧州諸国が自由主義化と産業革命を遂げ、帝国主義列強による世界の植民地化が進んだ時代でした。

ウィーン体制によって一時的に絶対王政が復活しますが、自由主義・ナショナリズムを求める動きは止められず、各地で反乱や革命が起き、1848年にウィーン体制は崩壊します。

いち早く工業化したイギリスは世界の工場となり、圧倒的な生産力を背景に世界各地をイギリス中心の経済システムに組み込みます。選挙法改正やカトリック教徒解放法などの自由主義化も進み、ウィーン体制とは距離を取って経済力強化と植民地拡大を進め、1837年に即位したヴィクトリア女王のもとで大英帝国繁栄の黄金期を迎えようとしていました。

アメリカ合衆国は領土拡大を続けます。1845年テキサス併合、1846年オレゴン併合、1846〜1848年の米墨 戦争勝利によってカリフォルニア併合し、太平洋まで到達します。

オスマン帝国ではタンジマートと呼ばれる上からの近代化改革が始まります。南下政策を取るロシアはオスマン帝国への進出を拡大しようとしますが、それを恐れるイギリスはオスマン帝国を安定させようとし、オスマン帝国はイギリス・ロシアの覇権争いの舞台となっていきます。

イギリスは銀の流出を食い止めるため、アヘンを清に輸出します。清の林則徐が1839年にアヘンを没収すると、イギリスは1840年にアヘン戦争を起こし、イギリスが圧勝します。敗れた清は1842年の南京条約で香港をイギリスに割譲し、イギリス・フランス・アメリカに対して最恵国待遇と領事裁判権を与え、関税自主権を失うといった、不平等条約を結ばされます。

日本では1841年から老中水野忠邦が天保の改革を実施して幕府を建て直そうとしますが、大名の反対によって失敗し、1843年に失脚します。また、清のアヘン戦争敗北によってヨーロッパ諸国の圧倒的な武力を目の当たりにした日本は1842年に異国船打払令を緩和します。

インドでは1845〜1849年のシク 戦争でイギリスが勝利し、北西部もイギリスが植民地化します。同時期にイギリス東インド会社は商業活動を停止し、インド統治機関となります。こうしてイギリスはインドの大部分を植民地化することに成功します。イギリスは隣のビルマにも進出を開始し、1826年に第一次イギリス・ビルマ戦争に勝利してインドとの国境地帯を占領します。東南アジアでは1826年にイギリスが海峡植民地を成立させます。

ヴィクトリア時代の大英帝国・イギリスは「世界の工場」と言われた圧倒的な工業力と海軍力を背景に覇権を確立し、「パクス・ブリタニカ」と呼ばれる黄金時代を築きます。しかし、第二次産業革命が起こり、次第にドイツ・アメリカが台頭していきます。

ドイツではプロイセン・オーストリアによるドイツ統一の主導権争いが起こります。プロイセンは1862年に首相となったビスマルクによる鉄血政策で一気に強国化し、1866年に普墺 戦争で勝利してドイツ統一の主導権を握り、1870〜1871年の普仏戦争も勝利してドイツは完全にプロイセンによって統一され、1871年にドイツ帝国が成立します。ビスマルクは巧みな外交手腕でヨーロッパの勢力均衡を保ち、「ビスマルク体制」と呼ばれる安全保障体制が確立します。一方の普墺戦争で敗れたオーストリアは多民族支配を維持するためハンガリーに自治権を与えて、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立します。

イタリアではサルデーニャ王国主導の統一が進みます。1859年のイタリア統一戦争勝利でロンバルディア併合、ガリバルディが1860年に両シチリア王国を征服して中部・南部イタリアを併合、1861年にイタリア王国が成立し、1866年にヴェネツィア併合、1870年に教皇領を併合してイタリア統一が完成します。

ロシアは南下政策を進め、オスマン帝国に宣戦して1853〜1856年にクリミア戦争が起こります。ロシアの拡大を防ぎたいイギリス・フランスがオスマン帝国を助けるために参戦し、戦争はロシアの敗北となります。その後、ロシアは欧州方面での南下を諦め、極東方面での南下政策を進めます。

