こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、14世紀にイングランドを強国に育てあげて百年戦争を起こすも、晩節を汚して悲しい最期を迎えたイングランド王、エドワード3世の生涯を分かりやすく解説します。
百年戦争を起こした人物、エドワード黒太子の父というイメージの彼ですが、いったいどんな人物であり、どんな活躍をしたのでしょうか?
この記事では、まず当時の世界とイングランドの時代背景を分かりやすく解説し、彼の生涯を地図を用いて追っていき、最後に逸話を紹介します。
エドワード3世が生きた時代の世界とイングランドの状況
世界の状況
エドワード3世は西暦1312年11月13日にイングランドのウィンザー城で生まれ、1377年6月21日に64歳で生涯を終えます。
14世紀の世界は、封建制・荘園制を土台とする「中世」末期にあたり、危機と停滞の時代です。
13世紀はモンゴル帝国がユーラシア大陸の大部分を征服して東西の交易ネットワークを活性化させましたが、14世紀に入ると中央アジアもしくは東アジアで発生した感染症のペスト(黒死病)が、その交易ネットワークを通じてヨーロッパやオリエントにも拡大していきます。
さらに14世紀初め頃から北半球で寒冷な気候が続き、各地で不作や飢饉が起こって政情不安となりました。
13世紀にユーラシア帝国を築いたモンゴル帝国も、14世紀に入るとその支配に陰りが見えてきます。中央アジアのチャガタイ・ハン国は1340年に東西に分裂し、オリエントのイル・ハン国は14世紀に入ってから分裂し、1353年に滅亡します。中国を支配した元も紅巾の乱などで弱体化し、1368年には漢民族王朝の明が建国され、元はモンゴルに追いやられます。キプチャク・ハン国は例外的に14世紀前半に最盛期を迎えます。
ヨーロッパではイングランドとフランスの百年戦争が始まり、イベリア半島ではキリスト教勢力がイスラム教勢力を圧迫していきます。ビザンツ帝国は勢力をさらに後退させ、アナトリアではオスマン帝国が台頭します。インドではトゥグルク朝が14世紀前半にインドのほぼ全域を支配し、東南アジアではインドネシアのマジャパヒト朝が広大な海域を支配します。アメリカ大陸では中央アメリカのマヤ文明とペルーのクスコ王国があります。北欧ではノルウェー・スウェーデン・デンマークがカルマル同盟を結んで団結します。
そして日本は、鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代に入ります。
このように、危機と停滞の時代が、エドワード3世が生きた当時の世界の状況です。
イングランドの状況
エドワード3世が生きた14世紀は世界全体的に危機と停滞の時代でしたが、彼の母国イングランドも国内の対立や外敵の侵入などの問題を抱え、危機的状況でした。
エドワード3世の父、先代のエドワード2世は愚君であり、寵臣に政治を任せて諸侯や議会との対立を深めたり、スコットランド侵攻に失敗したりと、失政続きでイングランド王家の権威を失墜させてしまっていました。
特に寵臣ディスペンサー父子の専横に対する不満は多く、王妃イザベラまでもディスペンサー父子に領地を没収されてしまい、ディスペンサー父子との対立を深めます。1326年に王妃イザベラとその愛人マーチ伯ロジャー・モーティマーがクーデターを起こすと、イングランド中が王妃らの味方をします。クーデターは成功し、ディスペンサー父子は処刑されてエドワード2世は幽閉されてしまいます。
そして王妃イザベラは息子のエドワード3世を即位させ、王の母となって実権を握ろうとします。
このように、先王エドワード2世の失政による混乱と低迷の中、まだ幼いエドワード3世はイングランド国王として即位するのです!
