【オーストリア併合/アンシュルス】悲願のドイツ人国家統一!?ナチス・ドイツがオーストリアを併合した経緯をわかりやすく解説!

人物画像出典:wikipedia

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!

今回は、第二次世界大戦直前の1938年3月13日、ナチス・ドイツが隣国オーストリアを併合した出来事について解説します。

軍備拡張と領土拡大を続けるヒトラー率いるナチス・ドイツは、同じドイツ人国家である隣国オーストリアの併合を強行します。イギリス・フランス・イタリアなどの周辺国も介入せず、オーストリア国民の国民投票でもほとんどが賛成したとされています。そしてそもそもオーストリアはドイツ人の国であり、複雑な歴史的経緯によって別の国となっていただけです。そのため、1938年のドイツによるオーストリア併合は、特に反発もなく平和的に行われたように見えます。

しかし、実際にはオーストリア政府の抵抗があり、国民の大多数が併合に賛成したわけではありませんでした。オーストリア国民にとってドイツとオーストリアの統一は悲願でしたが、ナチスに対しては嫌悪感を抱く人もいたからです。オーストリアは、諸外国の支援がない状況で大国ドイツの圧力に屈して併合されてしまった、ナチスドイツによる侵略の最初の犠牲国だったのです。

また、「アンシュルス(Anschluss)」とはドイツ語で「接続、連結、併合」といった意味ですが、1938年のドイツによるオーストリア併合を指す固有名詞・歴史用語となっています。

この記事では、オーストリア併合の内容と経緯について図を用いて解説します。

目次

オーストリア併合の頃の時代背景

1929年にアメリカから始まった世界恐慌は瞬く間にソ連を除く世界中に広がり、世界中が深刻な不況となってしまいます。広大な国土を持つアメリカ、植民地を多く持つイギリス・フランスは資源と市場が豊富なためブロック経済を構築して不況に対処しますが、ドイツ・イタリア・日本など植民地が少ない国は資源と市場を求め、対外進出を始めます。これらの国ではナショナリズムが強調され、国の利益が優先されて個人の人権や自由が制限される、ファシズムが台頭していきます。

ドイツ・イタリア・日本のファシズム諸国と共産主義を掲げるソ連による侵略が始まります。イギリス・フランスはドイツをソ連に対する防波堤とするため、ミュンヘン会談などの宥和政策を取って懐柔しようとします。しかし、逆に増長させてしまい、さらに侵略戦争がエスカレートしていきます。その後、もともと不倶戴天の敵であったドイツとソ連が不可侵条約を結びお互いの侵略戦争を認め合って背後の安全を確保します。ドイツはイギリス・フランスとの戦争に向かい、第二次世界大戦が勃発します。

第二次世界大戦の勃発前、ファシズム諸国の台頭に対して、共産主義に対する防波堤の役割を期待した英仏が宥和政策を取っていたのが、オーストリア併合が行われた当時の世界の状況です。

ドイツとオーストリアが別の国となった理由

ドイツとオーストリアは同じドイツ人の国なのに、どうして別々の国となっていたのでしょうか。その原因は17世紀の三十年戦争にまで遡ります。

三十年戦争の結果としてドイツ分裂

三十年戦争の結果として1648年に結ばれたウェストファリア条約により、ドイツの巨大な統一国家であった神聖ローマ帝国が実権を失い、ドイツの約300ある諸侯はそれぞれ独立国家となります。ドイツの分裂です。その中で神聖ローマ皇室ハプスブルク家が治めるオーストリアと、新興勢力ホーエンツォレルン家が治めるプロイセンの2つの国が有力となります。プロイセンは純粋なドイツ人国家でしたが、オーストリアはハンガリーやボヘミアなど多くの民族を含む多民族国家でした。

