こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、フランスとの百年戦争が始まった14世紀のイングランドで、天才的な軍事の才能を発揮して緒戦でのイングランドの勝利を決定的にした黒鎧の騎士エドワード黒太子の生涯や活躍を解説します。
黒太子という二つ名は、黒い鎧をまとっていたことに由来します。
なんとなくかっこいいイメージのある彼ですが、いったいどんな人物であり、どんな活躍をしたのでしょうか?
この記事では、まず当時の世界とイングランドの時代背景を分かりやすく解説し、彼の生涯を地図を用いて追っていき、最後に「黒太子のルビー」などの逸話を紹介します。
エドワード黒太子が生きた時代の世界とイングランドの状況
世界の状況
エドワード黒太子は西暦1330年にイングランドのオックスフォードシャー ウッドストック宮殿で生まれ、1376年に45歳で生涯を終えます。
14世紀の世界は、封建制・荘園制を土台とする「中世」末期にあたり、危機と停滞の時代です。
13世紀はモンゴル帝国がユーラシア大陸の大部分を征服して東西の交易ネットワークを活性化させましたが、14世紀に入ると中央アジアもしくは東アジアで発生した感染症のペスト(黒死病)が、その交易ネットワークを通じてヨーロッパやオリエントにも拡大していきます。
さらに14世紀初め頃から北半球で寒冷な気候が続き、各地で不作や飢饉が起こって政情不安となりました。
13世紀にユーラシア帝国を築いたモンゴル帝国も、14世紀に入るとその支配に陰りが見えてきます。中央アジアのチャガタイ・ハン国は1340年に東西に分裂し、オリエントのイル・ハン国は14世紀に入ってから分裂し、1353年に滅亡します。中国を支配した元も紅巾の乱などで弱体化し、1368年には漢民族王朝の明が建国され、元はモンゴルに追いやられます。キプチャク・ハン国は例外的に14世紀前半に最盛期を迎えます。
ヨーロッパではイングランドとフランスの百年戦争が始まり、イベリア半島ではキリスト教勢力がイスラム教勢力を圧迫していきます。ビザンツ帝国は勢力をさらに後退させ、アナトリアではオスマン帝国が台頭します。インドではトゥグルク朝が14世紀前半にインドのほぼ全域を支配し、東南アジアではインドネシアのマジャパヒト朝が広大な海域を支配します。アメリカ大陸では中央アメリカのマヤ文明とペルーのクスコ王国があります。北欧ではノルウェー・スウェーデン・デンマークがカルマル同盟を結んで団結します。
そして日本は、鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代に入ります。
このように、危機と停滞の時代が、エドワード黒太子が生きた当時の世界の状況です。
イングランドの状況
エドワード黒太子が生きた14世紀は世界全体的に危機と停滞の時代でしたが、彼の母国イングランドも戦争の危機を迎えていました。
エドワード黒太子が生まれたのは1330年ですが、イングランドとフランスの百年戦争は1337年から始まります。彼が生まれたときには既にイングランドとフランスの対立は決定的になっていました。
百年戦争の遠因は11世紀のノルマン・コンクェストまで遡りますが、イングランドとフランスはそこから200年以上にわたり、領土問題や王位継承問題で抗争を繰り返してきました。
直接的な原因はフランスの王位継承問題です。フランスのカペー朝フィリップ4世の息子3人が相次いで亡くなり、フィリップ4世の甥であるフィリップ6世が王位を継承し、ヴァロワ朝を開きます。
しかし、イングランド王であり黒太子の父エドワード3世は異議を唱えます。彼の母イザベルはカペー朝フィリップ4世の娘であり、息子3人が亡くなったのであれば娘イザベルに王位が継承されるため、フランスの王位継承者は自分であると主張したのです。
もちろんフランスが納得するはずがなく、両者の対立は深まり、1337年に開戦するに至ったのです。まさに元祖長浜ラーメン戦争のように、どっちが正統なカペー朝かというくだらない理由で戦争が始まります。
このように、エドワード黒太子は、百年戦争を起こしたイングランド王エドワード3世の息子でした。そして彼の人生は、父に従って軍を率い、イングランドの勝利のために戦い続けた生涯だったのです。
エドワード黒太子の生涯と活躍
幼少時代
エドワード黒太子は、1330年にイングランド王エドワード3世の長男として生まれます。オックスフォードシャーのウッドストック宮殿で生まれたことから、エドワード・オブ・ウッドストックとも呼ばれます。
1337年、7歳のときに父からコーンウォール公に任じられ、イングランド初の公爵となります。
1339年、9歳のときに百年戦争が始まると父が戦争で留守にすることが多くなり、黒太子が父の形式的な代理を務めるようになります。
1343年、13歳になるとウェールズ公(プリンス・オブ・ウェールズ)となります。以後、王太子がプリンス・オブ・ウェールズとなることが慣例となります。
クレシーの戦いで初勝利!
