こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、第二次世界大戦直前の1938年8月23日、ナチスドイツとソ連の間で結ばれた「独ソ不可侵条約」について解説します。
ヒトラーのダンツィヒ割譲要求とポーランドの拒否により欧州戦争の危機が高まる中、それまでお互いを不倶戴天の敵だとしていたヒトラーのナチスドイツとスターリンのソ連が手を結びます。これは世界中に大きな衝撃を与え、当時の日本の平沼騏一郎内閣が「欧州情勢は複雑怪奇」と言って総辞職してしまったほどでした。ソ連という強力な仲間を得たヒトラーはポーランド侵攻に踏み切り、第二次世界大戦が勃発してしまいます。
なぜお互いを不倶戴天の敵としていたヒトラーとスターリンは、突然手を結んだのでしょうか。
「独ソ不可侵条約」は、両国の外相の名前から「モロトフ=リッベントロップ協定(M=R協定)」とも呼びます。
この記事では、独ソ不可侵条約の内容と経緯について図を用いて解説します。
独ソ不可侵条約の頃の時代背景
1929年にアメリカから始まった世界恐慌は瞬く間にソ連を除く世界中に広がり、世界中が深刻な不況となってしまいます。広大な国土を持つアメリカ、植民地を多く持つイギリス・フランスは資源と市場が豊富なためブロック経済を構築して不況に対処しますが、ドイツ・イタリア・日本など植民地が少ない国は資源と市場を求め、対外進出を始めます。これらの国ではナショナリズムが強調され、国の利益が優先されて個人の人権や自由が制限される、ファシズムが台頭していきます。
ドイツ・イタリア・日本のファシズム諸国と共産主義を掲げるソ連による侵略が始まります。イギリス・フランスはドイツをソ連に対する防波堤とするため、ミュンヘン会談などの宥和政策を取って懐柔しようとします。しかし、逆に増長させてしまい、さらに侵略戦争がエスカレートしていきます。その後、もともと不倶戴天の敵であったドイツとソ連が不可侵条約を結びお互いの侵略戦争を認め合って背後の安全を確保します。ドイツはイギリス・フランスとの戦争に向かい、第二次世界大戦が勃発します。
第二次世界大戦の勃発前、ファシズム諸国の台頭に対して、共産主義に対する防波堤の役割を期待した英仏が宥和政策を取っていたのが、独ソ不可侵条約が結ばれた当時の世界の状況です。
独ソ不可侵条約に至るまでの動き
ナチス政権成立前のドイツとソ連の蜜月関係(1922年〜1933年)
不倶戴天の敵であるナチスドイツとソ連ですが、ドイツでナチス政権が成立する以前の独ソ関係は良好でした。第一次世界大戦の敗戦国であり孤立していたドイツのワイマール共和国と、成立直後に対ソ干渉戦争が行われるほど世界の資本主義諸国から嫌われて孤立していた共産主義国家ソ連が、利害が一致して手を結びます。両国は1922年にラパロ条約を結び、経済面と軍事面で協力関係を構築します。
こうしてドイツのワイマール共和国とソ連は良好な関係を続けますが、ドイツで1933年に反共産主義を掲げるナチスが政権を獲得すると、両国の関係は一気に険悪になります。
ナチス政権成立により不倶戴天の敵となった独ソ関係(1933年〜1938年)
ドイツで1933年に反共産主義を掲げるナチスが政権を獲得します。特にナチスを率いるヒトラーは、著書『我が闘争』の中で「東方生存圏の獲得」「スラヴ民族の奴隷化」を明言していました。ソ連を征服してドイツ人を入植させ現地のロシア人を奴隷化するのが目的です。このようにヒトラーはソ連を敵だと公言していたため、独ソ関係は断絶してしまいます。
ソ連のスターリンは将来的にドイツと戦うため、仲間づくりを進めます。1935年にはフランス及びチェコスロヴァキアと相互援助条約を結び、フランスの同盟国であるイギリスも加えてドイツ包囲網を構築していきます。
ヒトラーも将来的にソ連と戦うため、ソ連を挟撃するための仲間づくりを進めます。最初に目を付けたのが中華民国です。1934年からドイツは中華民国に軍事顧問団を派遣して、中華民国を支援します。しかし、1937年に始まった日中戦争が日本優勢に進んだことで、ドイツは中華民国を見捨てて日本を連携相手に選びます。ムッソリーニ率いるイタリアも加え、1937年に日独伊三国防共協定を締結してソ連包囲網を構築していきます。
