こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、イングランドとの百年戦争で劣勢に立たされていた15世紀前半のフランスで、ジャンヌ・ダルクの戦友としてフランスの勝利に貢献した救国の英雄、ジル・ド・レの生涯や真相を解説します。
ジャンヌと共に戦い、フランス救国の英雄となりますが、ジャンヌの処刑後、黒魔術にはまって大量殺人鬼となってしまい、最後は殺人罪で処刑されてしまします。
そんな光と影の二面性を持つジル・ド・レですが、いったい本当はどんな人物であり、どうして殺人鬼となってしまったのでしょうか?
この記事では、まず当時の世界とフランスの時代背景を分かりやすく解説し、彼の生涯を地図を用いて追っていき、最後に逸話を紹介します。
ジル・ド・レが生きた時代の世界とフランスの状況
世界の状況
ジル・ド・レは西暦1405年に西フランスのシャントセ(現シャントセ=シュル=ロワール)で生まれ、1440年で35歳にして生涯を終えます。ジャンヌ・ダルクの7歳上で、ジャンヌの死から9年後にジルも死去します。15世紀前半に生きた人物です。
15世紀前半の世界は、封建制・荘園制を土台とする「中世」の社会から、中央集権・主権国家を土台とする「近世」の社会への移行が徐々に始まっていた時期です。
また、15世紀後半以降の大航海時代に向けた準備の期間であり、危機と停滞の時代から交易と発展の時代への過渡期です。
14世紀は北半球の各地で不作や飢饉が続いて政情不安になり、ペスト(黒死病)が流行するなど、危機と停滞の時代でしたが、15世紀前半に各地の経済は回復に向かい、中国の明では永楽帝のもとで全盛期を迎え、朝貢貿易の活性化をねらい鄭和がアジア・アフリカに航海した南海遠征が行われました。そして15世紀後半からは、ヨーロッパのイベリア半島でレコンキスタ(キリスト教徒によるイスラーム教徒に対する国土回復運動)を完了させたスペインとポルトガルが、イスラーム世界を介さないアジアとの直接交易とキリスト教布教を目指してアメリカ・アジア・アフリカに進出した、大航海時代の始まりとなります。
オリエントでは1000年以上続いたビザンツ帝国(東ローマ帝国)が15世紀に入ると風前の灯となり、1453年にはオスマン帝国に滅ぼされます。オスマン帝国はバルカン半島やアナトリアの支配地を拡大しながら発展を始め、中央アジアではティムール帝国が大帝国を築いています。一方、ロシアではキプチャク・ハン国の支配が続く中でビザンツ帝国の後継者を自称するモスクワ大公国が台頭を始め、モンゴル高原ではオイラトが北元を滅ぼしてモンゴル高原の支配者となります。インドでは北部のデリー・スルタン朝、中部のバフマニー朝、南部のヴィジャヤナガル王国が並立し、東南アジアのベトナムでは大越国(黎朝)が成立、明と明が支援するチャンパーと対立します。マレーシアでは明の支援のもとマラッカ王国が中継貿易で繁栄します。アメリカ大陸ではアステカ王国とマヤ文明、インカ帝国が発展しています。
そして日本は、室町幕府の全盛期を迎えていました。
このように、領主の権力が強い封建制・荘園制を土台とする中世社会から、王権が強い中央集権・主権国家の近世への移行が始まり、危機と停滞の時代から交易と発展の時代への過渡期にあたる時期が、ジル・ド・レが生きた当時の世界の状況です。
フランスの状況
世界全体の状況としては回復傾向にありましたが、ジル・ド・レの祖国フランスは、未だに危機的状況でした。1339年に始まったイングランドとフランスの百年戦争は、15世紀に入ってからフランスの内部分裂の影響もあり、イングランドが優勢となっていました。
ジルが生まれた1405年頃のフランス王はヴァロワ朝のシャルル6世でしたが、精神障害を抱えており、弟のオルレアン公ルイと従兄弟のブルゴーニュ公ジャンが権力争いをしていました。そんな中、1407年にブルゴーニュ公ジャンがオルレアン公ルイを暗殺したことがきっかけで、オルレアン派とブルゴーニュ派で内乱が起こってしまいました。
当時のイングランド国王ヘンリー5世はフランスの内乱を好機と見て、ブルゴーニュ派を手を結んでオルレアン派を攻撃していきました。ヘンリー5世はシャルル6世の娘カトリーヌと結婚し、1422年にヘンリー5世とシャルル6世が亡くなると、2人の子を英仏両国の王としました。これに対抗してオルレアン派はシャルル6世の息子をシャルル7世としてフランス王に即位させました。