1346年にエドワード3世が自らイングランド軍を率いてシェルブールに上陸しました。このとき黒太子も父と共に上陸しており、黒太子は16歳にしてデビュー戦となります。
エドワード3世と黒太子率いるイングランド軍はノルマンディー地方を制圧しながらパリに迫りますが、フランス王フィリップ6世は大軍を集結させつつありました。
これに気づいたエドワード3世は撤退するためクレシーに移動し、ここでフランス軍を待ち受けます。イングランド軍約12,000人に対してフランス軍約35,000人と3倍の戦力差でしたが、長弓隊の活躍もあり、1346年8月26日のクレシーの戦いはイングランド軍の勝利に終わり、エドワード黒太子のデビュー戦は勝利となります。
その後、イングランド軍はカレーを攻略して拠点とします。このカレー攻略戦でも黒太子が活躍します。1350年にはカスティリャとジェノヴァの連合軍とウィンチェルシーの海戦が起こり、これにも黒太子が従軍し、イングランド軍は勝利を収めます。
エドワード黒太子は非常に優秀な軍人であり、序盤は連戦連勝でした。この頃は父エドワード3世と一緒に行動しますが、やがて1人で軍を任されることになります。
ポワティエの戦いで大勝利し、広大な領土を獲得!
1355年、25歳になると、エドワード黒太子は軍を伴ってボルドーに派遣されます。父とは別行動です。ついに黒太子は1人で軍を任されることになったのです。
黒太子はアキテーヌで領土拡大のため、1356年8月から北上します。それをフランス王ジャン2世はポワティエで迎え撃ちます。イングランド軍約8,000人に対してフランス軍は約15,000と、2倍の戦力差でした。
イングランド軍の長弓隊の活躍と黒太子の作戦もあり、1356年9月19日のポワティエの戦いはイングランド軍の圧倒的勝利に終わり、黒太子はフランス王ジャン2世を捕虜とすることに成功します。
この戦いで百年戦争第1段階のイングランド勝利は決定的なものとなり、1360年のブレティニー・カレー条約でイングランドとフランスは一旦講和を結ぶことになります。
エドワード黒太子の活躍が、イングランドに勝利をもたらしたのです!
ブレティニー・カレー条約において、イングランドは、フランス王位の主張を撤回、ブルターニュとフランドルの宗主権を放棄する代わりに、アキテーヌ地方の広大な領土を獲得します。
そして1362年、エドワード黒太子はアキテーヌ公に任命されてアキテーヌ地方を任され、フランス南西部の広大な地域を支配することになりました。
エドワード黒太子はついに一国一城の主となったのです。地図を見ると、イングランド本土に匹敵する面積を任されていることが分かります。
エドワード黒太子は父エドワード3世と同じく浪費家の派手好きな性格で、ボルドーの宮廷では宴会などを開き、豪勢な統治を行います。彼の豪勢な振る舞いは、最初はアキテーヌの人々に人気でしたが、やがて浪費に伴う重税や、イングランド人優遇などに対する不満が高まり、徐々に人気を失っていきます。
第一次カスティリャ継承戦争への介入と、赤痢に侵される黒太子
その頃、イベリア半島のカスティリャ王国では、異母兄弟のペドロ1世とエンリケ2世が王位を巡って争っていました。父アルフォンソ11世と王妃との間の子がペドロ1世、妾との間の子がエンリケ2世です。こちらも元祖長浜ラーメン戦争のように、どっちが正統だとかいう理由で戦っていたのです。どこの国も同じですね・・・
ペドロ1世は1350年に王位に就きます。ペドロ1世は王権の強化を図り、有力貴族を弾圧して下級貴族などを重用し、さらにアラゴン王国への侵入も繰り返します。
一方のエンリケ2世はフランスに亡命し、有力貴族、フランス、アラゴン王国の支持を得て、1366年にカスティリャ王となっていたペドロ1世を攻撃し、勝利します。このときフランスからは、ゲリラ戦を得意とするベルトラン・デュ・ゲクランが傭兵を率いて援軍に来ました。
敗戦して王位を追われたペドロ1世は、イングランド領となっていたアキテーヌに亡命し、エドワード黒太子に支援を求めます。