エドワード3世の生涯
母とその愛人モーティマーの傀儡だった少年王時代
1327年、王妃イザベラらはエドワード2世を廃位させて当時15歳のエドワード3世を即位させますが、実権は母イザベラとモーティマーが握ります。
しかし、母イザベラとモーティマーも私腹を肥やしたりスコットランドに譲歩したりと国内の反発を招いていました。
モーティマーはイザベラの寵愛を盾に所領を急速に拡大していき、代わりに土地を失った王族や他の諸侯との対立が激しくなります。
さらに1328年、スコットランド王ロバート1世が少年王の即位を好機と見てイングランド北部に侵攻すると、戦争が困難だと考えたイザベラとモーティマーはロバート1世に講和を申し入れ、スコットランドが独立国であることを認める条件でエディンバラ=ノーサンプトン条約を結び講和しました。この講和は国内の合意を得ずに勝手に結んだため、強い反発を招きます。
このようなイザベラとモーティマーの好き勝手で国の将来を考えない政治にエドワード3世は強く不満を持ち、1330年に諸侯や議会を味方に付けてクーデターを成功させます。
母イザベラは政界から追放、モーティマーは処刑され、エドワード3世の親政が始まります。
その後のイザベラは政治からは引退して所領も没収されたものの、年金を支給されて裕福な生活を送り、1358年8月22日に63歳で亡くなります。
フランス王位要求
カペー朝フランス国王フィリップ4世が1314年に逝去した後、長男ルイ10世、次男フィリップ5世、三男シャルル4世が即位しますが、跡継ぎの男子を残さずに相次いで早世してしまい、次のフランス王位が誰になるかという問題が1328年に発生します。
カペー朝の本家が断絶したため、フィリップ4世の甥にあたるヴァロワ伯フィリップ6世が即位し、ヴァロワ朝が成立します。
ここで、異議を唱えた人物がいました。フィリップ4世の娘イザベルの息子、イングランド王エドワード3世です。
エドワード3世の母イザベルはフィリップ4世の娘だから、傍系のヴァロワ伯よりは自分に継承権があると考えます。
しかし、当時フィリップ6世はフランスの摂政としての実績もあり、35歳の大人でした。一方のエドワード3世はわずか16歳であり親政を開始しておらず、母イザベラとモーティマーの傀儡です。しかも、フランスに住んでいません。
両者の政治力の差は圧倒的で、フィリップ6世に軍配が上がります。エドワード3世は不満ながらも1329年にアミアンに赴いてフィリップ6世と主従の契りを交わして、フィリップ6世のフランス王位継承を認めます。
親政の開始とイングランドの強国化
1330年に親政を開始したエドワード3世が始めにしたことは、諸侯や議会との関係を強化して国内を盤石にすることでした。
まず親政を開始するにあたって諸侯の助言を得て政治を行うことを宣言して、さらに自身の子供たちを国内の有力諸侯の子供と結婚させることで、王室と諸侯との関係強化を図ります。
次にエドワード3世が取り組んだことは、議会の改革と関係強化です。それまでの議会は貴族や聖職者だけで構成されることが多く、民意を反映しているとは言えませんでした。そこでエドワード3世は、各州や都市から議員を選出させる制度を構築して、聖職者・貴族・市民からなるイングランド議会を定着させます。
この代表制議会を定着させた主な理由は、戦費調達のためです。戦費調達のためには、議会の同意を得て国民に課す直接税が不可欠でした。国王の一存による強制的な課税はやめ、常に議会の同意を得て直接税を課すことで、国内の反発を受けることなく戦費を調達することが可能になります。
また、当時国王よりも権力を持っていたローマ教皇からの圧力に対して、「議会の意向」を盾に抵抗することもありました。国王にとっても、議会の権力が高まることは有益であったのです。
スコットランド侵攻
大陸領土の大半を失った「フランス人」の支配する国イングランドは、いっそ「イギリス人」になろうと、グレート・ブリテン島の統一にも力を入れます。