アメリカ合衆国は重化学工業による第二次産業革命によって飛躍的に工業力を高め、1873年のヨーロッパ経済恐慌によって工業生産が世界一になります。

日本では1868年に明治維新が起こって江戸幕府は倒れ、天皇主権の大日本帝国が成立します。日本は一気に近代化・西洋化を進め、欧米諸国に対して治外法権を認め関税自主権を失う不平等条約を結ばされつつも、独立を維持します。

インドではイギリスの支配に不満を持ったインド人が北インド全域で大反乱を起こし、1857年にインド大反乱が起こります。しかし反乱はイギリスに鎮圧され、1858年にムガル帝国滅亡、イギリスは東インド会社を解散させ直接統治を始めます。

19世紀後半に入って市民優位の資本主義・民主主義の社会が確立すると、欧米諸国は資源と市場を求めてさらに植民地を拡大させ、帝国主義の時代に入ります。

ヨーロッパでは、イギリスとフランスは互いに競い合いながら植民地を拡大させ、広大な植民地帝国を築きます。国内統一が遅れたドイツとイタリアも少し遅れて帝国主義に参加し、植民地を拡大します。

特にイギリスの植民地帝国は広大で、ヨーロッパ諸国の中でも抜きん出ていました。この時期はイギリスの覇権によるパクス・ブリタニカの時代となります。

ヨーロッパ諸国同士は、ドイツのビスマルクによるビスマルク体制の期間は勢力均衡による平和が保たれていましたが、ビスマルクの失脚後は徐々に対立が激化します。

ヨーロッパ諸国の強大な生産力と軍事力の前にアジア・アフリカ諸国はなすすべなく、ほとんどがヨーロッパ諸国の植民地または勢力圏となり、支配下に入りました。

アメリカ合衆国は広大な土地と工業力を活かして国力が急成長し、中南米や太平洋地域への進出も行います。

東アジアの日本は、明治維新による近代化に成功し、国力を急成長させて欧米諸国と対等に渡り合える力を手に入れます。中国の清は欧米諸国と日本によって半植民地化されていました。

20世紀初頭になると列強による世界分割もほぼ完了します。1890年のビスマルク失脚以降、ヨーロッパ諸国同士の対立は激化し、イギリス・フランス・ロシアの三国協商とドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟の二大勢力の対立が深まります。

このように、ウィーン体制が崩壊して欧州諸国が自由主義化と産業革命を遂げ、帝国主義列強による世界の植民地化が進んだのが、サラサーテが生きた当時の世界の状況です。

スペインの状況

19世紀半ばから20世紀初頭のスペインは、内戦、政変、外国勢力の介入によって不安定な時代でした。

19世紀に入ると、スペインの植民地だったラテンアメリカ諸国が次々と独立し、かつてのスペイン帝国の繁栄が大きく失われます。スペインではブルボン朝の王政が続いていました。1833年に国王フェルナンド7世が死去すると、王妃マリア・クリスティーナが摂政となり、わずか3歳の娘をイサベル2世として女王に即位させます。すると、フェルナンド7世の弟カルロスが王位継承を求めて反乱を起こします。フランク王国時代のサリカ法典を理由に、女性の王位継承はできないと主張したのです。百年戦争の頃、女系のエドワード3世のフランス王位継承が反対されたのと同じですね。保守派はカルロスを支持し、自由主義者はイサベル2世の王位継承を支持します。両者は激しく対立し、1833年から1876年まで40年以上、断続的に内戦は繰り広げられます。カルロスには聖職者や農民が味方し、女王側には軍隊、貴族、ブルジョワなどが味方します。最終的には女王側が勝利します。しかし、カルロス側の勢力が弱まると摂政マリア・クリスティーナが自由主義者を抑圧して強権を振るったこともあり、スペイン王政は不安定な状況が続きます。成人したイサベル2世は1843年から親政を開始しますが、気分屋で政治や外交は失敗続きになり、次第に支持を失っていきます。1868年9月、軍人と自由主義者がクーデターを起こし、イサベル2世はフランスに亡命します。このスペイン9月革命によって王政から立憲君主政に移行し、議会制や男子普通選挙が始まります。1873年3月、国王アマディオが自ら退位したため、共和政に移行します。大統領も選出され、スペイン第一共和政の始まりです。しかし、地方分権を求める連邦派が反乱を起こすなど、共和政の基盤は不安定でした。結局、1874年12月、イサベル2世の息子アルフォンソ12世を迎え入れることになり、ブルボン朝の立憲君主政が復活します。