多民族国家となったオーストリアを除外してドイツ統一

19世紀に入ってドイツ統一の機運が高まる中、多民族国家オーストリアをどうするかの問題が発生します。ドイツ統一の方向性として、オーストリアのドイツ人地域を含めたドイツ統一を目指す大ドイツ主義と、オーストリアを除外する小ドイツ主義の2つの意見が対立します。大ドイツ主義はオーストリア帝国の解体を意味し、小ドイツ主義はオーストリアが除外されるため、オーストリアは大ドイツ主義・小ドイツ主義に関わらずドイツ統一自体に反対します。プロイセンは自国が主導権を握ることができる小ドイツ主義を支持します。結局、1866年の普墺戦争でプロイセンが勝利したことでプロイセンがドイツ統一の主導権を握って小ドイツ主義となり、オーストリアは除外されます。そして1871年、プロイセンによってドイツが統一されます。一方のオーストリアは1867年からオーストリア=ハンガリー二重帝国となり、バルカン方面に勢力を拡大します。こうしてドイツとオーストリアは別の国となったのです。

諸民族の独立によりドイツとの統一を求めるも周辺国に反対される

しかし、1918年に第一次世界大戦が終結する直前、オーストリア帝国支配下の諸民族が一斉に独立し、帝国は解体します。残ったドイツ人地域はオーストリア共和国となりますが、帝国が解体した今、ドイツと別の国である理由は無くなり、オーストリアはドイツとの合併を希望します。ドイツ側もオーストリアとの合併を受け入れます。ところが、ドイツが再度強国化することを恐れた連合国が反対し、1919年のヴェルサイユ条約とサン=ジェルマン条約によって、ドイツとオーストリアの合併は禁止されます。連合国は民族自決の原則を主張して東欧の諸民族の独立を認めますが、敗戦国ドイツ・オーストリアの民族自決は認めなかったのです。

このように、お互いが合併を求めているにも関わらず、周辺国の反対によって別の国となっていたのが、1920年代のドイツとオーストリアです。

オーストリア併合までの動き

ナチスへの嫌悪感からドイツとの併合に反対する声が大きくなる

1929年に世界恐慌が発生すると状況は一気に変化します。経済力の弱いオーストリアは、ドイツと経済圏を1つにする関税同盟を結んで危機を乗り越えようとします。しかし、フランス・イタリア・チェコスロバキアの反対により関税同盟は実現しませんでした。1933年にドイツでヒトラー率いるナチスが政権を獲得すると、その影響を受けてオーストリアでもナチスが勢力を伸ばし、オーストリア・ナチスはドイツへの併合を主張します。これに対してオーストリアのドルフーズ首相はナチスを嫌っていたため、イタリアの支援を受けて独立を守ろうとします。ドルフーズはオーストリア・ナチスを弾圧しますが、1934年にオーストリア・ナチスに暗殺されてしまいます。しかし、暗殺を実行したオーストリア・ナチスによるクーデターは失敗して鎮圧され、ドルフーズの跡を継いだシュシュニックが首相となります。首相暗殺はやりすぎということでオーストリア・ナチスは支持を失い、ドイツとの併合を求める世論は小さくなってしまいます。ドイツとの合併自体は賛成だが、ナチスはダメという意見が大きくなります。

諸外国がドイツ支持となったのでヒトラーはオーストリア併合を強行

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ところが、国際情勢はドイツ有利となります。1935年からイギリス・フランスはドイツに対して宥和政策を取るようになり、1936年にはイタリアとの関係が改善して、1937年11月に日独伊三国防共協定が成立します。当然イタリアはドイツのオーストリア併合に反対しない立場を取ります。国際社会はドイツの味方となり、オーストリアはどの国にも頼ることができなくなったのです。ドイツとオーストリアの2国間問題となれば、国力で圧倒するドイツの思うがままです。1938年2月、ヒトラーはオーストリア併合の手始めとして、シュシュニック首相に対し、オーストリア・ナチスのザイス=インクヴァルトを内務大臣にするよう強要します。シュシュニックはやむなく受け入れますが、国民投票を実施してオーストリア国民の独立の意思をもって抵抗しようとします。しかし、ヒトラーがドイツ軍を国境に集結させて威圧したため、シュシュニックはヒトラーに屈服して国民投票は中止となります。1938年3月12日、ドイツ軍が越境してオーストリアに進駐を開始します。翌13日にドイツによるオーストリア併合が正式に発表され、オーストリアはドイツの1つの州となります。

このときオーストリア国民による大きな反発はありませんでした。確かに当時のオーストリアではドルフーズ暗殺をしたナチスに対する嫌悪感はありましたが、ドイツとの合併自体は悲願だったからです。

オーストリア併合後の動き

国民投票を実施すると99%が賛成!?