1329年にスコットランド王ロバート1世が死去して5歳のデイヴィッド2世が即位すると、かつてエドワード1世に敗れてフランスに亡命した元国王ジョン・ベイリャルの息子エドワード・ベイリャルがスコットランド内の不満分子を集めて、1332年反乱を起こしてスコットランド王に即位します。エドワード・ベイリャルはイングランド王エドワード3世の臣下となることを宣言したため、スコットランド支配を狙うエドワード3世はエドワード・ベイリャルを支援して1333年にスコットランドに侵攻しますが、スコットランド国内からは強い反発を招きます。
エドワード・ベイリャルは南部スコットランド地域をイングランドに割譲してエドワード3世の臣下となったため、エドワード3世はスコットランドを支配することに成功します。
しかし、敗れたデイヴィッド2世が1334年にフランスに亡命してフィリップ6世が受入れたため、今度はフランスのアルトワ伯継承争いで謀反人の疑いをかけられたロベール・ダルトワがイングランドに亡命すると、仕返しにエドワード3世がこれを受け入れ、エドワード3世とフィリップ6世の関係は一気に険悪となります。
両者の対立が深まる中、1337年5月、フィリップ6世はアキテーヌ地方の没収を宣言します。
エドワード3世は怒りました。フィリップ6世のフランス王位継承を認めることで「フランス人」であることを諦め、おとなしく引き下がって「イギリス人」になろうとグレートブリテン島統一を進めようとしたところ、それも邪魔されたのです。
プランタジネット朝イングランド王国が繁栄するためには、フィリップ6世を倒すしかありません。
1337年10月7日、エドワード3世は、フィリップ6世との主従関係の破棄と、自分が正統なフランス王であることを宣言します。
さらに11月1日にエドワード3世はフィリップ6世に挑戦状を送りつけ、宣戦布告しました。百年戦争の始まりです。
百年戦争序盤の大勝利
百年戦争の最初の戦いは、フランス北東部のフランドル地方から始まります。フランドルでの戦いは1338年〜1340年まで続き、エドワード3世はなんとかフランドルを足がかりにすることに成功しますが、両者とも決定的な勝利を得られず、イングランドの辛勝で終わります。
次の戦いはフランス北西部のブルターニュ地方でした。1341年4月、ブルターニュ公ジャン3世が子供を残さず病死したため、公位継承の問題が起こり、この継承争いにイングランドとフランスの双方が介入する形でブルターニュ継承戦争が起こります。
1343年1月19日、教皇クレメンス6世の仲介により休戦協定が成立し、ヴァンヌは教皇の保護下に入り、公位の継承は未定となり、イングランドはブルターニュに駐屯地を獲得します。
こうしてイングランドは、開戦前から保持していたアキテーヌに加え、フランドルとブルターニュに足場を得ることに成功しました。
1346年7月、エドワード3世と息子エドワード黒太子率いるイングランド軍は、シェルブールに上陸し、ノルマンディー地方を猛スピードで進軍します。これはフランス軍を挑発し、誘い出して合戦に持ち込むためです。
挑発に乗ったフランス軍をフランス北部のクレシーで待ち構え、合戦が起こります。イングランド軍約12,000人に対してフランス軍約35,000人と3倍の戦力差でしたが、長弓隊の活躍もあり、1346年8月26日のクレシーの戦いはイングランド軍の勝利に終わります。
その後、1347年にイングランド軍はカレーを攻略して拠点とします。同じ頃、ブルターニュやアキテーヌ、スコットランドでもイングランド軍が勝利しますが、1349年に親フランスのフランドル伯ルイ・ドゥ・マールが親イングランドの都市勢力を抑えることに成功したため、イングランドはフランドルでの拠点を失うことになりました。
とはいえ、全体としてはイングランドが優勢の状況です。
1347年9月28日、ローマ教皇の仲裁により一旦休戦となります。
黒死病の流行
1347年末にペスト(黒死病)が上陸し、イングランドもフランスも人口が激減して戦争どころではなくなります。
