【人物解説:ヘロデ大王】暴君かつ名君?ヘロデ朝を建て巧みな外交でユダヤ人の自治を守った王の生涯を分かりやすく解説!

ヘロデ大王の想像画(出典:wikipedia)

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。

今回は、紀元前1世紀に、ハスモン朝を滅ぼしてローマからユダヤ王と認められ、ローマ帝国の属国となりながら、巧みな外交術でユダヤ人の自治を守った、ヘロデ大王の生涯を解説します。

イエス・キリストが生まれたとき、「ユダヤの王が生まれた」との噂に自分の地位が脅かされるのではと恐れ、その地域の赤ん坊の男の子を1人残らず殺したという話が聖書に書かれていることもあり、暴君というイメージがあります。

妻や息子を含め反乱分子を大量に処刑するなど、残虐な暴君という一面もありますが、ローマ帝国とパルティアという2つの大国の狭間で巧みな外交術を駆使してユダヤ人の自治を守り、エルサレム神殿を改築するなど、名君としての一面も持っています。

そんな二面性のある彼ですが、いったいどんな人物であり、どんな活躍をしたのでしょうか?

この記事では、まず当時の世界とユダヤ人の時代背景を分かりやすく解説し、ヘロデ大王の生涯を追っていき、最後に逸話を紹介します。

目次

ヘロデ大王が生きた頃の時代背景

世界の状況

ヘロデ大王は、紀元前73年頃、ハスモン朝に仕えていたイドマヤ出身の武将アンティパトロスの息子として生まれます。紀元前37年にハスモン朝を滅ぼして王位に就きヘロデ朝を建て、紀元前4年に生涯を終えます。この頃は、ユーラシア東西で巨大帝国が成立した時代でした。地中海ではローマが、中国では前漢が、周辺地域を次々と征服して巨大帝国となりつつありました。

3度にわたるポエニ戦争の結果、紀元前146年にローマがカルタゴを滅ぼします。同時期にローマはギリシアも征服し、地中海での覇権を確立します。そして紀元前64年にはシリアを征服、紀元前51年にはガリアを征服、紀元前30年にはプトレマイオス朝エジプトを滅ぼし、ローマは地中海を完全統一して巨大帝国を誕生させます。急激に支配地が広がったのでもはや共和政では全土を統治するのに限界があり、各地で内乱が勃発します。そんな中、ガリアを征服したカエサルが元老院を抑えて独裁政治を始め、その後継者でありエジプトを征服したオクタウィアヌスが紀元前27年に元老院からアウグストゥスの称号を贈られ、ローマ帝国の初代皇帝となります。

イランではセレウコス朝シリアから独立したパルティアが勢力を拡大し、メソポタミアまで支配下に入れます。パルティアはローマ帝国とメソポタミア・シリア地方で激しく戦います。

東アジアでは、中国を統一した前漢が第3代武帝のもとで中央集権体制を確立し、国内を安定させます。対外的には、漢を圧迫していた匈奴を討伐して西域に領土を拡大します。さらにベトナムの南越や朝鮮の衛氏朝鮮も征服し、東アジアの大部分を支配する巨大帝国を誕生させます。

インドを統一支配したマウリヤ朝はアショーカ王の死後衰退し、紀元前180年に滅亡します。その後、デカン高原で紀元前1世紀にサータヴァーハナ朝が成立します。

また、シルクロードと呼ばれるユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路が発達し、その中央に位置する中央アジアでは、大月氏やバクトリア、フェルガナなどが栄えます。

このように、ユーラシア東西で巨大帝国が成立した時期が、ヘロデ大王が生きた当時の世界の状況です。ヘロデ大王も、ローマ帝国にうまく取り入りながら権力を維持しユダヤ人の自治を守ります。

ユダヤ人とハスモン朝

紀元前538年のバビロン捕囚解放から、ユダヤ人はアケメネス朝ペルシアの支配下で、自治を認められながらユダヤ教を発展させていきます。紀元前330年、ギリシア系のアレクサンドロス大王によってアケメネス朝は滅亡します。大王はパレスチナを含むオリエント全域に「ヘレニズム」と呼ばれるギリシア文化を広めていきます。ユダヤ人も各地に拡散していき、特にエジプトに多く進出します。大王の死後、エジプトはギリシア系のプトレマイオス朝が支配しており、エジプトに進出したユダヤ人は次々とヘレニズム化していきます。すると、ヘレニズムかぶれのユダヤ人と、バビロン捕囚の頃からの伝統を守ろうとするユダヤ人の対立が生まれます。

