【ホロコースト】ナチスドイツが組織的に行ったユダヤ人迫害と大量虐殺について解説!

銃を向けられるユダヤ人(出典:世界史図説タペストリー)

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。

今回は、ナチスドイツがヨーロッパ全体で組織的に行ったユダヤ人大量虐殺、「ホロコースト」について解説します。

ナチスドイツ政府とその同盟国および協力者は、ユダヤ人の人権を剥奪し過酷な生活環境に追いやったり、強制労働、射殺、毒ガスなどで虐殺していきます。

1933年1月のナチスドイツ政権成立から1945年5月の第二次世界大戦終戦までの約12年間で、ヨーロッパにいたユダヤ人の3分の2にあたる約600万人が犠牲となりました。

この記事では、ホロコーストについて徹底的に解説します。

目次

ホロコーストの語源

「ホロコースト」は「全部」「焼く」を意味するギリシア語を語源とし、ラテン語とフランス語を経由して英語になった言葉です。もともとは、ユダヤ教の祭事で獣を丸焼きにして神前に供える供物を意味していました。これが転じて火災による大虐殺を意味するようになります。

大虐殺や絶滅政策を表す言葉としては「ジェノサイド」が一般的ですが、第二次世界大戦中のユダヤ人の間で、ドイツはユダヤ人を生きたまま焼き殺しているという説が広まったことで、ナチスによるユダヤ人大虐殺を指す言葉として「ホロコースト」が使われるようになります。1978年アメリカで放送されたテレビドラマ『ホロコースト』で流行語となり、「ホロコースト」はナチスドイツによるユダヤ人迫害と大虐殺を指す固有名詞として定着していきます。

ホロコーストの加害者はナチスだけではない

アドルフ・ヒトラー(出典:wikipedia)
ハインリヒ・ヒムラー(出典:wikipedia)
ラインハルト・ハイドリヒ(出典:wikipedia)

ホロコーストを主導したのはナチスドイツです。特に、ナチ党およびドイツ第三帝国の指導者であるアドルフ・ヒトラーを筆頭とする国家指導部、そしてハインリヒ・ヒムラーやラインハルト・ハイドリヒをはじめとする親衛隊(SS)です。彼らがホロコーストを行った黒幕と言えるでしょう。

しかし、ナチスだけが悪者なのではありません。ドイツではナチスにホロコーストの全責任を押し付けようとする風潮がありますが、当時は国防軍や警察、さらには一般のドイツ人までもがホロコーストに加担しています。そもそもナチスは選挙によってドイツ国民に選ばれた政府なので、ドイツ人の多くは反ユダヤ政策を支持していたのです。人々の間に広がっている根深い反ユダヤ主義により、ナチスだけでなく国防軍、警察、一般のドイツ人からもユダヤ人は迫害されます。

そしてホロコーストの加害国はドイツだけではありません。ナチスドイツの同盟国もホロコーストに加担します。同盟国の政府や国民までもがホロコーストに加担したため、ホロコーストはヨーロッパの枢軸国勢力圏全体で組織的に行われたのです。

ドイツの同盟国のイタリアではムッソリーニ政権が反ユダヤ法を制定してドイツ占領地へのユダヤ人強制移送を行います。ルーマニアでは反ユダヤ主義政党のルーマニア鉄衛団が、ナチスもドン引きするほどの独自のユダヤ人迫害を行います。ハンガリー、スロバキア、クロアチア、ブルガリアもドイツの圧力によりユダヤ人の隔離や移送に加担しました。

ドイツに占領されたフランスとノルウェーもユダヤ人迫害に協力します。フランスのヴィシー政権ではフランス警察が自発的にユダヤ人の検挙や移送を行い、ドイツ占領下のノルウェーもドイツに協力してユダヤ人の検挙と移送を行います。

このように、ナチスだけでなくヨーロッパ全体が協力してホロコーストを推進したため、約600万人のユダヤ人が犠牲となる大規模な絶滅政策を遂行することができたのです。ヨーロッパ社会全体としてユダヤ人を蔑視する風潮は古くからあり、近代にはドレフュス事件やポグロムに代表されるような反ユダヤ主義の考えがヨーロッパ各国に広まっていました。最も過激だったのがナチスというだけです。ヒトラーやナチス上層部が過激な反ユダヤ思想を抱いたのも、ヨーロッパ社会全体に蔓延していた反ユダヤ主義の考えに影響されたためです。

