こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。
今回は、紀元前166年〜37年、マカベア戦争でセレウコス朝から独立したパレスチナのユダヤ人国家、ハスモン朝について解説します。
セレウコス朝の支配への不満から、ユダ・マカベアの指導で紀元前166年にマカベア戦争を起こし、独立してハスモン朝が成立します。ハスモン朝は100年以上も続いたユダヤ人国家ですが、内紛とローマの介入により紀元前37年に滅亡し、ヘロデ朝に交替します。
そんなハスモン朝ですが、どういう経緯で建国され、どのような統治や外交が行われ、なぜ内紛で滅びてしまったのでしょうか?
この記事では、まず当時の世界とユダヤ人の時代背景を分かりやすく解説し、ハスモン朝の建国から滅亡まで追っていきます。そして最後に、管理人によるヘンデル作曲『ユダス・マカベウス』のヴァイオリン演奏動画を載せています。
ハスモン朝の時代における世界の状況
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ハスモン朝は、紀元前166年にセレウコス朝シリアから独立し、紀元前37年に内紛とローマの介入により滅亡してヘロデ朝に替わります。この頃は、ユーラシア東西で巨大帝国が成立した時代でした。地中海ではローマが、中国では前漢が、周辺地域を次々と征服して巨大帝国となりつつありました。
3度にわたるポエニ戦争の結果、紀元前146年にローマがカルタゴを滅ぼします。同時期にローマはギリシアも征服し、地中海での覇権を確立します。そして紀元前64年にはシリアを征服、紀元前51年にはガリアを征服、紀元前30年にはプトレマイオス朝エジプトを滅ぼし、ローマは地中海を完全統一して巨大帝国を誕生させます。急激に支配地が広がったのでもはや共和政では全土を統治するのに限界があり、各地で内乱が勃発します。そんな中、ガリアを征服したカエサルが元老院を抑えて独裁政治を始め、その後継者でありエジプトを征服したオクタウィアヌスが紀元前27年に元老院からアウグストゥスの称号を贈られ、ローマ帝国の初代皇帝となります。
イランではセレウコス朝シリアから独立したパルティアが勢力を拡大し、メソポタミアまで支配下に入れます。パルティアはローマ帝国とメソポタミア・シリア地方で激しく戦います。
東アジアでは、中国を統一した前漢が第3代武帝のもとで中央集権体制を確立し、国内を安定させます。対外的には、漢を圧迫していた匈奴を討伐して西域に領土を拡大します。さらにベトナムの南越や朝鮮の衛氏朝鮮も征服し、東アジアの大部分を支配する巨大帝国を誕生させます。
インドを統一支配したマウリヤ朝はアショーカ王の死後衰退し、紀元前180年に滅亡します。その後、デカン高原で紀元前1世紀にサータヴァーハナ朝が成立します。
また、シルクロードと呼ばれるユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路が発達し、その中央に位置する中央アジアでは、大月氏やバクトリア、フェルガナなどが栄えます。
このように、ユーラシア東西で巨大帝国が成立した時期が、ハスモン朝が存在した当時の世界の状況です。ハスモン朝もローマの力を借りて独立を達成しますが、最後はローマの介入により滅亡します。
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ハスモン朝建国に至るまでの経緯
ヘレニズム化したユダヤ人と伝統を守るユダヤ人
紀元前538年のバビロン捕囚解放から、ユダヤ人はアケメネス朝ペルシアの支配下で、自治を認められながらユダヤ教を発展させていきます。紀元前330年、ギリシア系のアレクサンドロス大王によってアケメネス朝は滅亡します。大王はパレスチナを含むオリエント全域に「ヘレニズム」と呼ばれるギリシア文化を広めていきます。ユダヤ人も各地に拡散していき、特にエジプトに多く進出します。大王の死後、エジプトはギリシア系のプトレマイオス朝が支配しており、エジプトに進出したユダヤ人は次々とヘレニズム化していきます。すると、ヘレニズムかぶれのユダヤ人と、バビロン捕囚の頃からの伝統を守ろうとするユダヤ人の対立が生まれます。

ヘレニズム化を強制するセレウコス朝の支配に対する反発

パレスチナも当初はプトレマイオス朝の支配下にありましたが、紀元前198年に同じくギリシア系のセレウコス朝シリアが支配下に置きます。セレウコス朝は次第にユダヤ人にギリシア化を強制するようになります。律法の書物を焼かせたり、安息日や割礼を禁じたり、エルサレム神殿にギリシア神話の神像を建てたりと、ユダヤ教の伝統を破壊しようとします。ユダヤ人のうち、ヘレニズムかぶれの者は貴族階級に多く、権力を得るためにセレウコス朝に接近します。これに対して、民衆は伝統を守ろうとする者が多くいました。セレウコス朝&貴族階級と、民衆の間の対立は深まっていきます。
マカベア戦争とハスモン朝の歴史
ユダ・マカベアが宗教的独立を勝ち取りハスモン朝の基礎を築く