その後は国内は立憲君主政のもとで比較的安定していましたが、今度は対外関係が不安定になります。1895年に植民地のキューバで反乱が発生し、独立を宣言します。キューバ共和国の成立です。スペインがこれを認めず鎮圧しようとすると、カリブ海や太平洋への進出を目論んでいたアメリカ合衆国が介入し、1898年に米西戦争が勃発します。世界一の工業国となっていたアメリカに対してスペインは劣勢で、わずか4ヶ月でアメリカの勝利で終戦します。スペインはキューバ独立を承認し、プエルトリコ、グアム、フィリピンをアメリカに割譲します。この米西戦争の敗北でスペインはほとんどの植民地を失いました。米西戦争敗北後、スペインでは政党間の対立が激化します。保守派、自由主義者、労働者の対立によって労働運動や暗殺事件などが続きます。

このように、19世紀半ばから20世紀初頭、内戦、政変、外国勢力の介入によって不安定な時代のスペインにサラサーテは生きました。イサベル2世が親政を開始した翌年の1844年3月、スペイン北部ナバラ地方のパンプローナに、サラサーテは誕生したのです。

クラシック音楽の歴史

サラサーテはヴァイオリニストにして作曲家です。ここで、クラシック音楽の歴史について簡単に解説します。

一般的に、クラシック音楽とは、17〜20世紀前半の西洋音楽を指します。「クラシック音楽」と聞くと敷居が高いイメージを持つ人もいると思いますが、ドレミファソラシドといった音階やト音記号・ヘ音記号なども、クラシック音楽が生み出したシステムです。現在の世界に存在する音楽のほとんどは、クラシック音楽のシステムが基本となっています。ピアノやヴァイオリン、クラリネットといった楽器も、クラシック音楽の楽器です。

9世紀頃、カトリック教会からグレゴリオ聖歌が生まれ、それが発展して15〜16世紀にルネサンス音楽となります。この頃は歌がメインで、楽器はあまり発達していませんでした。

17世紀になると、オルガンやチェンバロなどの鍵盤楽器や、ヴァイオリンなどの弦楽器が盛んに作られ、それらのための音楽が作られるようになります。オペラなどの歌劇もこの頃誕生します。クラシック音楽の始まりです。歌劇が生まれた1600年からバッハが亡くなった1750年までがバロック音楽の時代です。代表的な作曲家は、ヘンデル、バッハ、ヴィヴァルディです。

1750〜1820年頃までが、古典派 音楽の時代です。交響曲やソナタ形式といった音楽形式のフォーマットが確立した時代です。代表的な 作曲家は、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンです。 クラシック音楽といえば、この頃の音楽をイメージする人が多いでしょう。

1820〜1900年頃までが、ロマン派音楽の時代です。この頃には、それまで教会や宮廷、貴族向けだった音楽が一般庶民にも広まり、自由でキャッチーな表現の音楽が生まれます。代表的な作曲家は、シューベルト、ショパン、ワーグナー、ブラームス、チャイコフスキー、メンデルスゾーンです。

1900〜1945年頃までが、近代音楽の時代です。さらに自由な形態に進化します。無調や十二音技法など、これまでのクラシック音楽のシステムを根底から崩すような音楽が生まれます。代表的な作曲家は、シベリウス、ラフマニノフ、ドビュッシー、ラヴェルです。クラシック音楽と呼ばれるのは、ここまでです。1945年以降は現代音楽になります。ジャズ、ロック、ポップスなどです。