宥和政策を取る英仏に不信感を抱くスターリン(1938年9月〜1939年)
ところが、1938年9月のミュンヘン会談において、英仏がソ連に何の断りもなくドイツのズデーテン地方併合を認めたことで、スターリンは英仏に対して不信感を抱きます。なぜ英仏はドイツに宥和政策を取るのだろう、ひょっとしてドイツとソ連を戦わせようとしてるのでは?と考えます。英仏とソ連の関係に亀裂が入ります。
英仏とソ連の交渉が決裂(1939年)
1939年3月21日、ヒトラーはポーランドに対してダンツィヒ自由都市の割譲とポーランド回廊の通行権を要求します。ポーランドは屈服するかと思われましたが、3月31日に英仏がポーランドの国境線を保障する声明を出すと、ポーランドは強気の姿勢となり、ヒトラーの要求を拒否します。要求を拒否されたヒトラーは、ポーランド侵攻の準備を始めます。
イギリス・フランス・ポーランドとドイツによる戦争の危機が高まる中、ソ連がどちらに付くのかが重要となります。はじめは表面上友好関係にあった英仏とソ連による同盟交渉が進められます。まずイギリスは、英仏がドイツと戦争になった場合、ソ連は英仏を助けてほしいと要求します。しかしスターリンが、ソ連がドイツと戦争になった場合、英仏はソ連を助けてほしいと要求すると、イギリスはそれを拒否します。ソ連には英仏を助けてほしいが英仏はソ連を助けないという、不平等でソ連に何のメリットもない同盟をイギリスは提案したのです。イギリスはむしろ、ドイツとソ連が戦ってお互いに消耗して共倒れになることを願っていました。そんなイギリスの考えをスターリンは感じ取り、英仏とソ連の交渉は決裂してしまいます。
利害関係が一致して急速に接近するドイツとソ連(1939年)
スターリンは、信用ならないイギリスと組むくらいなら、いっそのことドイツと組んだほうが良いと考えるようになります。ドイツと組めばソ連は西側の安全が確保できます。1939年5月にノモンハン事件が勃発し、東方において日本との軍事衝突が発生していたことも、スターリンがドイツとの提携に向かう要因となります。東西からの挟み撃ちを避けるためです。ドイツのヒトラーも同じく、ソ連と組めば東側の安全が確保でき、西欧諸国の侵略に専念できます。イデオロギーの対立による嫌悪感よりも、現実的な国益を優先した独ソ両国の利害関係が一致したのです。なお、ヒトラー・スターリンともに、後々の対立は避けられないが、いま一時的に手を結んでいるだけということは理解していました。
こうして、ドイツとソ連による交渉が始まります。
独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)の締結
1939年8月23日、独ソ不可侵条約が締結されます。交渉を担当した両国外相の名から、「モロトフ=リッベントロップ協定(M=R協定)」ともいいます。条約の内容は主に2つです。「お互いに相手国を攻撃しないこと」「一方が第三国と戦争になった場合、もう一方は好意的中立を保つ」です。そしてこの他にも秘密協定が存在し、ポーランドと東欧諸国の独ソによる分割などが定められていました。
独ソ不可侵条約締結後の動きとその影響
世界が受けた大きな衝撃
かねてからお互いを人類の敵と非難していたヒトラーとスターリンが手を結んだことは、世界に大きな衝撃を与えます。世界各地でファシズムと戦っていた共産党や社会主義勢力は失望し、反ファシズム人民戦線は消滅します。
「欧州情勢は複雑怪奇」と言い残して総辞職した日本の平沼騏一郎内閣
この独ソ不可侵条約で1番衝撃を受けたのは日本でした。ドイツと防共協定を結んでノモンハン事件でソ連と衝突中であり、さらにドイツとの同盟交渉を進めていたためです。ドイツと組んでソ連と戦うつもりだったのが、ドイツとソ連が組んだとなれば、ドイツに裏切られたと感じるのも当然です。日本の平沼騏一郎内閣はドイツとの同盟交渉の中止を決定し、責任をとって総辞職します。このとき、平沼首相は「欧州天地は複雑怪奇」と言い残しました。単に利害関係が一致して手を結んだだけなのですが、日本としては理解しがたかったのでしょう。