紀元前167年、モディンの祭司マタティア・ハスモンが、セレウコス朝の役人を殺害して反乱を起こします。翌紀元前166年にマタティアが死亡すると、息子のユダ・マカベア(ユダス・マカベウス)が後継者となります。「マカベア」とは、アラム語でハンマーの意味です。ユダ・マカベアは、ハンマーを振り回しながら戦ったとされています。ユダ・マカベアは、ゲリラ戦法でセレウコス朝軍を苦しめ、紀元前164年にセレウコス朝軍を追い払ってエルサレムに入城し、異教徒に汚された神殿を清めます。これを記念して、21世紀現在まで続くユダヤ教の祭りの一つとなっているのが、ハヌカです。

セレウコス朝は内部での権力闘争のためにユダヤと戦う余力はなく、和解します。ユダヤに対するセレウコス朝の主権を認める代わりに、ユダヤ人の宗教的自由が認められることになります。

しかし、政治的独立を目指すユダ・マカベアはさらに戦いを挑みます。ローマと同盟を結ぶなど、外交も駆使して戦いますが、紀元前160年、セレウコス朝との戦いの中でユダ・マカベアは戦死してしまいます。

ユダ・マカベアの後は弟のヨナタンが後を継ぎます。ヨナタンは、セレウコス朝の内紛を利用して独立を目指します。ヨナタンは味方にしたセレウコス朝の勢力から大祭司と認められますが、これに対してユダヤ内部から反発が生まれます。一般祭司の家系であるハスモン家は、本来なら大祭司の地位には就けなかったからです。紀元前142年、ヨナタンは敵対するセレウコス朝軍に捕えられて処刑されます。
シモンが政治的独立を勝ち取りセレウコス朝から完全独立する
ヨナタンの後は、ユダ・マカベアとヨナタンの弟、シモンが後を継ぎます。シモンはセレウコス朝軍を一掃し、政治的独立を勝ち取ります。同盟国のローマによる承認も受け、ハスモン朝は国際的承認を得ます。シモンは大祭司兼指導者という地位になります。しかし、紀元前135年、シモンは娘婿に暗殺されます。

シモンの後を継いだのは、息子のヨハネ・ヒルカノスです。ヨハネ・ヒルカノスは、領土を拡大してハスモン朝の最盛期を築きます。同時期にセレウコス朝はパルティアなどの攻撃により大きく衰退しており、それに乗じてヨハネ・ヒルカノスは勢力を拡大します。北のサマリア人と南のイドマヤ人を征服し、ユダヤ化します。
正統性のないハスモン家への反発とファリサイ派
ヨハネ・ヒルカノスは紀元前104年に亡くなり、息子のアリストブロス1世が後を継ぎます。アリストブロス1世は王を名乗り、大祭司にしてユダヤ王となります。ところが、翌紀元前103年にアリストブロス1世は病死し、アレクサンドロス・ヤンナイオスと名乗った弟のヨナタンが後を継ぎます。名前からも分かるように、彼はヘレニズム化を進め、反発を生みます。また、ユダヤの伝統では一般祭司の家系であるハスモン家が大祭司に就くことはできず、王位にはダヴィデの子孫しか就けないと考えられていました。そのため、ユダヤ人の間ではハスモン家への不満が高まります。
そんな中、人々の支持を集めたのがファリサイ派(パリサイ派)です。ファリサイ派は民衆を支持母体とし、厳格に律法を遵守して伝統を守ろうとします。このファリサイ派と対立していたのが、サドカイ派です。サドカイ派は貴族階級を支持母体とし、霊魂の不滅や死者の復活を否定しています。ファリサイ派を極端にしたエッセネ派と呼ばれる派もあり、彼らは1947年に発見された有名な死海文書を遺したとされています。
内紛とローマの介入により滅亡しローマ属国のヘロデ朝に替わる
ファリサイ派によるハスモン朝批判は高まり、アレクサンドロス・ヤンナイオスは、ファリサイ派を処刑し始めます。するとファリサイ派はセレウコス朝と手を結び、内紛が起こります。この内紛はアレクサンドロス・ヤンナイオスの勝利に終わりますが、ユダヤ民衆の反感はさらに高まります。
紀元前76年にアレクサンドロス・ヤンナイオスが亡くなると、妻のサロメ・アレクサンドラが後を継ぎます。サロメはファリサイ派と和睦して内紛は収まりますが、ファリサイ派の力が大きくなり、ファリサイ派はこれまでの復讐で多くの者を殺害します。これに対して、反ファリサイ派を集めたのが、サロメの息子アリストブロス2世です。彼はファリサイ派を攻撃します。紀元前67年にサロメが亡くなると、アリストブロス2世が王位を奪います。本来は兄のヒルカノス2世が継ぐはずでしたが、武力で王位を奪ったのです。そして兄弟は争います。「兄ヒルカノス2世&ファリサイ派」対「弟アリストブロス2世&反ファリサイ派」で、ハスモン朝は内乱状態に陥ります。
このハスモン朝の内乱状態を見て喜んでいたのが、ローマです。ローマは紀元前63年にセレウコス朝を滅ぼし、さらにユダヤを征服しようと進軍します。内乱状態の兄弟はどちらもローマの力を利用して内乱に勝利しようとします。内戦の結果外国の軍を招き入れて滅亡した国は歴史上いくつもあり、ハスモン朝も同様の末路を辿ります。ローマは兄ヒルカノス2世に味方し、弟アリストブロス2世を破ってエルサレムを陥落させます。
兄ヒルカノス2世は内乱に勝利しますが、ローマによって王位と支配権を奪われ、紀元前63年に大祭司の地位のみに就きます。支配権はローマのシリア総督が持ち、ハスモン朝は実質ローマの属国となります。
しかし、アリストブロス2世の息子アンティゴノスが東方のパルティアと結び、パルティア軍と共にエルサレムを攻撃します。ヒルカノス2世はパルティア軍に捕えられ、紀元前40年にアンティゴノスが王と大祭司の地位に就きます。
ヒルカノス2世の側近に、イドマヤ人であったアンティパトロスという将軍がいました。彼の息子ヘロデはなんとかローマに逃亡します。ローマはまだユダヤを完全に支配する余力はなかったため、ローマはヘロデをユダヤ王として認め支援します。ローマ軍とヘロデはパルティア軍とアンティゴノスを破ります。紀元前37年、ヘロデはユダヤ王となり、ハスモン朝は滅亡します。ヘロデ朝の始まりです。