ヴァイオリンの歴史

管理人のヴァイオリン(20世紀前半チェコ製)
中学生の頃に両親から買ってもらいました

ヴァイオリンは、弦を弓で擦って音を出す弦 楽器です。クラシック音楽の 楽器で、オーケストラの花形楽器です。オーケストラの弦楽器には他にヴィオラ、チェロ、コントラバスがあり、その中で ヴァイオリンは最も小さく、最も高音域を出す楽器です。明るく華やかな音色が特徴で、主要なメロディーを演奏することが多いです。

ヴァイオリンの先祖と言われているのが、中世のアラビアで使用されていたラバーブです。ラバーブは中世中期にはヨーロッパに伝えられ、レベックやフィドルと呼ばれます。レベックは抱えて弾くタイプと床に立てて弾くタイプに分かれ、抱えて弾くタイプがヴァイオリンに進化します。

これらの先祖と比べて、ヴァイオリンは楽器としての完成度がずば抜けていました。しかも、改良を重ねて完成されたのではなく、1550年頃のイタリアで突如として生まれ、最初から現在と同じ形で生まれたとされています。記録に残っている最初の製作者は、北イタリアの人で、クレモナのアンドレア・アマティと、サロのガスパロ・ディ・ベルトロッティの2人です。現存する世界最古のヴァイオリンは、アンドレア・アマティが制作した1565年頃の作品です。

17世紀後半から18世紀前半にかけて、ヴァイオリン製作は黄金期を迎えます。特に3人の有名な製作者が名器を大量に生み出します。いずれもクレモナの人で、アンドレア・アマティの孫のニコロ・アマティ、その弟子のアンドレア・グァルネリ、アントニオ・ストラディバリの3人です。彼らは一族でヴァイオリンの名器を大量に生み出します。その中でもストラディバリ一族の製作したヴァイオリンはストラディバリウスと呼ばれ、世界最高峰の名器として有名です。アマティ、グァルネリウス、ストラディバリウスは、300年以上経った現在も美しい音を出し続けています。

サラサーテの生涯

パブロ・デ・サラサーテ(出典:wikipedia)

スペイン宮廷の神童となった幼少期

サラサーテは1844年3月10日、スペイン北部のパンプローナで生まれます。フルネームだとパブロ・デ・サラサーテといいます。父は軍楽隊に所属しており、指揮者を務めていました。サラサーテは5歳頃、父からヴァイオリンを習い始めます。息子の才能をいち早く見抜いた父は、パンプローナの町にいる優れたヴァイオリン教師のもとに通わせます。サラサーテは瞬く間に才能を発揮し、1852年、8歳で初の公開演奏を行います。

1854年、10歳になるとスペイン王国の首都マドリードに行き、当時スペインの名ヴァイオリニストであったマヌエル・ロドリゲス・サエスの指導を受けます。サエスの指導によって才能をさらに開花させたサラサーテは、わずか10歳にして女王イサベル2世の御前でもヴァイオリン演奏を披露します。イサベル2世は神童サラサーテのヴァイオリン演奏に感動し、支援を申し出ます。女王はまず、名器ストラディヴァリウスをサラサーテに与えます。世界最高峰の名器として名高い楽器です。そして、当時西洋音楽の中心地であったパリ音楽院で学ぶための費用を支援します。サラサーテはスペインを代表して、ヴァイオリンを学ぶためにパリ音楽院に留学することになったのです。

母の死とパリへの旅

1855年、11歳のサラサーテは母とともにパリへ向かいます。しかし、道中のバイヨンヌで母がコレラに罹患し死亡します。わずか11歳にして母を失ってしまったのです。1人になったサラサーテを、パンプローナ出身のスペイン領事イグナシオ・ガルシア・エチェベリアがパリに送り届けます。パリに到着すると、パリ音楽院関係者のテオドール・ラサバティ夫妻に引き取られます。夫妻はサラサーテの養親のような役割を果たします。