ユダヤ人のうち、ヘレニズムかぶれの者は貴族階級に多く、権力を得るためにパレスチナを支配していたセレウコス朝に接近します。これに対して、民衆は伝統を守ろうとする者が多くいました。セレウコス朝&貴族階級と、民衆の間の対立は深まっていきます。

紀元前167年、モディンの祭司マタティア・ハスモンが、セレウコス朝の役人を殺害して反乱を起こします。翌紀元前166年にマタティアが死亡すると、息子のユダ・マカベア(ユダス・マカベウス)が後継者となります。ユダ・マカベアは、ゲリラ戦法でセレウコス朝軍を苦しめ、紀元前164年にセレウコス朝軍を追い払ってエルサレムに入城し、異教徒に汚された神殿を清めます。セレウコス朝は内部での権力闘争のためにユダヤと戦う余力はなく、和解します。ユダヤに対するセレウコス朝の主権を認める代わりに、ユダヤ人の宗教的自由が認められることになります。その後、シモンがセレウコス朝軍を一掃し、政治的独立を勝ち取ります。同盟国のローマによる承認も受け、ハスモン朝は国際的承認を得ます。シモンは大祭司兼指導者という地位になります。

シモンの後を継いだのは、息子のヨハネ・ヒルカノスです。ヨハネ・ヒルカノスは、領土を拡大してハスモン朝の最盛期を築きます。同時期にセレウコス朝はパルティアなどの攻撃により大きく衰退しており、それに乗じてヨハネ・ヒルカノスは勢力を拡大します。北のサマリア人と南のイドマヤ人を征服し、ユダヤ化します。ヘロデ大王の父は、征服されてユダヤ化したイドマヤ人でした。

正統性のないハスモン家への反発とファリサイ派

紀元前103年、アレクサンドロス・ヤンナイオスが王位に就きます。彼はヘレニズム化を進め、反発を生みます。

また、ユダヤの伝統では一般祭司の家系であるハスモン家が大祭司に就くことはできず、王位にはダヴィデの子孫しか就けないと考えられていました。そのため、ユダヤ人の間ではハスモン家への不満が高まります。

そんな中、人々の支持を集めたのがファリサイ派(パリサイ派)です。ファリサイ派は民衆を支持母体とし、厳格に律法を遵守して伝統を守ろうとします。

ヘロデ大王の生涯

ハスモン朝に仕えていた武将の息子として生まれる

ヘロデ大王の想像画(出典:wikipedia)

ヘロデ大王は、紀元前73年頃、ハスモン朝に仕えていたイドマヤ出身の武将アンティパトロスの息子として生まれます。ヘロデの父アンティパトロスは、ヨハネ・ヒルカノスに征服されユダヤ化されたイドマヤ人でした。アンティパトロスは、アレクサンドロス・ヤンナイオスの息子ヒルカノス2世の側近になります。

紀元前67年、ヒルカノス2世の弟、アリストブロス2世が王位を奪います。本来は兄のヒルカノス2世が継ぐはずでしたが、武力で王位を奪ったのです。そして兄弟の争いにファリサイ派と反ファリサイ派の争いも加わり、「兄ヒルカノス2世&ファリサイ派」対「弟アリストブロス2世&反ファリサイ派」で、ハスモン朝は内乱状態に陥ります。

このハスモン朝の内乱状態を見て喜んでいたのが、ローマです。ローマは紀元前63年にセレウコス朝を滅ぼし、さらにユダヤを征服しようと進軍します。内乱状態の兄弟はどちらもローマの力を利用して内乱に勝利しようとします。ローマは兄ヒルカノス2世に味方し、弟アリストブロス2世を破ってエルサレムを陥落させます。

パレスチナ北部の統治を任される

ヒルカノス2世は内乱に勝利しますが、ローマによって王位と支配権を奪われ、紀元前63年に大祭司の地位のみに就きます。支配権はローマのシリア総督が持ち、ハスモン朝は実質ローマの属国となります。父アンティパトロスは紀元前47年、ユダヤのプロクラトル(ユダヤ総督)に任命されます。ヒルカノス2世は暗君だったため、アンティパトロスが実権を握っていました。アンティパトロスは各地方の政治を息子たちに任せ、ヘロデは北部の地域を任されます。ここでヘロデは盗賊を壊滅させるなどの活躍をして名をあげます。