どっちが正統な王家だとかいうくだらない理由で血みどろの争いを繰り広げていますが、どこの国の歴史もそんなものです。オルレアン派とブルゴーニュ派がまるで福岡の元祖長浜ラーメン戦争のごとく熾烈な争いを繰り広げる中でイングランドが漁夫の利を得た形になりましたが、百年戦争の終結後にはイングランドのランカスター家とヨーク家が元祖長浜ラーメン戦争のごとく争います。
イングランドとブルゴーニュの連合軍に対してフランス王国軍(オルレアン派)は劣勢であり、イングランドとブルゴーニュはパリ、ルーアン、ランスといった主要都市を含むフランス北部のほとんどと南西部の一部を支配下に置いていきました。そして1428年、イングランド軍はフランス王国の重要都市オルレアンを包囲しました。オルレアンはフランス中心部への攻撃を防ぐ最後の砦であり、オルレアンが陥落すればフランスの敗北は決定的になるといった、極めて危機的状況となりました。そのオルレアン包囲戦の最中である1429年、ジル・ド・レはジャンヌ・ダルクの戦友として歴史の表舞台に登場するのです!
当時の西ヨーロッパにおけるローマ・カトリック教会の権威
ジル・ド・レの生きた時代の西ヨーロッパは、宗教改革が始まっており、ローマ・カトリック教会の権威が衰退期を迎え王権が伸張していた時期でしたが、教会は未だに一定の権威を誇っていました。ジル処刑の原因となる異端審問も、カトリック教会が当時のヨーロッパで広く信仰されており権威があったからこそ起こった出来事であり、当時の教権への理解なくしてジル・ド・レを理解することはできません。
教権は教皇を頂点とし、その下に大司教、司教、司祭などの聖職者が存在するヒエラルキーであり、皇帝や国王を頂点とする世俗のヒエラルキーと二重の構造で西ヨーロッパを支配していました。
14世紀から15世紀の不作・飢饉やペスト(黒死病)の流行、宗教改革や宗教戦争による社会的な混乱は魔女や異端者のしわざとみなされ、反カトリックとみなされた大勢の人々が処刑されていました。
このように、当時の西ヨーロッパでは未だにローマ・カトリック教会が一定の権威を誇り、異端者が迫害され、正統なカトリック信者であることが良いとされていた時期であったのです。
そして、カトリックでは男色や悪魔崇拝が神への冒涜として重罪だとされていました。
敬虔なカトリック教徒であったジルが男色や悪魔崇拝を行うことは、極めて重罪であったのです。
ジル・ド・レの生涯
祖父の影響で悪に染まった少年時代
ジル・ド・レは西暦1405年、フランス西部のシャントセ(現シャントセ=シュル=ロワール)の城で貴族の子として生まれました。
父の家系はブルターニュ地方の貴族で代々アンジューの領主に仕えており、母の家系もブルターニュ・アンジューとの関係が深い貴族です。
ジルは両親のもとで家庭教師を付けられ、最初は美男子で武術と芸術に優れた模範的な貴族・騎士として育ちます。
しかし、不幸なことに1415年、11歳のときに両親が一気に亡くなってしまいます。
せっかく順調に育っていたのに11歳の若さで両親を失うなんて、かわいそうですね。両親を失った悲しみで心を閉ざし、非行に走ってしまうのは少し同情の余地があると思います。
両親を亡くしたジルは母方の祖父ジャン・ド・クランに引き取られますが、この祖父が問題ありの人物でした。
祖父からは甘やかされて家庭教師も付けられず、放任されます。
祖父は領地拡大のためなら手段を選ばない人物で、ジルを政略結婚の手駒に使って1417年と1419年に2度婚約させますが、婚約者の死亡などにより、いずれも失敗してしまいます。
しかし、1420年、16歳のときに祖父は近隣の領主の娘カトリーヌ・ド・トアールを誘拐して強引にジルと結婚させてしまいます。こうしてジルの領地は祖父の悪行によって拡大していきます。
やがてジル自身も祖父の真似をし、1423年、18歳のときには近隣の領主の家族を誘拐して領土割譲を強引に迫り、ティフォージュ・プゾージュを手に入れます。
領地欲しさに人を誘拐するなんて、まさに悪党ですね。立派な貴族として育つはずだったジルは、不幸にも祖父の影響を受けて悪の道に染まってしまいます。
聖女ジャンヌ・ダルクと出会い、熱狂的なファンになる!