パリ音楽院で一流音楽家へと成長

1856年、12歳のサラサーテはパリ音楽院のデルファン・アラールのクラスに入学します。1857年、13歳のときにはヴァイオリン一等賞を審査員全員一致で獲得し、ソルフェージュでも一等賞を獲得します。1859年、15歳のときには和声科で二等賞を受け、音楽院での正規教育を終えます。

デルファン・アラールはフランス派のヴァイオリン教育を代表する人物であり、洗練された弓使い、明晰な発音、歌唱性、過度でない技巧を重視していました。サラサーテはスペインで既に高度なヴァイオリン技術を身につけていましたが、パリでそれをさらに洗練された技術に磨き上げたのです。

また、作曲家ナポレオン=アンリ・ルベルのもとで和声・作曲を学んだとされています。ただ、サラサーテは大規模な交響曲などの作曲はしていません。彼の作曲技術は、ヴァイオリンの音響・運指・弓使いを最大限に生かす方向へ特化した、ヴァイオリンのための作曲でした。

パリを拠点に世界各地で演奏

パリ音楽院を卒業したサラサーテは、1860年代にはパリを拠点にしてヨーロッパ各地で演奏するようになります。自作の曲も披露し、ヴァイオリン演奏家兼作曲家として名声を高めていきます。1870年から1872年頃、サラサーテ26〜28歳頃には最初の大規模なアメリカ大陸巡演を行い、北米と南米で演奏活動を行います。その後もヨーロッパ各地で演奏活動を行い、1889〜1890年、サラサーテ45〜46歳には2度目のアメリカ大陸巡演を行います。

サラサーテは、各地で聞いた旋律や土地のイメージを作品化し、また各国の作曲家から作品を献呈されて演奏します。彼はスペインを代表した演奏家ではありましたが、スペイン音楽だけを演奏していたわけではありません。ヨーロッパやアメリカ大陸各地の異なる音楽文化をヴァイオリン用のレパートリーへ変換する演奏家だったのです。

名作曲家・名ヴァイオリニストたちとの交流〜『ツィゴイネルワイゼン』などを作曲〜

カミーユ・サン=サーンス

カミーユ・サン=サーンス(1835〜1921)出典:wikipedia

フランスの作曲家サン=サーンスの有名作である『序奏とロンド・カプリチオーソ』『ヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調』の作曲には、サラサーテが深く関与します。2人は1960年代にパリで知り合い、一緒に演奏旅行するほど親交を深めます。サン=サーンスは、ヴァイオリンが主役となるこれらの作品を作曲するにあたって、ヴァイオリニストとしての意見をサラサーテに求めます。サラサーテは、どうすればヴァイオリンが最も美しく響くかを示します。サラサーテはこれらの作品をサラサーテに献呈し、初演ではサラサーテがソリストを、サン=サーンスが指揮者を務めました。

エドゥアール・ラロ

エドゥアール・ラロ(1823〜1892)出典:wikipedia

フランスの作曲家兼ヴァイオリニストのラロは長年無名でしたが、50代で作曲した『ヴァイオリン協奏曲第1番へ長調』が1874年にサラサーテの独奏で初演されたのが大成功したことで有名になります。かなり遅咲きの作曲家です。このラロが再びサラサーテのために作曲したのが『スペイン交響曲』です。この作品はラロの代表作です。交響曲と名付けていますが、ヴァイオリン独奏者とオケ伴奏という編成であり、実質的にはヴァイオリン協奏曲です。『スペイン交響曲』も1875年にサラサーテの独奏で初演され、さらなる大成功を収めました。

マックス・ブルッフ

マックス・ブルッフ(1838〜1920)出典:wikipedia

ドイツの作曲家ブルッフは、サラサーテの演奏に心酔し、彼のために『ヴァイオリン協奏曲第2番二短調』『スコットランド幻想曲』を作曲・献呈します。ブルッフのドイツらしい厳格で堅実な作風に、サラサーテのスペインらしい情熱的な音を組み合わせるという協働関係でした。