エドワード黒太子は、フランスとの対抗上、カスティリャがフランスの味方をなるのを阻止するため、1367年2月、軍を率いてカスティリャに遠征し、ペドロ1世を支援します。
このとき、ペドロ1世は黒太子に戦費の支払いと領土割譲を約束し、ナバラ国王にも報酬を渡してイングランド軍の領内通過を許可してもらいます。王位奪還のためなら手段を選ばないペドロ1世です。
戦力は黒太子とペドロ1世側が約1万人、エンリケ2世とゲクラン側が約4,500人でした。序盤は機動力に優れるエンリケ2世とゲクラン側がゲリラ戦術で優位に戦いを進めますが、1367年4月、決戦となった平地のナヘラの戦いで、長弓隊と重騎兵中心の黒太子率いるイングランド軍が圧勝します。
黒太子率いるイングランド軍は追撃し、ゲクランを捕虜としますが、エンリケ2世には逃げられてしまいます。
この戦いの後、黒太子はナヘラの町で略奪や殺戮を行うなど、残酷な振る舞いを見せます。
こうして大勝利を収め、ペドロ1世はカスティリャ王位に復帰しますが、ペドロ1が黒太子との約束を守らずに戦費を支払わなかったため、両者の関係は悪化し、イングランドとカスティリャの関係も悪化します。
また、この頃から黒太子は赤痢にかかり、体調を崩します。体調不良と経済的損失によりダメージを受けた黒太子はカスティリャから軍を引き上げ、アキテーヌに戻ります。そしてこれを境に、黒太子の輝かしい戦いぶりに陰りが見え始めます。
一方、黒太子との約束を破ったペドロ1世は国際的に孤立し、1369年のモンティエルの戦いでエンリケ2世に敗れて殺されます。
結局、黒太子はカスティリャ遠征で勝利したにもかかわらず、何も得ることができませんでした。
その後、カスティリャ王国ではエンリケ2世が王国に就きます。一方、殺されたペドロ1世の娘は生き残り、最終的にエンリケ2世とペドロ1世の孫同士が結婚して、両者の争いは終了します。元祖長浜ラーメン戦争の結末としては、良い終わり方ですね。
百年戦争が再開したが病気の悪化により本国に帰国
エドワード黒太子は、豪勢な生活を続けた上にペドロ1世から約束の戦費を受け取れず、財政破綻の状態となります。
財政を建て直すために、1368年、アキテーヌで増税を行い、住民の不満はさらに高まります。アキテーヌの貴族たちがフランス王シャルル5世に黒太子の圧政を訴えると、シャルル5世はアキテーヌのイングランド領の没収を宣言したため、1360年のブレティニー・カレー条約で休戦していた百年戦争は、1369年11月に再開することとなります。
とは言っても、この9年間にも第一次カスティリャ継承戦争でイングランドとフランスは戦っているので、フランスの国土での戦いが再開したということになります。
しかし、赤痢が悪化していたエドワード黒太子は、あまり戦いに出ることができず、アキテーヌ地方は次々にベルトラン・ド・ゲクラン率いるフランス軍に奪還されていきます。
1370年、黒太子は病弱な体にムチを打って出陣し、1度フランス軍に奪還されたリモージュを再度占領します。しかし、以前に無抵抗でフランス軍に降伏した罰として、住民3,000人を虐殺します。これをきっかけにアキテーヌ住民の反イングランド感情はより一層高まり、一気にフランス軍有利となります。
1371年には黒太子の病はさらに悪化し、ついにアキテーヌからイングランド本国に帰国します。
その後、フランス軍の攻撃によりイングランド軍は敗北を繰り返し、アキテーヌ地方の大半を失いました。
父より先に病死し、王位は息子のリチャード2世に
イングランドに帰国後は弟から実権を取り戻し、1376年4月の善良議会の開催を後押しするなど、国政改革を行おうとしますが、1376年6月8日に赤痢によって45歳で病死しました。
父エドワード3世も翌1377年に病死し、イングランド国王には黒太子の息子のリチャード2世が就くことになります。
エドワード黒太子の家族紹介 妻はキリスト教世界で1番の美女!