1424年、19歳のときに、祖父のコネで軍人として宮廷入りします。代々貴族の家系であり、領地も拡大していたジルは重用され、アンジュー方面の軍を動員できる立場になります。
宮廷入りしたことでジルはシノンの王宮に行くことになり、1429年にシャルル7世に謁見するためシノンの王宮を訪れていたジャンヌ・ダルクと出会うことになります。
最初はジャンヌの監視役を命じられていましたが、やがてジャンヌに感化され、ジャンヌに最も忠実な戦友となります。
聖女ジャンヌは人気が高く、フランス軍の中にもファンが多かったようですが、ジルは特に熱狂的なファンだったようです。
ジルは敬虔なカトリック教徒であり信仰心が厚かったため、ジャンヌの大天使のような威厳に圧倒され、ジャンヌを慕い、崇拝するようになります。
ジルはジャンヌに惚れていたという説もあります。後々ジルが少年たちにしたことを考えると、この頃から既にジルは美少年が好きで、男装した美少女ジャンヌがジルの好みの容姿だったのだと思います。
ジャンヌと共に戦い、救国の英雄となる
その後のジルはジャンヌと共にフランス軍を率いてイングランド軍と戦い、1429年5月にオルレアンを解放、6月にパテーの戦いで大勝利、7月にランス大聖堂でシャルル7世の戴冠式に出席、ここで元帥となります。
それまで劣勢で存亡の危機だった戦況を一気に逆転したので、ジルはジャンヌとともに「救国の英雄」と呼ばれ、栄光を手にします。
そして9月にパリ攻略に失敗し、ここでジルはジャンヌとお別れすることになります。
このパリ攻略失敗以降、なぜジルがジャンヌと行動を別にしたのかは分かりません。その後のジルの行動を見ると、ジャンヌを慕う気持ちがなくなったのではなさそうです。
ジャンヌと別れたジルは領地シャントセに戻り、それ以後は戦いに出ることはなくなります。
ジャンヌを失った悲しみで、黒魔術にハマって少年たちを虐殺する
1430年5月、コンピエーニュ包囲戦でジャンヌがブルゴーニュに捕らえられると、ジルの心は荒み、再び悪の道に染まってしまいます。
1431年5月にはルーアンを攻撃してジャンヌを救出しようとしますが失敗し、火炙りの刑で処刑されると、ジルはさらに心を閉ざしてしまいます。
ジルはこの頃から錬金術にハマり、莫大な財産を湯水のように浪費し始めます。そして錬金術に没頭する中で、フランソワ・プレラーティという詐欺師まがいの自称錬金術師から、錬金術成功のためには黒魔術を行うように勧められ、ジルは黒魔術に手を出すことになります。
その黒魔術とは、少年を殺して悪魔に捧げるというもので、ジルは何百人もの少年たちを拉致し、虐殺します。詳しい虐殺の内容は伏せますが、祖父の影響でショタコンだったジルは、少年たちを凌辱して虐殺することに性的興奮を得ており、錬金術成功よりも少年虐殺にハマっていきます。
そしてジルが悪に染まった元凶の祖父も1932年に死去します。
浪費生活によって財産を失い、領地や城を売却
ブルターニュ公ジャン4世の息子リッシュモンは、1427年にシャルル7世の側近ラ・トレモイユとの権力争いに敗れてフランス宮廷から遠ざかっていましたが、1429年にジャンヌの支持者として軍に戻り、1433年にクーデターを起こしてラ・トレモイユを失脚させて宮廷の実権を握ります。
ラ・トレモイユはジルとジルの祖父の後ろ盾でもあったため、ジルはさらに権力を失い、宮廷に行かず領地シャントセに引きこもるようになります。
そんな中、ジルは1434年9月から1435年8月にオルレアンに滞在し、かつてジャンヌと共にイングランド軍を破って救国の英雄と呼ばれる発端となったオルレアンの戦いを題材にした劇の上演を頻発します。