ローマに取り入ってユダヤの実権を握る

父アンティパトロスが亡くなると、ヘロデがユダヤの実権を握ります。ローマでカエサルが暗殺されるとヘロデはカッシウス、ロンギヌス、ブルータスらの元老院派に味方しますが、紀元前42年のフィリッピの戦いで彼らが敗れると、カエサルの後継者を自称したアントニウスに味方します。ヘロデはアントニウスに賄賂を渡して取り入ることに成功し、アントニウスからユダヤの実権を任されます。ヘロデの支配に対してユダヤ人の中では不満を持つ者が多くいましたが、ヘロデはアントニウスの力を借りて反ヘロデ派を処刑します。

パルティアと結んだアンティゴノスに敗れローマに逃亡

ところが、ヒルカノス2世に敗れた弟アリストブロス2世の息子アンティゴノスが、東方のパルティアと結んでパルティア軍と共にエルサレムを攻撃してきました。ヒルカノス2世は捕えられ、紀元前40年にアンティゴノスが王と大祭司の地位に就きます。ヘロデ人生最大のピンチです。ヘロデは婚約者と親族を連れてエルサレムを脱出し、エジプトのアレクサンドリアを経由してなんとかローマまで逃亡します。

ローマを味方につけてハスモン朝を滅ぼし王位に就く

ジャン・フーケ『ヘロデのエルサレム占領』(出典:wikipedia)

当時のローマは、第2回三頭政治の頃で、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスの3人が勢力圏を分割し、協力してローマ全体を統治していました。パレスチナを含む東方を勢力圏としていたのはアントニウスで、ヘロデはまずアントニウスに協力を願います。以前から協力していたことが功を奏してアントニウスはヘロデを全面支援することを決めます。オクタウィアヌスとレピドゥスも同意し、ヘロデはローマから正式にユダヤ王と認められます。

ヘロデとローマ軍はエルサレムに向かい、アンティゴノス&パルティア軍を破ってエルサレムを占領します。紀元前37年、ヘロデはユダヤ王となり、ハスモン朝は滅亡します。ヘロデ朝の始まりです。

巧みな外交と圧政で権力を強化

王となったヘロデでしたが、もともと父がイドマヤ出身で母は非ユダヤ人ということもあり、ユダヤ人たちから人気がありませんでした。ユダヤ人たちは、ヘロデのことをローマにユダヤを売った売国奴と思っていました。さらに国内にはハスモン朝の王族や貴族が多く、彼らはヘロデのこともローマのことも敵視しています。王となったヘロデの権力は盤石ではなく、敵が多かったのです。そこでヘロデは彼ら王族貴族を処刑して財産を没収します。ヘロデの妻マリアムネもハスモン朝の王族だったので、妻マリアムネも処刑してしまいます。ヘロデはハスモン朝の血を引く者たちを一掃して権力を強化します。

ローマでは、紀元前32年にオクタウィアヌスとアントニウスの対立が決定的となり、紀元前31年のアクティウムの海戦でオクタウィアヌスが勝利します。オクタウィアヌスはアントニウスと結んだエジプトのクレオパトラも破り、エジプトを征服して地中海世界を統一します。紀元前27年、オクタウィアヌスは元老院からアウグストゥスの称号を贈られ、元首政(プリンキパトゥス)を開始します。これは共和政の基盤を尊重した上での帝政であり、ここからローマは共和政から帝政に以降したとされています。ローマ帝国の成立です。

ヘロデは当初アントニウスに味方していましたが、勝敗が明らかになるとアントニウスを見限ってオクタウィアヌスにハスモン朝貴族から没収した財産を送り、服従の意を示します。オクタウィアヌスはこれを受け入れ、ヘロデをユダヤ王と認め、ユダヤ人の自治も認めます。当時のパレスチナはローマとパルティアの間に位置しており、オクタウィアヌスはパルティアへの対処を考えないといけませんでした。そこで、下手にパレスチナのユダヤを征服して直接統治し反発を生むよりも、友好的な王に自治を認めたほうが得策だと考えます。さらにヘロデはアウグストゥスの養父カエサルにちなんだ「カエサリア」という名の都市を築き、ご機嫌を取ります。こうしてヘロデはローマの属国となりながらも、権力を強化してユダヤ人の自治を守ることに成功したのです。