- 父:エドワード3世(イングランド王)
- 母:フィリッパ・オブ・エノー
- 弟:クラレンス公 ライオネル・オブ・アントワープ
- 弟:ランカスター公 ジョン・オブ・ゴーント
- 弟:ヨーク公 エドマンド・オブ・ラングリー
- 弟:グロスター公 トマス・オブ・ウッドストック
- 妻:ジョーン・オブ・ケント(エドワード3世の従妹)
- 子:エドワード・オブ・アングレーム(早世)
- 子:リチャード2世(イングランド王)
エドワード黒太子は、ブレティニー・カレー条約で一旦講和した翌年の1361年、エドワード3世の従妹のジョーン・オブ・ケントと結婚します。
ジョーン・オブ・ケントは「美しきケントの乙女」「キリスト教世界で1番の美女」と呼ばれるほど美人で、既に2回結婚しており、黒太子は3人目の夫でした。
周囲からは反対されましたが、黒太子が押し切って結婚しています。好きな人に対して一直線なんですね!
2人の間にはエドワードとリチャードの2人の息子が生まれ、エドワードは早世し、リチャードはリチャード2世として、祖父エドワード3世の跡を継ぎイングランド王となります。
エドワード黒太子にまつわる逸話
「黒太子のルビー」英国王冠の中央に輝く至宝はペドロ1世からの贈り物だった!
黒太子のルビーは、有名な宝石の1つで、140カラットの巨大なスピネルです。上の写真の王冠の中央少し右にある大きな赤い宝石です。最初はルビーと思われていたため黒太子のルビーと名付けられましたが、後にレッド・スピネルだと判明します。
この黒太子のルビーは、黒太子が第一次カスティリャ継承戦争に介入したときにペドロ1世から貰ったものです。戦争で結局何も得ることがなかった黒太子ですが、この黒太子のルビーという宝物をゲットしていたのです!
その後、代々のイングランド王、イギリス王がこの宝石を取り付けた兜を着用して戦い、何度も宝石と国王の命を救ってきました。そのため、黒太子のルビーは、イギリスの守護石となり、非常に価値の高い宝石となります。
「黒太子」の二つ名の由来は黒い鎧?それとも残酷な性格?
エドワード黒太子の「黒太子」という二つ名の由来は、黒色の鎧を着ていたからという説が有力です。
黒太子を恐れたフランスが、残虐行為に対して「黒」と読んだという説もあります。
敵の王に対しても礼儀正しい、騎士道精神あふれる一面も!
エドワード黒太子は、中世騎士道を代表する人物の1人のように語られることが多く、騎士道精神にあふれる人物でした。
特に有名なエピソードは、1356年のポワティエの戦いで4倍のフランス軍を破ってフランス国王ジャン2世を捕虜にした時、礼儀正しく接したことです。相手が国王とはいえ、敵の捕虜に対しても礼儀正しく接する、黒太子の素晴らしい一面が見られます。
また、戦いの後には敵味方の区別なく死者を丁重に葬ります。エドワード黒太子は、騎士道精神にあふれる面と、浪費家で残酷な面の2つの顔を持った人物だったようです。
エドワード黒太子年表
1330年6月15日 | イングランド王エドワード3世の長男として生まれる |
1337年 | コーンウォール公に任じられる |
1339年 | 百年戦争が始まる |
1343年 | ウェールズ公(プリンス・オブ・ウェールズ)となる |
1346年8月26日 | クレシーの戦いで勝利 |
1355年 | ボルドーに派遣されて軍を任される |
1356年9月19日 | ポワティエの戦いで大勝利してフランス王ジャン2世を捕虜にする |
1360年 | ブレティニー・カレー条約でフランスと講和 |
1362年 | アキテーヌ公に任じられてアキテーヌ地方を任される |
1367年4月 | ナヘラの戦いで勝利 |
1369年11月 | フランスとの百年戦争再開 |
1371年 | 赤痢の悪化によりイングランド本国に帰国 |
1376年6月8日 | 赤痢によって病死 |