こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。
今回は、ユダヤ人を捕まえて収容し、強制労働や大量虐殺が行われた施設「強制収容所」について解説します。
ナチスドイツの強制収容所
強制収容所の始まり

強制収容所とは、「敵性とみなした人間集団を法的手続きなしに拘禁し、収容する施設」です。ナチス・ドイツで作られた最初の収容所は、ナチス政権成立直後の1933年3月20日にミュンヘン郊外に建設されたダッハウ強制収容所です。2月28日に出された「国民と国家を防衛するための大統領緊急令」によって、政府が裁判所の許可なく人々を拘禁できるようになります。そのため、拘禁した人々を収容して強制労働させるために強制収容所が建設され始めたのです。ダハウ強制収容所の建設と運営を主導したのはナチス親衛隊(SS)長官のヒムラーでした。
当初、強制収容所に入れられたのは反ナチスの政治犯でした。しかし、1937年頃に親衛隊が完全に警察組織を支配すると、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)、同性愛者なども強制収容所に入れられるようになります。1939年には収容所の数も増え、約25000人が収容されていました。
1939年9月に第二次世界大戦が始まりヨーロッパ各地がドイツの支配下に入ると、敵軍の捕虜やドイツの支配に抵抗した人々や政治的に好ましくない人々も収容されるようになります。独ソ戦開始後の1942年3月には約10万人、大戦末期の1945年1月には70万人以上にまで増加します。
強制収容所では食料もまともに与えられなかったため、餓死者も多く出ます。また、不衛生かつ過酷な環境で人口密度が高く病気も蔓延しており、感染症にかかって命を落とす人も大勢いました。『アンネの日記』著者のユダヤ人少女アンネ・フランクもその1人で、強制収容所で腸チフスにかかって命を落とします。
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ユダヤ人問題の最終解決
ユダヤ人問題の解決方法として、ユダヤ人をマダガスカルに移住させる計画もありましたが、非現実的だったため頓挫します。また、収容されるユダヤ人の人数が多すぎて1941年頃には強制収容所の収容力が限界に達しつつありました。そこで、占領地ではすでに始まっていたユダヤ人の集団虐殺を、強制収容所において組織的に開始することにします。しかし、ユダヤ人を銃殺することは親衛隊にとって手間がかかる方法でした。そこで、効率的にユダヤ人を殺害する方法の研究が1941年8月に始まります。爆薬を使った爆殺やトラックに毒ガスを積んで収容所を廻る方法が考えられましたが、最も効率的な方法として、1941年12月、ガス室にユダヤ人を大量に収容して毒ガスを散布するための絶滅収容所がポーランドのへウムノに建設されます。
1942年1月20日、「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」のための会議がベルリン郊外のヴァンゼーで開催されます。そこで、労働可能なユダヤ人は強制収容所にて死ぬまで過酷な労働をさせてドイツ経済に貢献させ、労働不能なユダヤ人は絶滅収容所で毒ガスを使って殺害するという方法が決定されます。こうして、ナチスのユダヤ人排斥政策はこれまでの全面追放から計画的大量殺戮へと変わります。
絶滅収容所

ヴァンゼー会議での決定の結果、既に稼働していたへウムノを含め、べウジェッツ、ソビブル、トレブリンカ、マイダネク、アウシュヴィッツの6ヶ所の絶滅収容所が稼働します。このうちマイダネクとアウシュヴィッツは強制収容所と絶滅収容所を兼ねていました。強制収容所と絶滅収容所は厳密には異なる施設で、絶滅収容所はシャワー室に偽装したガス室で殺害することのみを目的とした施設です。ユダヤ人たちはシャワーを浴びさせると言われて何も知らないままガス室に入り、毒ガスで殺害されたのです。
ナチスドイツ以外の強制収容所
歴史上建設された強制収容所には、主にはナチスドイツの強制収容所のほかに、南アフリカでのボーア戦争中にイギリスが黒人を収容した施設、第二次世界大戦中にアメリカ合衆国が日系アメリカ人を収容した施設、ソ連の労働収容所などがあります。いずれも過酷な環境で多くの人々が命を落とします。
