こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。
今回は、ナチスドイツが建設した強制収容所の中で最大規模で最も多くの犠牲者を出した「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」について解説します。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の建設

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、ナチスドイツが第二次世界大戦中に行った人種差別による強制労働と絶滅政策が実行された中で最大の犠牲者数を出した強制収容所です。被収容者の約90%がユダヤ人でした。複数の収容所群からなり、第一強制収容所は現在のポーランド南部のアウシュヴィッツに、約3km離れたビルケナウに第二収容所が建設されます。これらアウシュヴィッツ及びビルケナウとその周辺の小収容所約50ヶ所を含め、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」といいます。

1940年4月、ナチス親衛隊(SS)長官ヒムラーが建設を命じ、1940年6月14日に親衛隊将校ルドルフ・ヘスを所長として開設されます。大量のユダヤ人、反ナチス政治犯、ロマ(ジプシー)、障害者、同性愛者などが収容されます。1941年6月22日に独ソ戦が開始されると、大量のソ連軍捕虜も収容され、施設も大幅に拡張されます。収容所は高圧電流を流した二重の有刺鉄線で囲まれ、28のブロックに分かれた収容棟がありました。収容所の周辺には化学工場や金属工場が作られ、そこで被収容者を労働させます。人体実験を行う施設もありました。
収容所での暮らし
選別
被収容者たちは、ドイツ占領下の各地から貨車などで運ばれてきます。貨車の中は人がぎゅうぎゅうにあふれていました。アウシュヴィッツの貨物駅で降ろされ、そこではアウシュヴィッツ・オーケストラという被収容者からなる音楽隊が演奏をしています。その後すぐに「収容理由」「思想」「職能」「人種」「宗教」「性別」「健康状態」といった情報をもとに「労働者」「人体実験の検体」「価値なし」などに分けられます。「価値なし」とされた被収容者は即ガス室などで処分されます。その多くが女性、子供、老人でした。学校や孤児院から集団で送られてきた子供たちは審査もなく即ガス室へ送られます。
登録

即ガス室行きを免れた被収容者は、男女ともに丸刈りにされ、消毒、写真撮影、管理番号の刺青などの入所手続きを行います。管理番号は全員に与えられます。私物は選別の前に全て没収され、与えられる囚人服が唯一の所持品となります。最後に、人種や性別ごとに分けられた収容棟に送られます。
囚人服には「政治犯」「一般犯罪者」「移民」「同性愛者」「ユダヤ」「ロマ」などを区別するマークが付けられます。この区別により収容所内にもヒエラルキーが形成され、労働内容、食事、住環境に差がつけられます。ヒエラルキーはドイツ人を頂点に、西・北ヨーロッパ人、スラヴ人、そして最下層にユダヤ人や同性愛者、ロマが置かれ、下層ほど過酷な状況に置かれ死亡率も高くなります。ヒエラルキーを設けることで上層の被収容者を安心させ、被収容者全体がまとまって反抗することを防止する狙いがありました。
労働
労働内容は4つのタイプに分けられます。1つ目は懲罰部隊で、極限の重労働が課されます。規則違反を犯した被収容者がここに入れられ、「午前中は穴を掘り、午後はその穴を埋める」といったような生産性のない作業が命じられることもあります。被収容者を消耗させることが目的です。懲罰部隊に入れられた被収容者の多くは数ヶ月以内に死亡します。
2つ目は、工場労働や施設管理です。戦争遂行のための資材・兵器などの生産や、収容施設の維持管理のための労働です。ここは何らかの技能や知識を持つ被収容者が当てられます。懲罰部隊よりは遥かにマシですが、劣悪な食料事情や感染症の蔓延などにより死亡する者もいました。
3つ目は、ゾンダーコマンド(特別労務班員)です。収容所内で死亡した大量の遺体を焼却炉に運ぶ仕事をします。
4つ目は、カポ(監視員)です。ほかの被収容者たちを監視する仕事です。主に第一収容所のドイツ人犯罪者から選ばれ、被収容者ヒエラルキーの頂点にいました。戦後、過酷な懲罰を課したことで裁かれる者もいました。
住環境