ドイツとの併合の是非を問う国民投票用紙(出典:wikipedia)

ヒトラーはオーストリア併合を強行しましたが、併合に正当性を持たせるために1938年4月10日にオーストリアで国民投票を実施します。結果99%が賛成となりますが、上記の投票用紙をご覧ください。「あなたは1938年3月12日に制定されたオーストリアとドイツの再統一に賛成し、我々の指導者アドルフ・ヒトラーの党へ賛成するか?」という質問に対し、中央の大きな記入欄の上に「はい」、右の小さな記入欄の上に「いいえ」と書かれています。これは賛成票を投じるように誘導された投票用紙であることが分かります。

諸外国はドイツのオーストリア併合を認めた

ドイツがオーストリアを併合すると直ちに諸外国はウィーンにある大使館を領事館に格下げし、併合を認めます。イタリアのムッソリーニはヒトラーに祝電を送り、フランスは「かつてドイツとオーストリアの合併を認めなかったのは民族自決の原則に反していた。過ちであった。」と主張します。こうして、ドイツのオーストリア併合は国際的に承認されることとなります。

ナチス支配下で犠牲を強いられたオーストリア

ナチスへの嫌悪感はさておき、「統一ドイツ」に対してオーストリア人は期待していました。ついに念願の祖国ドイツ国民になれたからです。しかし、ナチス・ドイツ統治下のオーストリアは一方的に犠牲を強いられます。併合直後、多くのユダヤ人や自由主義者、知識人などが収容所に送られるか処刑され、オーストリアの軍も粛清されます。「オーストリア」という地名は「オストマルク」に改称させられ、ナチスはオーストリア人を見下して二流市民扱いします。このようなナチス・ドイツによる支配の中で、オーストリア人は「自分たちはドイツ人ではなくオーストリア人だ」という自覚を初めて抱きます。ナチスによる支配を嫌い、外国に亡命する者もいました。映画「サウンド・オブ・ミュージック」で有名なゲオルク・フォン・トラップ少佐もその1人です。

ヒトラーはドイツ人ではなくオーストリア人!?

ナチス上層部にはオーストリア出身者が多くいましたが、ナチス指導者のアドルフ・ヒトラー本人もオーストリア出身だったのです。ヒトラーは1889年4月20日、オーストリア北部のブラウナウで生まれました。父はオーストリア・ハンガリー帝国の税官吏でした。ヒトラーは画家を目指していましたが美大受験に失敗し、第一次世界大戦でドイツ帝国軍に入隊、終戦後にドイツ国籍を取得します。オーストリアのドイツ人にとって、オーストリアよりもドイツへの帰属意識の方が高かったことが分かります。

第二次世界大戦後に永世中立国オーストリアが建設される

第二次世界大戦後、オーストリアの国土はドイツと同様、連合国に分割占領されます。しかし、ドイツと異なりすぐにオーストリア共和国として統一政府が認められ発足します。

その後冷戦の始まりによってオーストリア独立問題はなかなか認められず分裂の危機もありましたが、1955年にオーストリア国家条約が結ばれます。オーストリアは永世中立国として東西陣営のどちらにも属さないことで、正式に独立が認められることになります。国際連合には加盟しますがNATOには非加盟です。しかし、1995年にEUに加盟しました。

オーストリアはナチスドイツによる侵略の最初の犠牲国だった

このように、オーストリアはナチスドイツによる侵略の最初の犠牲国でした。オーストリア国民にとってドイツとオーストリアの統一は悲願でしたがナチスは嫌っており、オーストリア政府は抵抗しつつも、諸外国の支援がない中で大国ドイツの圧力に屈して併合されてしまったのです。国民の大多数が併合に賛成したわけではありませんでした。そしてナチス・ドイツ統治下で犠牲を強いられることで、「オーストリア人」としての自覚が芽生えていき、第二次世界大戦後の永世中立国オーストリア誕生へとつながっていくのです。

これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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