こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、第二次世界大戦直前の1939年3月、チェコスロヴァキアが解体され、分割されて消滅した出来事について解説します。
ミュンヘン協定によってナチスドイツがズデーテン地方を併合しますが、これ以上領土拡大を行わないと約束します。しかし、ヒトラーはもともと約束を守るつもりはなく、チェコスロヴァキアは解体されられます。チェコはドイツに併合、スロヴァキアは独立するも実質ドイツの属国となります。さらに一部の領土がポーランドとハンガリーに割譲されます。
この記事では、チェコスロヴァキア解体の内容と経緯について図を用いて解説します。
チェコスロヴァキア解体の頃の時代背景
1929年にアメリカから始まった世界恐慌は瞬く間にソ連を除く世界中に広がり、世界中が深刻な不況となってしまいます。広大な国土を持つアメリカ、植民地を多く持つイギリス・フランスは資源と市場が豊富なためブロック経済を構築して不況に対処しますが、ドイツ・イタリア・日本など植民地が少ない国は資源と市場を求め、対外進出を始めます。これらの国ではナショナリズムが強調され、国の利益が優先されて個人の人権や自由が制限される、ファシズムが台頭していきます。
ドイツ・イタリア・日本のファシズム諸国と共産主義を掲げるソ連による侵略が始まります。イギリス・フランスはドイツをソ連に対する防波堤とするため、ミュンヘン会談などの宥和政策を取って懐柔しようとします。しかし、逆に増長させてしまい、さらに侵略戦争がエスカレートしていきます。その後、もともと不倶戴天の敵であったドイツとソ連が不可侵条約を結びお互いの侵略戦争を認め合って背後の安全を確保します。ドイツはイギリス・フランスとの戦争に向かい、第二次世界大戦が勃発します。
第二次世界大戦の勃発前、ファシズム諸国の台頭に対して、共産主義に対する防波堤の役割を期待した英仏が宥和政策を取っていたのが、チェコスロヴァキア解体が行われた当時の世界の状況です。
チェコスロヴァキア解体に至るまでの動き
オーストリア併合までの歴史(1919年〜1938年3月)
第一次世界大戦で敗戦したドイツは、ヴェルサイユ条約により、領土の一部と植民地の全てを失い、多額の賠償金を課せられていました。1929年からの世界恐慌でも最もダメージを受け、ドイツ経済は深刻な不況となります。そんな中、ドイツに多額の賠償金を課すヴェルサイユ体制への不満が高まります。すると、ヴェルサイユ体制の打倒を目指す、ヒトラー率いるナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)が国民の支持を集め、1933年に政権を獲得します。
ヒトラーは1935年から領土拡大を始めます。1935年1月に国際連盟管理下にあったザール地方をドイツ領に編入、3月にヴェルサイユ条約を破棄して再軍備を宣言し、5月に徴兵制を復活させます。1936年3月7日にはラインラント進駐を成功させ、7月にスペイン内戦が勃発するとイタリアと共にフランコを支援します。ここでソ連は人民戦線を支援しますが、共産主義を嫌う米英仏は不干渉政策を取ります。これがきっかけでドイツとイタリアは接近し、10月にベルリン=ローマ枢軸が成立します。そして11月には日本と日独防共協定を結び、1937年11月6日にはイタリアも参加して日独伊防共協定となります。ソ連包囲網の形成です。
1938年3月12日にドイツはオーストリアを併合します。ドイツ人国家のオーストリアはヒトラーを歓迎します。第一次世界大戦後に結ばれたヴェルサイユ条約・サン=ジェルマン条約ではドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)は禁止されていましたが、英仏はこれを黙認します。
ミュンヘン会談とズデーテン併合(1938年9月〜10月)
容易くオーストリアを手に入れたヒトラーは、チェコスロバキアに目を付けます。チェコスロバキアには、ドイツ系住民が多く住むズデーテン地方という場所がありました。ズデーテン地方はチェコスロバキアでも有数の工業地帯であり、ズデーテン地方のドイツ人はドイツへの編入を望んでいました。しかし、当然チェコスロバキア政府は認めません。さらに、チェコスロバキアはフランス・ソ連と相互防衛援助条約を結んでいたため、もしドイツがチェコスロバキアに侵攻すれば、世界大戦が勃発する危険がありました。しかし、ヒトラーは英仏が参戦しないと読み、強気の態度でチェコスロバキア侵攻の準備を進めます。9月に入るとズデーテン地方のドイツ人が自治を求めてデモを行い、プラハで非常事態宣言が出されます。