1348年末までにはロンドンに黒死病が到達しており、1348〜1349年に猛威を振います。教会も世俗権力も死亡者数の記録を残してはいませんが、推計では人口の30%〜45%が黒死病により死亡したとされています。
エドワード3世自身は、ロンドンを離れてウッドストックの荘園の館で過ごし、黒死病への感染を避けることに成功します。
黒死病の危機にも関わらず、エドワード3世の権力は盤石でした。クレシーの戦いでの大勝により議会もエドワード3世を支持していたからです。
しかし、黒死病により社会問題は発生します。黒死病での人口減少による労働力不足に付け込み、労働者が賃上げを要求して贅沢な身なりや生活をするようになります。
これに対してエドワード3世は1351年に労働者規制法、1363年にぜいたく禁止法を制定して労働者が贅沢な身なりや生活をするのを規制しようとしますが、効果は上がりませんでした。
息子エドワード黒太子の活躍による大勝利とその後の戦況悪化
黒死病の流行により戦争継続が困難となったイングランドとフランスの間で和平条約の締結が模索されましたが、結局は決裂し、戦争が再開します。
次の決戦の舞台はフランス南西部アキテーヌ地方となります。1355年から、イングランド王エドワード3世の息子エドワード黒太子がボルドーに派遣されており、エドワード黒太子がアキテーヌ地方のイングランド軍を率いていました。
1355年9月にイングランド軍は進軍と挑発を再開し、この挑発を受けてフランスも軍を集結させます。
イングランド軍の長弓隊の活躍と黒太子の作戦もあり、1356年9月19日のポワティエの戦いはイングランド軍の圧倒的勝利に終わり、黒太子はフランス王ジャン2世を捕虜とすることに成功します。
この戦いにより、百年戦争第1段階でイングランドの勝利は決定的なものとなり、1360年のブレティニー・カレー条約でイングランドとフランスは一旦講和を結ぶことになります。
平和が訪れたかに見えましたが、1366年からイベリア半島のカスティリャではカスティリャ継承戦争が起こり、イングランドとフランス双方が介入して代理戦争となります。一旦はエドワード黒太子が支援したペドロ1世の勝利となりますが、戦費の支払いをめぐって仲違いしてしまい、孤立したペドロ1世は1369年のモンティエルの戦いで敗れて戦死してしまい、フランスが支援するエンリケ2世がカスティリャ王に即位します。
このカスティリャ継承戦争で結局イングランドは何も得るものがなく、この頃から、戦争の雲行きが怪しくなってきます。
エドワード黒太子も赤痢にかかり、戦費の支払いを補うための重税に対してアキテーヌの人々の不満も高まり、イングランドは劣勢となります。フランドルはフランス側に寝返り、ブルターニュは中立化されていました。
一方のフランスは、シャルル5世の税制改革と常備軍創設により国内は盤石であり、カスティリャ・フランドルという同盟国を得て、ブルターニュの中立化にも成功して反撃の準備が整っていました。
1369年11月に百年戦争が再開して、フランス軍の前にイングランド軍は敗北を重ねてどんどん後退していきます。
病が悪化したエドワード黒太子も1371年にイングランド本国に帰国してしまい、イングランドはボルドー周辺と沿岸部を除くアキテーヌ地方の大半を失って、1375年7月1日に休戦しました。
王妃の死による悲しみで失政続きの晩年
エドワード3世の王妃フィリッパは、フランドル地方エノー伯家の娘で、政治の能力も高く穏やかで慈悲深い女性です。好戦的な性格のエドワード3世にとって、彼女の存在は精神的な支えでした。
1369年に王妃フィリッパが亡くなると、支えを失ったエドワード3世は肉体的・精神的に衰えていきます。
1367年からはイングランド名産の羊毛の取引が衰退しており、1369年にはフランドル伯の娘がフランス王シャルル5世の娘と結婚したことでフランス陣営に入ります。さらに百年戦争の再開による重税によって国民の不満も発生するなど、1367年以降はエドワード3世にとって逆風となります。