住環境は非常に劣悪でした。アウシュヴィッツは夏は最高37度の猛暑、冬は最低マイナス20度の極寒という気候の土地です。第一収容所はもともとポーランド軍の兵営だったため暖房がありましたが、薪などの燃料は供給されませんでした。掛け布団は汚れて穴だらけの毛布だけでした。カポなど親衛隊(SS)に協力する者には個室やまともな食事が与えられます。
第二収容所はバラックのような粗末な作りで、もともとポーランド軍の馬小屋だったものや、床がなかったり上下水道が完備されておらず地面が泥水となっていた施設もありました。暖房は簡素なものがありましたが燃料の供給はありません。夜は3段ベッドに藁を敷いてその上に寝ます。トイレは排水も不十分な不衛生なもので、トイレ使用も午前午後2回ずつに制限され、目隠しもなく一斉に使用することとされます。
食事
食事も非常に粗末でした。公式には重労働者に1日2150kcal、一般労働者に1日1700kcalの食事を与えるという規定がありましたが、現場監督によっても量は左右され、カポに食料を奪われたり、被収容者たちの間で食料の奪い合いもありました。アウシュヴィッツ博物館に展示されている一例では「朝食:約50ccのコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)、昼食:ほとんど具のないスープ、夕食:300gほどの黒パンと3gのマーガリン」といった非常に粗末なものでした。
医療
収容所内は栄養失調や不衛生な環境によりチフスなどの感染症が蔓延し、病死する者も多かったです。被収容者の中にいた医師や看護師が治療にあたります。病気になり回復が難しいと診断された被収容者はガス室送りになります。医療現場はガス室行きの第二の選別の場でした。
被収容者の管理
アウシュヴィッツの警備は約6000名のSSしかおらず、対して被収容者は最大約14万人いました。そのため、被収容者のコントロールが重要となります。懲罰は、圧倒的多数の被収容者へ恐怖を与え従わせるための見せしめの意味もあり、懲罰は被収容者管理の要でした。
懲罰内容は、鞭打ち、懲罰部隊、立ち牢、飢餓牢など過酷なものでした。時には銃殺刑や絞首刑も行われ、それを公開することで死の恐怖を全ての被収容者たちに見せつけ、恐怖を植え付けていました。これらの懲罰はむやみやたらと行われたわけではなく、圧倒的多数の被収容者をコントロールするために計画的に行われていました。絶望のあまり高圧電流が流れる鉄条網に自ら触れて自殺する者もいました。
脱走者も出ます。脱出に成功した者は約150名でした。これには内部のレジスタンスの協力があったとされています。脱走者が出ると、脱走者の10倍の人数を見せしめとして飢餓刑で殺害します。
被収容者たちによるオーケストラ、アウシュヴィッツ・オーケストラという音楽隊も組織されていました。このオーケストラは、アウシュヴィッツ強制収容所が人道的に運営されていると対外的に主張するためのカモフラージュでした。奏者は特別待遇を受けます。
ガス室での大量殺戮

1942年1月に開催されたヴァンゼー会議の結果、労働不能なユダヤ人はガス室で殺害することが決定されます。アウシュヴィッツでの大量殺害は、クレマトリウムというガス室と焼却炉が複合した施設で、痕跡を残さずに行われます。クレマトリウムは第一収容所に1ヶ所、第二収容所に7ヶ所の合計8施設あり、最大で1日に約8000人がガス殺され遺体が焼却されます。
人体実験

ドイツ人医師たちは、被収容者をさまざまな人体実験のモルモットにします。男女の断種実験、新薬投与、有害物質の投与などを行い、遺伝学や人類学の研究を行いました。人体実験による死者は数百人で、生き残っても障害が残る者が多かったです。戦後に行われたニュルンベルク裁判では、人体実験を行った医師は医療犯罪として裁かれました。
被収容者による抵抗
密かに脱走した者とは別に、収容所内での組織的な抵抗も発生します。ドイツ軍の戦況が悪化していた大戦末期の1944年10月7日、ビルケナウのクレマトリウムで親衛隊による点呼と選別が行われていたとき、ゾンダーコマンド(特別労務班員)がSS隊員に鉄棒などで襲いかかり、カポのカールは生きたまま焼却炉に放り込まれます。そして約600人のユダヤ人が脱走を試みますが、失敗してほとんどが射殺されて終わります。この武装蜂起でクレマトリウムの焼却炉のうち8つが破壊されました。
ソ連軍による解放

ソ連軍接近に伴い、1944年11月、ヒムラーはガス殺中止命令を出します。1945年1月20日には最後のクレマトリウムがSS隊員によって爆破されます。そして1945年1月27日、ソ連軍はアウシュヴィッツを占領し解放します。そのときの生存者は7650人で、ほとんどが病人でした。多くの被収容者たちは、処刑されるかドイツ本国の強制収容所に移送されます。移送された者は約6万人いました。『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクもこのとき姉と一緒にドイツ本国のベルゲン=ベルゼン強制収容所に移送され、イギリス軍に解放される直前に腸チフスで死亡します。
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死亡者数

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所での死亡者数については諸説あります。解放したソ連軍の調査では約400万人とされ、生き残った複数の被収容者たちも約400万人程度と証言しています。所長のルドルフ・ヘスが裁判で証言した人数は、ヘス自身の見積もりですが約113万人です。現在最も信頼性のある数字として一般的に認められているのは、約110万人という数字です。これは、アウシュヴィッツ博物館の歴史部門の責任者だったフランシスチェク・ピーパー博士の研究成果によるものです。
世界遺産への登録
1979年、アウシュヴィッツ強制収容所の悲劇の跡は後世に語り継ぐべきものだとして、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。日本では「負の世界遺産」ともいわれます。2007年には、ポーランド政府の要請により「アウシュヴィッツ=ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所」に名称変更されました。
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