逆に、ドイツの同盟国であった枢軸国の中でもホロコーストに反対して断固として加担しなかった国もあります。日本とフィンランドです。日本はユダヤ人難民を救出します。1940年、リトアニアの日本領事館領事代理だった杉原千畝は、外務省の訓令に背き、ヨーロッパを脱出しようとするユダヤ人に大量の日本通過ビザ(命のビザ)を発給しました。これにより約6,000人の命が救われたとされています。フィンランドは国内にいる約2000人のユダヤ人を保護し、ドイツの圧力に屈せずホロコーストには加担しませんでした。

ホロコーストに至るまでの経緯

ヒトラーと反ユダヤ主義

20世紀初頭の多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンでは、各民族の民族運動に脅かされていた支配階級ドイツ人の間で、ドイツ人の民族的優位を主張する考えが広まっていました。ここで青年時代を過ごしたアドルフ・ヒトラーもその影響を強く受け、ドイツ人を含むゲルマン民族などのアーリア人種が最も優れた人種であり、ユダヤ人が最も劣っている、という思想を持ちます。明らかに偏った思想ですが、経済的成功者の多いユダヤ人によるユダヤ資本の支配に反発する民衆が多かったことと、第一次世界大戦の敗因をユダヤ人の裏切りだとする考えが広まっていたため、ヒトラーの反ユダヤ政策もドイツ国民の絶大な支持を得ます。

ナチス台頭とヒトラー政権成立

第一次世界大戦で敗戦したドイツは、ヴェルサイユ条約により、領土の一部と植民地の全てを失い、多額の賠償金を課せられていました。1929年からの世界恐慌でも最もダメージを受け、ドイツ経済は深刻な不況となります。そんな中、ドイツに多額の賠償金を課すヴェルサイユ体制への不満が高まります。すると、ヴェルサイユ体制の打倒を目指す、ヒトラー率いるナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)が国民の支持を集め、1933年に政権を獲得します。

ドイツ首相となったヒトラーは、独裁体制を作り上げます。1933年2月27日に国会議事堂放火事件が起きると、共産党員の仕業と決めつけ共産党を弾圧します。さらに3月には全権委任法を制定し、ヒトラー内閣は議会の議決を経ずに法律を制定することができるようになります。そして7月までにナチ党以外の政党は解散させられ、ナチ党の一党独裁体制が成立します。1934年8月2日にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは大統領職と首相職を兼ね、「総統」となります。

ニュルンベルク法と水晶の夜事件

政権を獲得したヒトラーが最初に行ったユダヤ人排斥政策が「ニュルンベルク法」です。1935年9月15日に制定されます。これでユダヤ人は人権を奪われ、ドイツ人との婚姻も禁止されます。ニュルンベルク法制定後、あちこちのお店に「ユダヤ人お断り」の看板がかけられるようになり、ユダヤ人は公園やプールなどの公共施設への立ち入りも禁止されます。ベンチはアーリア人とユダヤ人で分けられます。ユダヤ人の企業経営が禁止され、ユダヤ人医師はユダヤ人以外を診察することが禁止され、ユダヤ人弁護士は活動を禁止されます。ユダヤ人はドイツで暮らしていくことが難しくなり、国外へ移住するユダヤ人が多くなります。

1938年11月には全国規模のユダヤ人襲撃事件「水晶の夜」が発生します。ドイツ大使館員殺害事件を原因として発生したこの暴動で、267のシナゴーグと7500のユダヤ人商店や企業が破壊されます。このとき、ユダヤ人は殴られたり辱められたりし、中には殺された者もいました。96人のユダヤ人が殺害されたとされています。ユダヤ人居住地の墓地、病院、学校、家も破壊され、略奪も多く発生しました。「水晶の夜」以降、ユダヤ人迫害政策はさらに強化されます。11月15日にはユダヤ人が学校に通うことが禁止され、そのすぐ後にはユダヤ人の夜間外出禁止命令も出されます。その結果、ドイツから移住していくユダヤ人の数が急増しました。