また、愛する王妃を失った悲しみを紛らわすためなのか、妾のアリス・ぺラーズを溺愛して彼女の求めるものを全て与え、さらには政治に介入することも許します。エドワード3世自身は政治からも戦争からも離れ、四男のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが主に政治を行うことになります。
このようなエドワード3世の失政に対して、議会は反発します。1376年4月に召集された善良議会では、平民議員を中心とした議員たちがアリス・ぺラーズの宮廷からの追放などのいくつかの要求を通します。議会が国王を抑えた例となります。
しかし、その後はエドワード3世の反撃にあい、1377年1月に召集された不良議会では、善良議会で通った要求のほとんどが覆されます。
その後のエドワード3世は宮廷に呼び戻した妾アリス・ペラーズと一緒に晩年を過ごします。
ところが、1377年6月アリス・ペラーズは、死を目の前にしたエドワード3世の手から指輪を抜き取り、たくさんの宝石を盗んで宮廷から去ります。他の者もエドワード3世の前から去り、最期まで残ったのは教戒師だけでした。1377年6月21日、エドワード3世は崩御しました。
長男のエドワード黒太子は1376年に死去していたため、黒太子の次男リチャード2世が王位を継承します。
治世前半の華々しい活躍から一変して、悲しい最後を迎えた英雄エドワード3世でした。
しかし、ヨーロッパの端っこの田舎だったイングランドをエドワード3世が強国に育てあげたことが、その後のイングランドの発展に繋がっていくのです!
百年戦争のその後
百年戦争は一旦休戦しましたが、15世紀に入ってから再開します。後半戦です。
後半戦のはじめはヘンリー5世の活躍とフランスの内紛によりイングランドが優勢となりますが、1429年に突如現れた救世主ジャンヌ・ダルクの活躍により形勢を覆され、最終的に1453年までにカレーを除く大陸領土の全てを失って終戦します。
エドワード3世にまつわる逸話
ガーター騎士団を創設した
エドワード3世は、アーサー王物語に出てくる円卓の騎士に憧れており、1348年8月6日、イングランドの守護聖人セント・ジョージへの献身を精神的支柱とするガーター騎士団を創設します。
中世ヨーロッパでは、テンプル騎士団などの、十字軍の構成員からなる騎士団が多く誕生しました。これらの騎士団の目的は、聖地エルサレムの防衛とキリスト教巡礼者の保護・支援でした。
しかし、ガーター騎士団は宗教的な目的はなかったため、最初の世俗騎士団でした。ガーター騎士団の一員となること、ガーター勲章を叙勲されることは、イングランドにおいて最高の栄典となります。日本でいう、大勲位菊花章にあたります。
アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンのご先祖様だった!
アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンの母親の先祖を辿ると、エドワード3世に行き着くそうです。
エドワード3世の子孫は海を渡り、新大陸に移住したのでしょう。
エドワード3世年表
1312年11月13日 | イングランドのウィンザー城で生まれる |
1327年 | 母イザベラとその愛人モーティマーの傀儡としてイングランド王に即位 |
1330年 | クーデターを起こして親政を開始 |
1333年 | スコットランド侵攻 |
1337年11月1日 | フィリップ6世に宣戦布告して百年戦争開始 |
1346年8月26日 | クレシーの戦いで大勝利 |
1348年8月6日 | ガーター騎士団を創設 |
1356年9月19日 | ポワティエの戦いで息子のエドワード黒太子が大勝利 |
1360年 | ブレティニー・カレー条約で一旦講和 |
1369年 | アキテーヌ地方で百年戦争再開、王妃フィリッパが亡くなる |
1375年7月1日 | 大陸領土の大半を失って休戦 |
1377年6月21日 | 妾にも見捨てられて寂しく崩御 |