アントニン・ドヴォルザーク

アントニン・ドヴォルザーク(1841〜1904)出典:wikipedia

ドイツの作曲家ブラームスに才能を見出されて成功していたチェコの作曲家ドヴォルザークは、ブラームス御用達のベルリンの楽譜出版社「ジムロック社」にお世話になっていました。ジムロック社の社長は、当時世界的スターになっていたサラサーテをドヴォルザークと引き合わせることで新たな作品が生まれるのではと考え、2人を引き合わせます。2人はすぐに意気投合し、共同で作曲します。その結果、ドヴォルザークは1879年に『マズルカ』という作品を書き上げ、サラサーテに献呈します。

ヘンリク・ヴィエニャフスキ

ヘンリク・ヴィエニャフスキ(1835〜1880)出典:wikipedia

ポーランドのヴァイオリニスト兼作曲家ヴィエニャフスキとは、サラサーテがロシアに行ったときに出会いました。ヴィエニャフスキが1870年に出版した代表作『ヴァイオリン協奏曲第2番ニ短調』は、サラサーテに献呈されます。楽譜の冒頭には「親愛なる友、パブロ・デ・サラサーテへ」という文言が書かれています。

フランツ・リスト

フランツ・リスト(1811〜1886)出典:wikipedia

ハンガリーのピアニスト兼作曲家リストとサラサーテは、楽器は違えど超絶技巧の演奏家として世界的スターであり、民族音楽を愛しているという共通点がありました。1870年代に出会った2人は親交を深め、リストの邸宅にサラサーテが招かれて音楽について語り合ったりヴァイオリンとピアノで即興演奏したりと親密な関係となります。サラサーテはリストに大きく影響を受け、リストが作曲した『ハンガリー狂詩曲第13番』のメロディの一部がサラサーテの代表作『ツィゴイネルワイゼン』にそのまま取り入れられています。

ヨーゼフ・ヨアヒム

ヨーゼフ・ヨアヒム(1831〜1907)出典:wikipedia

ハンガリーのヴァイオリニスト兼作曲家ヨアヒムは、サラサーテのライバルとされる人物です。ドイツ音楽的な厳格で重厚な曲を好むヨアヒムと、華麗かつ優雅で正確性を好むサラサーテ。音楽性の違いからライバル関係にありましたが、お互いにリスペクトしており、サラサーテは自作の『スペイン舞曲集』をヨアヒムに献呈しています。

ウジェーヌ・イザイ

ウジェーヌ・イザイ(1858〜1931)出典:wikipedia

ベルギーのヴァイオリニスト兼作曲家イザイは、サラサーテとパリで親交を深めました。イザイはサラサーテのことを「われわれに正確に弾くことを教えたのは彼だ」と語ります。サラサーテは正確な技巧を重視していたためです。サラサーテは自作の『スコットランドの歌』と『ロシアの歌』をイザイに献呈します。

パンプローナとスペインを代表する世界的音楽家

サラサーテは、世界的な名声を得た後も故郷パンプローナとの関係を保ちます。1878年、サラサーテ34歳の頃から、パンプローナのサン・フェルミン祭の時期に定期的に帰郷して演奏を披露します。滞在中にホテル客室のバルコニーから群衆に向かって演奏するなど、サラサーテは故郷の人気者でした。1879年、35歳のときにはパンプローナのサンタ・セシリア管弦楽団の創設に尽力します。1897年、53歳のときにはパンプローナ市によってサラサーテ博物館が開設されます。ここには存命中にもかかわらず本人の遺品、勲章、書籍、楽譜、写真、絵画、胸像、ピアノ、ヴァイオリンなどが展示されました。1902年、58歳のときにはパンプローナの「最愛の息子」に相当する称号を贈られ、1903年、59歳のときには市中心部の遊歩道が「パセオ・デ・パブロ・サラサーテ」と改称されます。

64歳で死去

1902年、58歳のサラサーテはフランス南西部ビアリッツに邸宅を購入し、「ヴィラ・ナバラ」と名づけます。晩年のサラサーテはここで過ごすようになります。

1904年、60歳のサラサーテはパリで蓄音機録音を行います。当時は録音技術の黎明期です。そのため、サラサーテの実際の演奏が現在でも残されています。『ツィゴイネルワイゼン』など多数の曲を録音しました。サラサーテより前の時代の演奏家、パガニーニやヴィエニャフスキの頃は録音技術がなかったため彼らの演奏を聴くことはできませんが、サラサーテ以降は実際に聴いて比較することができるようになったのです。

