【日独防共協定/日独伊三国防共協定】コミンテルンとソ連に対する共同防衛!

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こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!

今回は、第二次世界大戦直前の1936年11月25日に結ばれた日独防共協定と、1937年11月6日にイタリアが加わって結ばれた日独伊三国防共協定について解説します。

防共とは、共産主義を防ぐという意味です。共産主義国家ソ連と、そのソ連が指導する国際共産主義組織であるコミンテルンの脅威に対抗するため、防諜・情報交換・破壊工作の防止で協力するという趣旨の協定です。軍事同盟ではありません。

この記事では、日独防共協定/日独伊三国防共協定の内容と結ばれた経緯について解説します。

目次

日独防共協定/日独伊三国防共協定の頃の時代背景

1929年にアメリカから始まった世界恐慌は瞬く間にソ連を除く世界中に広がり、世界中が深刻な不況となってしまいます。広大な国土を持つアメリカ、植民地を多く持つイギリス・フランスは資源と市場が豊富なためブロック経済を構築して不況に対処しますが、ドイツ・イタリア・日本など植民地が少ない国は資源と市場を求め、対外進出を始めます。これらの国ではナショナリズムが強調され、国の利益が優先されて個人の人権や自由が制限される、ファシズムが台頭していきます。

ドイツ・イタリア・日本のファシズム諸国と共産主義を掲げるソ連による侵略が始まります。イギリス・フランスはドイツをソ連に対する防波堤とするため、ミュンヘン会談などの宥和政策を取って懐柔しようとします。しかし、逆に増長させてしまい、さらに侵略戦争がエスカレートしていきます。その後、もともと不倶戴天の敵であったドイツとソ連が不可侵条約を結びお互いの侵略戦争を認め合って背後の安全を確保します。ドイツはイギリス・フランスとの戦争に向かい、第二次世界大戦が勃発します。

第二次世界大戦の勃発前、ファシズム諸国の台頭に対して、共産主義に対する防波堤の役割を期待した英仏が宥和政策を取っていたのが、日独防共協定/日独伊三国防共協定が結ばれた当時の世界の状況です。

防共とは?

「防共」とは、共産主義を防ぐ、という意味です。「反共」もほぼ同じ意味として使用されます。対義語は「容共」で、共産主義を容認し協力するという意味です。歴史用語であり現在使われることはありませんが、20世紀前半まではよく使用されていました。共産主義は資本家や地主などの支配階級を倒して私有財産の所有を禁止し労働者の社会を建設しようという思想のため、資本家や地主などの支配階級や私有財産を持つ中流階級などの保守派は共産主義を恐れていました。そこで保守派が共産主義に対抗するためのスローガンとして「防共」「反共」が用いられます。

日独防共協定に至るまでの動き

コミンテルンとソ連の脅威

コミンテルンのロゴ(出典:wikipedia)

コミンテルンとは、1919年にソ連指導者レーニンの提案で結成された、国際的な共産主義運動を指導・支援する機関です。第3インターナショナルとも呼ばれます。1924年に一国社会主義論を掲げるスターリンがソ連実権を握ってからは、コミンテルンはソ連外交の支援機関という性格が強まり、各国共産党はソ連共産党に従属していきます。

反ファシズム人民戦線の結成

1932年に満州事変を起こした日本での軍国主義の台頭や、1933年にドイツで政権を握ったナチスなどファシズムの脅威が高まる中、1935年、ソ連とコミンテルンは社会民主主義者や自由主義者に対し、反ファシズム人民戦線を結成すべきと呼びかけます。もともと共産主義は社会民主主義やブルジョワ自由主義を敵としていたため、これは大きな方針転換でした。この方針を受けてフランスやスペインでは人民戦線内閣が誕生し、中国でも1937年に日中戦争が始まると国民党と共産党の第2次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線が結成されます。

共産主義への対抗のため接近する日本とドイツ

ヒトラー内閣が成立する以前は、日本とドイツの関係は実はあまり良くありませんでした。第一次世界大戦で日本は連合国側で参戦してドイツ領山東半島と南洋諸島を占領していたためです。むしろドイツは中国の国民党政府をアジアにおけるパートナーだと考え、1927年から軍事顧問団を派遣するなど密接な関係を結んでいました。しかし、1932年の満州国建国と1933年のヒトラー内閣成立により状況が変化します。中華民国よりも日本のほうが戦力になりそうなので、ヒトラーは日本と組むほうが将来的なソ連との戦いで有利になると考えます。そのような中で、1936年7月にスペイン内戦が勃発してファシズム対人民戦線の戦いとなります。ドイツ・イタリアがファシズムのフランコ将軍を支援、ソ連が人民戦線を支援し、ファシズムと共産主義の対立軸がより鮮明となります。このように共産主義の脅威が高まる中、ヒトラーは「防共」目的での仲間を増やすため、日本との提携に踏み切ったのです。日本もまた、仮想敵国ソ連と戦うにはソ連を挟撃できる位置にあるドイツとの同盟が不可欠だと考えていました。

日独防共協定の締結と日独伊三国防共協定

1936年11月15日、日独防共協定が成立します。共産主義国家ソ連と、そのソ連が指導する国際共産主義組織であるコミンテルンの脅威に対抗するため、防諜・情報交換・破壊工作の防止で協力するという内容です。軍事同盟ではありせんでしたが、秘密附属協定として、同意なくソ連を支援しないことと、ソ連と条約を結ばないことが盛り込まれています。

当初は日本とドイツの二国間協定でしたが、スペイン内戦でドイツと共にフランコを支援し1936年10月にベルリン=ローマ枢軸という提携関係に入っていたイタリアも、1937年11月6日にこの協定に加わります。日独伊三国防共協定の成立です。その後も加盟国は拡大し、1939年にハンガリーと満州国も加わります。

日ソ国境紛争とノモンハン事件

この防共協定成立に対してソ連は強く反発し、日ソ関係もさらに悪化していきます。満州国とソ連・モンゴルの間での国境紛争も頻発し、1938年7月の張鼓峰事件、1939年5〜9月のノモンハン事件と、日ソの軍事衝突が拡大していきます。

独ソ不可侵条約締結により日独伊三国軍事同盟へ

独ソ不可侵条約の風刺画(出典:wikipedia)

ところが、1939年8月、ヒトラーとスターリンは一転して独ソ不可侵条約を締結します。共産主義を敵としていたヒトラーが、現実的な国益のためソ連と手を結んだのです。ファシズム対人民戦線の戦いも終わりです。この急展開でソ連を仮想敵国とした日独伊三国防共協定は事実上白紙化し、日独の協力関係も一旦白紙となります。ドイツは米英を敵とした軍事同盟の締結を求めますが、この独ソ不可侵条約締結によりドイツに裏切られたと感じた日本は同意しません。しかし、1940年6月にフランスが降伏してヨーロッパにおけるドイツの優勢が明確になると、日本もイタリアもドイツと協力するほうがいいと判断し、9月に日独伊三国軍事同盟が成立します。この同盟はイギリスとアメリカを敵とする軍事同盟であり、ソ連を敵国とする防共協定とは全く異なるものでした。

これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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