ヘロデ大王と呼ばれるほどの全盛期

要塞都市ヘロディウム(出典:wikipedia)
ヘロデが大改築したエルサレム神殿の模型(出典:wikipedia)

権力を安定させたヘロデは、壮大な建築物を多数作ります。自身の名を冠した要塞都市ヘロディウムなど多くの建築物を残しますが、最も壮大だったのはエルサレム神殿の大改築です。「ヘロデの建物を見たことがない者は誰でも、決して美しいものを見たとは言えない」と言わしめるほどの壮大さ、美しさ、完成度の高さだったと言われています。各地に離散(ディアスポラ)していたユダヤ人も多くがこの神殿を訪れ、経済効果が生まれて富が蓄積し、ヘロデ朝の発展につながります。また、これによってさまざまな地域のユダヤ人同士の繋がりが促進されます。さらに、ローマ帝国に対して、ローマ帝国内に住むディアスポラのユダヤ人がユダヤ教に則った生活ができるように働きかけます。ヘロデ大王と呼ぶのに相応しい活躍ぶりです。一方で、ヘロデはローマ式の闘技大会を開くなど、ローマ文化を嫌うファリサイ派などからは不評でした。しかし、ヘロデは大飢饉が起こった際、自分の財産を売ってそのお金で人々に食料を与えるなどという善政も行っており、かつてハスモン朝の王族貴族を大量処刑した人物とは思えないほどの良い王だと思います。ヘロデは王族貴族やファリサイ派から見れば暴君でしたが、一般国民やローマ帝国から見れば名君という、評価の分かれる王です。

さらにヘロデはアウグストゥスに取り入ってユダヤの北東部に領土を拡大することに成功し、かつてのダヴィデやソロモンの頃に匹敵する領土を支配します。

息子たちを処刑するなど家庭内トラブルの多い晩年

ヘロデの治世の晩年は、家庭内トラブルが続きます。かつて妻マリアムネを処刑したヘロデのことを2人の間の息子達はよく思っておらず、ヘロデを暗殺しようとします。ヘロデは息子達を処刑して離縁した最初の妻ドリスとの息子アンティパトロスを後継者にしようとしますが、そのアンティパトロスもヘロデ暗殺を謀ったため、アンティパトロスも処刑します。紀元前4年、ヘロデは残った息子達のうち最年長のアルケラオスを王位継承者とし、生涯を終えます。

ヘロデ大王の死後

ユダヤは内紛が続きローマ帝国の属州になる

ヘロデの死後、3人の息子達に領土が分割され、最年長のアルケラオスがエルサレムやサマリアなど主要部分を統治します。しかし、ローマはアルケラオスを王とは認めず、統治者として認定します。内紛や失政が続いたためアルケラオスは解任され、西暦6年からエルサレムやサマリアなど主要部分はユダヤ属州としてローマ帝国の直接統治を受けます。

イエスキリストが誕生する

イエス・キリストは、紀元前6〜4年頃、ヘロデ朝統治下のベツレヘムで生まれたとされています。ヘロデ大王が亡くなる直前の頃です。

ヘロデ大王にまつわる逸話

赤ん坊を虐殺した?

イエス・キリストが生まれたとき、「ユダヤの王が生まれた」との噂に自分の地位が脅かされるのではと恐れ、イエスが生まれたベツレヘムとその周辺の赤ん坊の男の子を1人残らず殺したという話が聖書に書かれていますが、真偽は不明です。このときイエスの父ヨセフの夢に天使が現れて「エジプトに逃れなさい」と告げたため、イエスと母マリアを連れてエジプトに一旦逃れたとされています。

ダヴィデ王の墓を暴いた?

宝を目当てにダヴィデの墓を開けて黄金の装飾品を見つけるが、ダヴィデとソロモンの棺を開けようとしたところ、火が吹き出して護衛が焼死します。気味が悪くなったヘロデは再度墓を封印します。真偽の程は不明です。

名士たちを強制殉死させようとした?

ヘロデは、自分が死んだらユダヤの名士達を射殺するよう遺言しますが、周囲の者はその遺言を守らなかったとされています。

ヘロデ大王年表

紀元前73年頃ヘロデ誕生
紀元前40年アンティゴノスに敗れ ローマに逃れる
紀元前37年ユダヤ王に即位、ヘロデ朝が始まる
紀元前4年ヘロデが生涯を終える
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