サラサーテの墓(出典:「作曲家の墓」)

1908年9月20日、サラサーテは肺気腫によりヴィラ・ナバラで死去します。64歳でした。遺体はパンプローナへ運ばれ、葬儀後、サン・ホセ=ベリチトス墓地の白大理石の霊廟へ葬られます。

サラサーテの腕前と人柄

サラサーテは、難しいフレーズを軽々と演奏する驚異的な技巧を持っていました。しかし、「悪魔的」と評されるパガニーニと異なり、身振りの激しさ、不気味さや恐ろしさはありません。サラサーテはほぼ直立不動で演奏し、繊細で洗練された技巧を披露しました。音程の正確さを重視し、超絶技巧をスマートに正確に演奏するスタイルでした。容姿も不気味だったパガニーニと異なり、サラサーテは常に身だしなみを整え、オシャレで立ち振る舞いも優雅な紳士でした。気難しさもなく、穏やかで礼儀正しい人物でした。世界的スターとして愛される理由でしょう。

サラサーテに夢中になる女性ファンも多くいましたが、彼は女性からのアプローチを全て断り、生涯独身を貫きます。過去に結婚目前まで行った女性に直前で拒絶されたショックから、以後交際することはなくなったようです。サラサーテは、なぜ結婚しないのか聞かれるたびに以下のように答えています。

「私は自分のヴァイオリン(ストラディヴァリウス)と結婚しているからね」

『ツィゴイネルワイゼン』※管理人によるヴァイオリン演奏付き

サラサーテは、リストとジプシー音楽の影響を受けて『ツィゴイネルワイゼン』を作曲します。サラサーテの作品の中で圧倒的に有名であり代表作です。彼の作品内に留まらず、ヴァイオリン超絶技巧曲の中でも最も有名で代表的な曲です。冒頭のドラマティックなメロディは誰もが1度は聞いたことがあるほど有名で、ヴァイオリン学習者の中では憧れの超絶技巧曲です。現代日本で最も有名なヴァイオリン曲は『情熱大陸』ですが、最も有名なヴァイオリン超絶技巧曲は『ツィゴイネルワイゼン』でしょう。

ヴァイオリンとピアノの2名で演奏されることが多いですが、本来の楽器編成は独奏ヴァイオリン、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、ティンパニ、トライアングルです。

管理人は5歳からヴァイオリンを習っていました。サラサーテ『ツィゴイネルワイゼン』の演奏動画を載せましたので、良ければお聴きください。管理人が独奏ヴァイオリンのパートを演奏し、ピアノ伴奏がその他のパートを演奏しています。

サラサーテ年表

1844年3月10日(0歳)スペインのパンプローナで生まれる
1849年頃(5歳)軍楽隊に所属している父からヴァイオリンを習い始める
1852年頃(8歳)初の公開演奏
1854年頃(10歳)マドリードでマヌエル・ロドリゲス・サエスに師事
1855年(11歳)パリへ向かう途中で母の死
1856年(12歳)パリ音楽院入学
1857年(13歳)音楽院でヴァイオリン一等賞を獲得
1860年代(16〜25歳頃)ヨーロッパ各地で演奏家兼作曲家として名声を高める
1870〜1872年頃(26〜28歳頃)最初のアメリカ大陸巡演
1875年(31歳)ラロ『スペイン交響曲』をパリで初演
1878年(34歳)『ツィゴイネルワイゼン』を作曲
1879年(35歳)パンプローナでサンタ・セシリア管弦楽団を創設
1881年(37歳)『カルメン幻想曲』を作曲
1897年(53歳)パンプローナ市がサラサーテ博物館を開設
1902年(58歳)ビアリッツに「ヴィラ・ナバラ」を購入して移住
1908年9月20日(64歳)肺気腫により死去
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この記事を書いた人

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