【イスラエル王国】ヘブライ王国分裂後の北半分の国について解説!

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。

今回は、ヘブライ王国分裂後の紀元前922年〜722年、シリア・パレスチナ地方に存在したユダヤ人国家、イスラエル王国について解説します。

分裂前の統一王国をイスラエル王国、分裂後の北半分を北イスラエル王国と呼ぶ場合もありますが、一般的には統一王国をヘブライ王国、分裂後の北半分をイスラエル王国と呼びます。

約100年続いたユダヤ人統一国家ヘブライ王国ですが、重税や宗教対立が原因で南北に分裂してしまいます。しかし、南北のうち先に滅びた北半分のイスラエル王国でさえ、約200年も存続し、紀元前722年にアッシリアに滅ぼされます。

そんなイスラエル王国ですが、どういう経緯で建国され、王様はどのような統治をし、なぜ滅びてしまったのでしょうか?

この記事では、まず当時の世界とユダヤ人の時代背景を分かりやすく解説し、イスラエル王国の建国から滅亡まで追っていきます。

目次

イスラエル王国の時代における世界の状況

イスラエル王国は、紀元前922年ヘブライ王国から分離独立し、紀元前722年にアッシリアに滅ぼされます。この期間は、鉄器が広がり最初の世界帝国アッシリアが拡大していった頃でした。

オリエントでは、ミタンニ王国の属国だったアッシリアが、独立を回復した後に勢力を拡大します。紀元前8世紀後半から勢力を大きく拡大し、メソポタミアを征服します。アッシリアでは鉄製の武器が普及しており、それがアッシリアの軍事力の源でした。紀元前7世紀前半にはエジプトも征服し、オリエントを統一して最初の世界帝国を築き上げます。

アッシリア帝国は中央集権的な専制君主国家で、重税と圧政で諸民族を支配します。しかし、諸民族の反抗を招き、紀元前612年に新バビロニア・メディアの連合軍に敗れて滅亡します。

ギリシアは紀元前12〜8世紀の間、「暗黒時代」という混乱した時代でしたが、この時期に鉄器が普及します。暗黒時代には人々はバラバラに住んでいましたが、紀元前8世紀に入ると集住し始め、都市国家ポリスを形成します。ポリスの形成によって社会が安定して人口が増加すると、紀元前8世紀半ばから紀元前6世紀にかけてギリシア人は地中海全域に植民活動を行います。この時代は大植民時代とも呼ばれます。

中国では、紀元前11世紀に建国された周が、王の一族や有力な臣下を諸侯にして各地を治めさせる封建制で統治していましたが、周王と諸侯の関係も時が経つにつれて疎遠となり、王権が衰え諸侯たちの権力が強くなっていきます。紀元前770年に異民族の侵入により都を鎬京から洛邑に遷都した後は、周王は完全に実権を失って名目上の存在となります。この紀元前770年以前を西周、以後を東周と呼びます。

このように、鉄器が広がり最初の世界帝国アッシリアが拡大していった時期が、イスラエル王国が存在した時期の世界の状況です。イスラエル王国も、最後はそのアッシリアに滅ぼされます。

イスラエル王国建国に至るまでの経緯

2世紀頃から20世紀前半までの長い離散(ディアスポラ)を経て1948年にユダヤ人国家イスラエルが建国されますが、ディアスポラより遥か昔、紀元前1021〜922年頃、現在のイスラエルとほぼ同じ場所に、ヘブライ王国というユダヤ人国家が存在し、一時は空前の大繁栄を謳歌していました。

ダヴィデ像(出典:wikipedia)

特に第2代ダヴィデ王、第3代ソロモン王の頃に大きく発展し、ソロモン王時代の繁栄は「ソロモンの栄華」と呼ばれます。

ソロモン王(出典:wikipedia)

しかし、ソロモンは土木工事や神殿建設などのために国民へ重税を課しており、国民の反発を招きます。また、自分の出身部族ユダ族を優遇したことで他部族の反発を招き、さらに外国との関係を重視してユダヤ教以外の宗教を認めたことで、一神教であるユダヤ教徒の反発も招きます。一説には、他の宗教を認める、つまり唯一神ヤハウェ以外の神を認めたことで、神ヤハウェから見放された、という説もあります。

古代イスラエル12部族(出典:wikipedia)