この頃からゲットーも復活し、ユダヤ人居住区は高い壁で囲われるようになります。

ホロコーストの流れ

国外へのユダヤ人追放案

政権獲得後のナチスは、ドイツ国内のユダヤ人をドイツ勢力圏外に強制移住させる計画を立てていました。まず計画されたのがアフリカ南東のマダガスカル島へのユダヤ人強制移住計画です。しかし、ドイツ海軍の力ではドイツ本国からマダガスカルまでの長大な海路をイギリス海軍の妨害をかい潜ってユダヤ人を輸送することはできず、計画は頓挫します。次に考えられたのが、ロシアへの強制移住計画です。1941年に開始された独ソ戦でソ連を打倒できれば、ロシア東方にユダヤ人を強制移住させる予定でした。ところが、この計画も独ソ戦の戦況が悪化して不可能になります。そのため、ドイツ勢力圏からユダヤ人を排除する方法として最終的に決定されたのが、1942年から始まった毒ガスによる大量殺戮計画です。

強制労働による大量殺戮

アウシュヴィッツ強制収容所(出典:wikipedia)

強制収容所とは、「敵性とみなした人間集団を法的手続きなしに拘禁し、収容する施設」です。ナチス・ドイツで作られた最初の収容所は、ナチス政権成立直後の1933年3月20日にミュンヘン郊外に建設されたダッハウ強制収容所です。2月28日に出された「国民と国家を防衛するための大統領緊急令」によって、政府が裁判所の許可なく人々を拘禁できるようになります。そのため、拘禁した人々を収容して強制労働させるために強制収容所が建設され始めたのです。ダハウ強制収容所の建設と運営を主導したのはナチス親衛隊(SS)長官のヒムラーでした。

当初、強制収容所に入れられたのは反ナチスの政治犯でした。しかし、1937年頃に親衛隊が完全に警察組織を支配すると、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)、同性愛者なども強制収容所に入れられるようになります。1939年には収容所の数も増え、約25000人が収容されていました。

1939年9月に第二次世界大戦が始まりヨーロッパ各地がドイツの支配下に入ると、敵軍の捕虜やドイツの支配に抵抗した人々や政治的に好ましくない人々も収容されるようになります。独ソ戦開始後の1942年3月には約10万人、大戦末期の1945年1月には70万人以上にまで増加します。

強制収容所では食料もまともに与えられなかったため、餓死者も多く出ます。また、不衛生かつ過酷な環境で人口密度が高く病気も蔓延しており、感染症にかかって命を落とす人も大勢いました。『アンネの日記』著者のユダヤ人少女アンネ・フランクもその1人で、アウシュヴィッツ強制収容所に収容され、最後は腸チフスにかかって命を落とします。

毒ガスを使用した絶滅政策

使用された毒ガスチクロンBの缶(アウシュヴィッツ博物館展示)(出典:wikipedia)

ユダヤ人問題の解決方法として、ユダヤ人をマダガスカルに移住させる計画もありましたが、非現実的だったため頓挫します。また、収容されるユダヤ人の人数が多すぎて1941年頃には強制収容所の収容力が限界に達しつつありました。そこで、占領地ではすでに始まっていたユダヤ人の集団虐殺を、強制収容所において組織的に開始することにします。しかし、ユダヤ人を銃殺することは親衛隊にとって手間がかかる方法でした。そこで、効率的にユダヤ人を殺害する方法の研究が1941年8月に始まります。爆薬を使った爆殺やトラックに毒ガスを積んで収容所を廻る方法が考えられましたが、最も効率的な方法として、1941年12月、ガス室にユダヤ人を大量に収容して毒ガスを散布するための絶滅収容所がポーランドのへウムノに建設されます。

1942年1月20日、「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」のための会議がベルリン郊外のヴァンゼーで開催されます。そこで、労働可能なユダヤ人は強制収容所にて死ぬまで過酷な労働をさせてドイツ経済に貢献させ、労働不能なユダヤ人は絶滅収容所で毒ガスを使って殺害するという方法が決定されます。こうして、ナチスのユダヤ人排斥政策はこれまでの全面追放から計画的大量殺戮へと変わります。

ホロコーストの犠牲者数

1945年にドイツが降伏して第二次世界大戦が終戦するまでに、約600万人のユダヤ人がホロコーストの犠牲となりました。これはヨーロッパにいたユダヤ人の約半数といわれます。