そして、財産がなくなって領地や城を片っ端から売却してまで劇の費用を調達しました。このとき、ジルの弟ルネらがジルを禁治産者(現在の成年被後見人)に指定し、自分の意志で領地を売却できないようにしたため、ジルの浪費はようやく止まります。
ジャンヌと共にオルレアンの戦いで勝利したときがジルの人生で最も輝いていたときだったのは間違いありません。落ちぶれてしまった今、過去の栄光だけがジルの心の拠り所だったのでしょう。
偽ジャンヌ・ダルクに軍を与えて重宝する
1431年のジャンヌの死後、各地でジャンヌの偽物が現れますが、1人だけシャルル7世を除く全員に本物のジャンヌだと認められた人物がいました。彼女は農民出身の二児の母であり、軍人の敬虔もある、ジャンヌ・ド・アルモワーズという女性です。
アルモワーズは1436年に突然現れて自身をジャンヌ・ダルクだと名乗り、ジャンヌ・ダルクの実兄でさえも「死んだはずの妹だ」と認め、各地で多額の寄付や報酬を受け取ります。
1439年にアルモワーズはジルと会い、ジルにも本物のジャンヌ・ダルクだと認められます。
ジルはアルモワーズに軍を与え、大尉の階級を与えて重宝します。
アルモワーズは1440年8月にシャルル7世に偽物だと見破られますが、ジルがジャン5世に捕らえられたのは1440年5月であったため、ジルは最期までアルモワーズを本物のジャンヌ・ダルクだと信じていました。
ブルターニュ公ジャン5世との領地争い
リッシュモンには兄ジャン5世がおり、ブルターニュ公はジャン5世が継いでいました。
ジャン5世はフランス王家に一貫して好意的でしたが、ブルターニュの半独立は維持したいと考えており、ジャン5世はブルターニュの領地拡大のためにジルの領地に目を付けます。
ジャン5世はジルの領地を買収しようとしますが、弟ルネなどジルの親族(アンジュー勢力)は阻止しようとし、ジルの親族は1437年、アンジュー公と結んでジルの故郷シャントセを占領します。ブルターニュとアンジューの対立が深まりますが、1438年、リッシュモンの仲介により全面衝突は回避されることとなりました。
逮捕され、宗教裁判で少年虐殺が明るみになって絞首刑になる
1440年5月、ジルはブルターニュの聖職者を拉致監禁してしまい、異端の罪で逮捕され、ナントにて宗教裁判にかけられます。
ジルを処刑して領地を手に入れたいジャン5世は、宗教裁判の記録を捏造してジルの少年大量殺人を誇張し、異端・男色・悪魔崇拝などの罪で絞首刑ののち遺体を火炙りにしてしまいます。
なんと、ジルは敵勢力の恣意的な宗教裁判で異端の罪になって処刑されるという、ジャンヌと似たような最期を迎えてしまいます。1440年10月26日、35歳で人生を終えました。
ジルの場合、誇張された部分はあるにせよ、少年を殺したことは事実ですが・・・
裁判では、ジルは少年大量殺人や黒魔術などの罪を自白し、泣きながら懺悔して許しを求めたそうです。救国の英雄でもあったジルの魂が救われるよう、民衆が祈りを捧げたと言われています。
こうして、救国の英雄ジル・ド・レは、崇拝したジャンヌの死後悪の道に染まってしまい、悲惨な最期となってしまいます。
ジル・ド・レの死後
ジルの領地と子孫のその後
自称錬金術師の詐欺師フランソワ・プレラーティは、黒魔術に関与したとして1445年に絞首刑となります。
ブルターニュ公ジャン5世は思惑通りジルの死後にその領地を没収し、手に入れます。一部はリッシュモンに譲られました。
残りのジルの領地は娘マリーからジルの弟ルネに受け継がれます。
娘マリーは子供を産まなかったため、ジルの直接の子孫は途絶えてしまいました。
百年戦争はフランスの勝利で終結!