紀元前931年にソロモン王は亡くなり、息子のレハブアムが後を継ぎます。しかし、国民の不満が高まっていたことで、ソロモンの死後すぐに反乱が起こります。その結果、イスラエル12支族のうち北部10支族がエフライム族出身のヤロブアムを擁立して分離独立し、紀元前922年、イスラエル王国(北イスラエル王国)が成立します。残された南部のユダ族とベニヤミン族は、レハブアムを国王とするユダ王国となります。都エルサレムはベニヤミン族の土地だったため、ユダ王国の都になります。

イスラエル王国の歴史

イスラエル王国の10支族は一枚岩とは言えませんでした。反ユダ族という共通の目的で結束していただけだったからです。そのため、イスラエル王国の王権は不安定で何度もクーデターにより王が変わりました。わずか1ヶ月で殺害され王が変わったこともあります。

建国当初は南のユダ王国が再統一を狙って侵攻してくることが多く、ユダ王国と対立していました。しかし、やがてユダ王国と和解し、同盟関係を築きます。

初代王ヤロブアム(紀元前922〜901年)

イスラエル王国の初代王ヤロブアムは、エフライム族の出身でした。ヤロブアムは、預言者アヒヤにより、分裂後の北部10部族の支配者になると告げられます。しかし、ソロモン王の後継者争いの中でソロモン王に殺害されそうになり、一時エジプトに逃亡します。ソロモン王の死後、北部10部族によって担ぎ上げられ、紀元前922年にイスラエル王国の王に即位します。都はシェケムに置かれました。

暴君ではない?名君アハブ(紀元前869〜850年)

第7代の王アハブは、聖書ではイスラエル王国随一の暴君とされています。しかし、聖書以外の史料では、周辺諸民族との交流や同盟を通じてイスラエル王国の国力を増大させ、カルカルの戦いでアッシリアの攻撃を凌ぐなどの活躍をした名君とされています。新しい首都サマリアの建設も進めます。

名君ではない?暗君イエフ(紀元前842〜815年)

第10代の王イエフは、聖書ではイスラエル王国唯一の名君とされています。しかし、聖書以外の史料では、唯一神ヤハウェ信仰重視のイスラエル優越主義に基づいて周辺諸民族との関係を悪化させ、国力を衰退させたとされています。

アハブとイエフの評価が聖書と聖書以外で真逆なのは、聖書では唯一神ヤハウェを忠実に信仰することが良いとされていたからです。

最盛期の王ヤロブアム2世(紀元前786〜746年)

第13代の王ヤロブアム2世は、イスラエル王国の最盛期を築きます。アラム人との戦いに勝って領土を拡大し、ソロモン王時代のヘブライ王国に匹敵する領土まで拡大したとされています。

衰退のきっかけを作ったメナヘム(紀元前745〜738年)

第16代の王メナヘムは、前の王シャルムを殺害して王位に就きます。反乱が相次いだことにより、自身の王位を盤石にするため、アッシリア王ティグラト・ピレセル3世の臣下となり、同盟を結びます。これはアッシリアの介入を招き、イスラエル王国滅亡の原因になったとされています。

最後の王ホシェア(紀元前732〜722年)

第19代、最後の王ホシェアは、アッシリア王ティグラト・ピレセル3世の臣下であり、実権はありませんでした。しかし、ティグラト・ピレセル3世が亡くなると、エジプトと結んでアッシリアに反抗します。

アッシリアに滅ぼされる

アッシリアの王シャルマネセル5世は、反抗したイスラエル王国に遠征軍を送り、紀元前725年から首都サマリアを包囲します。ホシェアは3年間抵抗しますが、紀元前722年にアッシリアにより首都サマリアが陥落し、イスラエル王国は滅亡します。

アッシリアの移住政策によってイスラエル王国の民はアッシリアに連れ去られます。これはアッシリア捕囚と呼ばれます。バビロン捕囚と違って捕囚の終わりや帰還の記録が無いため、「失われた10部族」と呼ばれます。彼らの行方には諸説ありますが、定かにはなっていません。

イスラエル王国年表

紀元前922年ヘブライ王国が分裂し北部10部族がイスラエル王国建国、初代王はヤロブアム
紀元前869年第7代王アハブ即位
紀元前842年第10代王イエフ即位
紀元前786年第13代王ヤロブアム2世即位
紀元前745年第16代王メナヘム即位
紀元前732年第19代、最後の王ホシェア即位
紀元前722年アッシリアに征服されイスラエル王国滅亡
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