特に犠牲者の多かった地域はポーランドで、およそ300万人が犠牲になったとされています。次に多かったのはソ連の約100万人、そのほかの各国はドイツ本国含め全て20万人以下です。

ホロコースト裁判

戦後、ホロコーストに加担した者に対するさまざまな裁判が行われます。

ニュルンベルク裁判

第二次世界大戦後、連合国によって1945〜1946年に開催された国際軍事裁判です。ドイツ南部のニュルンベルクで開催されました。「人道に対する罪」や「平和に対する罪」によってナチス高官22名が起訴され12名に死刑判決が下されました。

アイヒマン裁判

アドルフ・アイヒマン(出典:wikipedia)

ユダヤ人移送計画などを担当したアドルフ・アイヒマンは、終戦後のどさくさに紛れてアルゼンチンに逃亡していました。イスラエルの諜報機関が居場所を突き止めてアイヒマンを拘束し、イスラエルに移送されて1961年に裁判を受け死刑判決が下されます。

フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判

西ドイツの検事長フリッツ・バウアーの主導により、1963〜1965年にかけてドイツ人の手でアウシュヴィッツ強制収容所の元関係者の裁判が行われます。元将校や看守など6名に終身刑が下され、他の被告には禁錮や懲役などの有期刑が下されます。

現在も続くドイツ検察のよる訴追

戦後しばらくは殺人に直接手を下したり命令計画した者だけを裁いていましたが、近年は収容所という組織の歯車として働いていた元看守や元事務員までも有罪判決を受けるようになります。ホロコーストに関しては時効も撤廃され、被告が100歳前後の高齢となっても未だに起訴され続けています。ドイツでは、ホロコーストを徹底的に反省して次世代への教訓とする取り組みが進められています。

ユダヤ人を救出した人々

シンドラーのリスト

オスカー・シンドラー(出典:wikipedia)

ボヘミア生まれのドイツ人実業家オスカー・シンドラーは、軍需工場を所有していました。迫害され虐殺されるユダヤ人に同情した彼は、1200人のユダヤ人を強制収容所ではなく自分の工場で働かせるよう親衛隊(SS)に要求します。彼らを「軍需生産に不可欠な熟練労働者である」という名目を作り、賄賂や交渉を駆使してなんとか親衛隊の説得に成功します。シンドラーの工場にいたユダヤ人は強制労働やガス室での殺戮を逃れることができたのです。シンドラーは、私財のほぼ全てをユダヤ人を救うことに費やしました。

ナチスは全てのユダヤ人を迫害したわけではなく、ドイツにとって有益なユダヤ人は迫害せず優遇していました。例えば、ユダヤ人ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラーは、その名声を利用したいと考えたナチスからドイツ残留と特別待遇を提示されます。ところが、クライスラーをはじめ多くのユダヤ人著名人は同胞を迫害するナチスを嫌い、外国に逃れていきます。

杉原千畝

杉原千畝(出典:wikipedia)

1940年、リトアニアの首都カウナスの日本領事館領事代理として赴任していた杉原千畝のもとには、ナチスドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ人難民が殺到していました。日本政府からは、正規の手続きを取っていない者への日本のビザ(査証)を発行することを禁止されていましたが、目の前のユダヤ人たちを見殺しにできないと考えた杉原は、独断で毎日深夜まで手書きでビザを発行し続けました。杉原が発行したビザによって約6000人のユダヤ人がシベリア鉄道を経由して日本に逃れ、その後アメリカなどに亡命することができました。その功績から「東洋のシンドラー」とも呼ばれます。

キンダートランスポート

1938年11月の「水晶の夜」でナチスドイツによるユダヤ人迫害が明るみになると、イギリスでユダヤ人の少年少女を救出しようという動きが起こります。多くのユダヤ人家庭が「子どもたちだけでも安全な場所へ逃がしたい」と願い、各国がユダヤ人難民の受け入れに難色を示す中で、イギリスが「17歳以下の子どもに限りビザなしでイギリスへの入国を許可する」という決定をします。第二次世界大戦が発生する直前の1939年8月までに約1万人のユダヤ人の子どもたちがドイツから列車と船でイギリスに亡命し、イギリス人家庭や児童養護施設で里親に迎え入れられます。

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