英仏百年戦争はジルの死後も1453年まで13年にわたって続きます。
1431年のジャンヌの死後、ジルが軍を離れた後にフランス軍を率いて活躍したのは、ジャン5世の弟リッシュモンでした。リッシュモンはブルゴーニュとの和約も成立させ、1436年にはパリを奪還します。
その後もリッシュモン率いるフランス軍は進撃を続け、1453年にカレーを除くフランス全土を奪還し、百年戦争をフランスの勝利で終結させました。ちなみにこの年1453年は、オスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が滅亡した年です。日本では室町幕府の第8代将軍で銀閣寺を建てた足利義政が将軍となって4年目でした。
しかし、百年戦争の転換点は間違いなくオルレアンの戦いであり、ジルとジャンヌの活躍がフランスの勝利をもたらしたのです!
ジル・ド・レにまつわる逸話
グリム童話「青髭」のモデルとなった
ジルは少年虐殺のイメージが後世に強く残り、殺人鬼=ジル・ド・レのようなイメージとなってしまします。
グリム童話「青髭」は、とある金持ちの男がこれまでに6回結婚し、妻たちは全員青髭に殺されていて、7人目の妻も殺そうとしたところで、その妻の兄たちに青髭は殺されてしまうという話です。
この青髭のモデルとなったのが、ジル・ド・レだと言われています。
ジルが殺したのは妻ではなく少年たちだったことから、妻を何人も殺したイングランド王ヘンリー8世こそが青髭のモデルだという説もあります。
ジル・ド・レが悪に染まった原因はジャンヌの死ではなく祖父の影響!
一般的には、ジャンヌを失った悲しみから浪費や少年虐殺をするようになったと言われていますが、前述のようにジルはジャンヌと出会う前、若年期に祖父の影響を受けて誘拐や妻に性的暴行をしたりと、既に悪の道に染まっていました。
祖父も男色だったため、ジルが男色だったことも、少年虐殺に性的興奮を覚えたのも、明らかに祖父の影響です。
ジルがまともだったのは、両親を失う前とジャンヌと一緒にいた時期だけであり、ジャンヌと共に戦いジャンヌを慕っている間だけ、一時的に両親を失う前に持っていた騎士の心を取り戻していたのだと思います。
ジルが少年虐殺を始めたのはジャンヌの死後であり、ジャンヌ・ダルクの偽物(アルモワーズ)を本物だと信じて重宝していたことからも、ジャンヌの死がショックだったこと、ジルの中でジャンヌの存在が大きかったことは確かです。
ジル・ド・レ年表
1405年 | フランス西部のシャントセで貴族の子として生まれる |
1415年 | 両親が亡くなり素行の悪い祖父に引き取られる |
1420年 | 祖父が誘拐した近隣の領主の娘カトリーヌと結婚 |
1423年 | 近隣の領主の家族を誘拐して領土拡大 |
1424年 | 祖父のコネで軍人として宮廷入り |
1429年 | ジャンヌと出会いオルレアン解放、ランスでシャルル7世の戴冠式に出席、英雄となる |
1431年 | ジャンヌ火刑、黒魔術に手を出し少年虐殺を始める |
1434年 | オルレアンに滞在して劇の上演を繰り返して浪費 |
1437年 | ブルターニュ公ジャン5世との領地争いが始まる |
1439年 | 偽ジャンヌ(アルモワーズ)に軍を与えて重宝する |
1440年5月 | 聖職者の拉致監禁により捕らえられて宗教裁判にかけられる |
1440年10月26日 | 絞首刑ののち遺体を火あぶりに |