この事態を憂慮したイギリス首相チェンバレンは、フランス首相ダラディエと共にヒトラーと会談して戦争を回避しようとします。チェンバレンとダラディエは、ドイツがチェコに侵攻すれば英仏が介入すると警告しますが、ヒトラーは強気の姿勢を崩さず、ズデーテン地方の即時併合を認めなければ侵攻すると宣言します。しかし同時に、ズデーテン併合でドイツの領土拡大を終わりにするとも宣言します。ヒトラーは、「これが最後の要求である」と言うことで、英仏に譲歩させる余地を作ろうとしたのです。もちろん、これで最後にするつもりなど微塵もありません。
こうして欧州戦争の危機が高まる中、1938年9月28日、イタリアのムッソリーニが仲介に入り、英仏独伊4ヵ国首脳による会談を提案します。ヒトラーは同意し、翌29日にドイツのミュンヘンで会談が行われます。これがミュンヘン会談です。ちなみにチェコスロバキア代表のマサリク駐英大使は会談には参加できず別室で待たされます。完全に蚊帳の外です。
会談の結果、翌30日にミュンヘン協定が成立します。「ズデーテン地方は即ドイツが併合する。その代わりドイツはこれ以上領土拡大せず、今後の対外政策は全てイギリスと話し合って決める。」といった内容です。これにチェコスロバキアも同意し、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決定します。チェコスロバキアは不満でしたが、英仏がドイツに譲歩した以上、単独でドイツの侵攻を防ぐことは不可能だと判断したのです。
激化する民族運動(1938年10月〜1939年3月)
ミュンヘン協定によりズデーテン地方を割譲した責任を取り、チェコスロヴァキアのベネシュ大統領が辞任します。新たな大統領として親独派のエミール・ハーハが就任します。しかし、チェコスロヴァキア国内ではズデーテン割譲を受け入れた政府に対する失望感が高まり、民族運動が激化します。その結果、11月9日にはスロヴァキアとカルパティア・ルテニアで自治政府が成立してしまいます。
チェコスロヴァキア解体と消滅
チェコスロヴァキア政府の求心力が低下する中、ヒトラーはチェコスロヴァキアを手に入れようと画策します。ドイツ人の多いズデーテン地方を併合しただけでは収まらず、ついに他民族の領土にまで手を出したのです。これまでのオーストリア併合やズデーテン併合には、「ドイツ人の統合=民族自決」という大義名分がありました。ところが、ズデーテン地方以外のチェコスロヴァキアは完全に他民族の土地です。ヒトラーによる侵略戦争の始まりです。まず、1939年3月13日、スロヴァキア自治政府首班のティソに対してスロヴァキアの独立を認める代わりに実質ドイツの属国化を要求し、ティソは承諾します。次に3月15日、ヒトラーはハーハ大統領に強要し、チェコを実質ドイツに併合することを認めさせます。こうしてチェコスロヴァキアは解体され消滅します。翌16日、ハンガリーがカルパティア・ルテニアに侵攻して併合し、3月23日にはスロヴァキア南部もハンガリーに割譲されます。
チェコスロヴァキア解体後の動き
チェコスロヴァキア解体はヒトラー初の侵略戦争
1939年3月のチェコスロヴァキア解体は、実質的にヒトラーにとって初めての侵略戦争でした。これまでのヒトラーの領土拡大は、ヴェルサイユ条約によって失ったものを取り戻す、もしくはドイツ人統合のためでした。1936年のラインラント進駐はヴェルサイユ条約により非武装地帯とされたラインラントの再武装化です。1938年のオーストリア併合はドイツ人国家同士の統合であり、ズデーテン併合もドイツ人統合のためです。さらに、チェコスロバキア解体よりも後に行われたメーメル併合とダンツィヒ割譲要求も、ヴェルサイユ条約で失った領土の奪還です。ヒトラーはこの1939年3月のチェコスロヴァキア解体から、他民族の領土を奪う侵略戦争を始めたのです。
抗議するも軍事介入はしないイギリス
ミュンヘン協定を破りイギリスに無断でチェコスロヴァキア解体を行ったヒトラーに対して、英首相チェンバレンは激しく非難して抗議します。ヒトラーに約束を破られ、裏切られたのです!しかし、チェンバレンは軍事介入は行いませんでした。またしてもイギリスの宥和政策が続くことになります。
さらなる領土拡大を続けるヒトラー
勢いに乗ったヒトラーは1939年3月21日、ポーランドに対してダンツィヒ自由都市の割譲とポーランド回廊の通行権を要求します。3月23日にはリトアニアに圧力をかけてドイツ人が多く居住するメーメルを併合し、第一次世界大戦敗戦で失った領土を次々と奪還していきます。しかし、3月31日にイギリスとフランスがポーランドの国境線を保障する声明を出すと、ポーランドは強気の姿勢となり、ヒトラーの要求を拒否します。要求を拒否されたヒトラーは、ポーランド侵攻の準備を始めることになるのです。
これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。