第二次世界大戦勃発と独ソのポーランド分割
ソ連という仲間を得たヒトラーに怖いものはありません。1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻します。イギリスとフランスは9月3日にドイツに宣戦布告します。第二次世界大戦の始まりです。しかし、英仏はドイツを攻撃せず、ポーランドは孤立無援のまま敗北を重ねていきます。ポーランド軍は東部に撤退して立て直そうとしますが、ここで絶望的な出来事が起こります。9月17日、突如としてソ連がポーランド東部に侵攻します。ドイツ軍と赤軍に東西から挟み撃ちにされ、9月28日にドイツ軍により首都ワルシャワ陥落、10月6日には全ての抵抗が終了し、ポーランド政府はフランス、のちにイギリスへと亡命します。
ポーランドは西半分をドイツ、東半分をソ連に分割占領されます。これは独ソ不可侵条約の秘密議定書で決められていました。もちろんソ連がポーランド東部に侵攻したのも予定通りです。
ソ連には宣戦布告しなかったイギリスとフランス
ドイツがポーランドに侵攻すると英仏はドイツに宣戦布告しますが、その後ソ連がポーランドに侵攻しても英仏はソ連に宣戦布告しませんでした。なぜでしょうか。
1939年8月25日にイギリスとフランスはポーランドと相互援助条約を結んでいました。内容は、ポーランドがドイツから侵攻された場合、イギリスとフランスはポーランドを助ける(英仏がドイツから攻撃された場合はポーランドが英仏を助ける)というものでした。つまり、ポーランドがドイツ以外の国、ソ連から侵攻された場合は対象外でした。なので、英仏はソ連に宣戦布告する義務がなかったのです。
さらに現実的な理由として、ドイツと戦うだけでも嫌なのに(英仏は戦争したくなかった)、敵を増やしたくなかったということが挙げられます。実際、ドイツへの宣戦布告も仕方なく行っています。
独ソの関係悪化と独ソ戦の開始(1940〜1941年)
独ソ不可侵条約が結ばれてしばらくは独ソ関係は極めて良好でした。ドイツと日本は日独伊ソの四国同盟を実現させようとします。しかし、ルーマニアをめぐって両国は関係を悪化させていきます。1940年6月27日にソ連がルーマニアからベッサラビアと北ブゴヴィナを割譲させたことにヒトラーは激怒します。北ブゴヴィナは秘密議定書の範囲外でした。そして6月30日に第二次ウィーン裁定によってドイツがルーマニアに軍隊を駐屯させますが、これも秘密議定書に定められていなかったためスターリンは激怒します。
独ソ関係は急速に悪化していき、12月18日、ヒトラーは翌1941年5月にソ連へ侵攻することを決定します。しかし、1941年4月にユーゴスラヴィアの政変をきっかけにバルカン半島侵攻を行ったため、ソ連侵攻は延期となります。1941年6月22日、ドイツは突如ソ連に侵攻を開始し、独ソ戦が始まります。独ソ不可侵条約は破棄され、もともと不倶戴天の敵であったナチスドイツとソ連の全面戦争となるのです。当初は奇襲に成功したドイツが優勢でしたが、1943年2月にスターリングラードの戦いでドイツ軍が降伏してから一気にソ連が優勢となります。1945年5月7日にドイツが無条件降伏し、独ソ戦はソ連の勝利で幕を閉じます。
独ソ不可侵条約は不倶戴天の敵同士が利害関係の一致から一時的に手を結んだ条約だった
このように、不倶戴天の敵同士であるナチスドイツとソ連は、利害関係の一致から一時的に手を結びました。ヒトラーは英仏とソ連を同時に敵に回すことによる二正面作戦を避けるため、ソ連もまたドイツと日本の二正面作戦を避け自国の安全を守るため、手を結んだのです。しかし、結局その後両国は関係を悪化させ、2年も経たずに戦争となってしまいます。
これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。