ヘンデル作曲『ユダス・マカベウス』※ヴァイオリン演奏付き
ユダ・マカベアという名前はヘブライ語での呼び方ですが、ラテン語では「ユダス・マカベウス」と呼ばれます。ドイツ出身の作曲家ヘンデルは、1746年にロンドンで聖譚曲(オラトリオ)、『ユダス・マカベウス』を作曲します。イングランドに対してスコットランドが反乱を起こしていたため、イングランド軍を応援するために作曲したと言われています。初演は1747年4月1日で、当時ロンドンに住んでいたユダヤ人たちは熱狂的にこの曲の公演を喜びます。
この『ユダス・マカベウス』の中でも特に有名なのが第3部、第58曲の「見よ勇者は帰る」です。この曲は世界的に有名となり、さまざまな場面で使用されます。イギリスでは愛国歌として扱われ、ユダヤ教ではハヌカを祝う歌となります。日本では表彰式等で演奏されることが多く、かつては近代オリンピックの表彰式で演奏されていました。
管理人は幼少期からヴァイオリンを習っていましたが、その練習曲として弾いたことがあります。管理人による演奏動画を載せましたので、良ければお聴きください。とても有名な曲なので、みなさんも聴いたことがあると思います。実はこの曲は、ユダ・マカベアのセレウコス朝に対する勝利を祝ったものなのです。この演奏はモーリッツ・モシュコフスキが編曲した楽譜を使用しています。
ハスモン朝年表
紀元前167年 | マタティアが反乱を起こす |
紀元前166年 | ユダ・マカベアが指導者になる |
紀元前164年 | ユダ・マカベアがエルサレムに入城、ハヌカが生まれる |
紀元前160年 | ヨナタンが指導者&大祭司となる |
紀元前142年 | シモンが指導者&大祭司となる |
紀元前135年 | ヨハネ・ヒルカノス1世が指導者&大祭司となる、最盛期 |
紀元前104年 | アリストブロス1世が王&大祭司となる |
紀元前103年 | アレクサンドロス・ヤンナイオスが王&大祭司となる |
紀元前76年 | サロメ・アレクサンドラが女王&大祭司となる |
紀元前67年 | アリストブロス2世が王&大祭司となり、兄弟の内乱 |
紀元前63年 | ヨハネ・ヒルカノス2世が大祭司となりローマの属国になる |
紀元前40年 | パルティアの支援でアンティゴノスが王&大祭司となる |
紀元前37年 | ローマの支援でヘロデが王となりハスモン朝滅亡、ヘロデ朝に |