こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。
今回は、ユダヤ人が故郷を追われ約2000年間も世界中に離散した出来事、「ディアスポラ(離散)」について解説します。
紀元前1000年頃、古代イスラエル王国(ヘブライ王国)の時代、ユダヤ人はパレスチナの地に自分たちの国を持っていました。紀元前922年に南北分裂した後も数百年ユダヤ人国家は存続しますが、紀元前586年のバビロン捕囚で国を失います。ここがユダヤ人のディアスポラ(離散)の始まりです。紀元前140年頃にハスモン朝として再び独立しますが、ローマ帝国の支配を受け2世紀に滅ぼされます。
2世紀にローマ帝国によってユダヤ人はパレスチナから追放され、以降は自分たちの国を持たないままヨーロッパや中東など各地に離散していきます。この離散のことを「ディアスポラ」といいます。ディアスポラは1948年にイスラエル共和国が建国されるまで続きます。
この記事では、ユダヤ人の「ディアスポラ(離散)」について徹底的に解説します。


ディアスポラの語源
「撒き散らされたもの」という意味のギリシア語に由来する英語で、主にパレスチナを追われたユダヤ人の離散に対して使われます。単に「ディアスポラ」というと一般的にはユダヤ人のことを指しますが、ギリシア人、華僑、クルド人、日系人などに対して幅広く使われることもあります。
ユダヤ人のディアスポラ
バビロン捕囚後のディアスポラ

紀元前1021〜922年頃、現在のイスラエル共和国とほぼ同じ場所に、ヘブライ王国(古代イスラエル王国)というユダヤ人国家が存在し、一時は空前の大繁栄を謳歌していました。紀元前922年に南北分裂し、北のイスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされます。南のユダ王国は紀元前586年に新バビロニア王国に滅ぼされます。そのとき、ユダ王国の住民が新バビロニア王国の首都バビロンに強制移住させられてしまいます。これをバビロン捕囚といい、この頃からヘブライ人はユダヤ教を成立させ、ユダヤ人と呼ばれるようになります。
「捕囚」というと拉致されて奴隷のような扱いのイメージがありますが、実態としては「移住」という言葉が近いようです。監禁されたり過酷な強制労働をさせられたということはなく、ユダヤ人たちには土地が割り当てられ、半自由民として自治的な生活を営むことができました。さらに、ユダヤ人たちは比較的まとまった形で住まわされたため、他の民族と混合して同化することなく、ユダヤ人としてまとまり続けることができます。バラバラにされたイスラエル王国のアッシリア捕囚との大きな違いです。また、首都バビロンに限らずバビロニア全体に移住させられており、「バビロニア捕囚」とも言われます。
このように、バビロン捕囚は決して過酷なものではなかったため、紀元前538年の解放後も自発的にバビロンに留まるユダヤ人もいます。これが最初のディアスポラです。

ユダヤ戦争後の地中海世界へのディアスポラ

紀元前144年にハスモン朝が独立して再びユダヤ人国家が誕生しますが、次第にローマ帝国の支配を受けるようになります。ヘロデ大王の孫、アグリッパ1世が44年に病死すると、ローマ帝国はユダヤ属州を直接統治します。ローマ帝国は基本的に被支配民族の文化や宗教を尊重して統治しますが、多神教がほとんどの地中海世界において、一神教のユダヤ教は異質でした。ローマ帝国の皇帝崇拝・皇帝の神格化も、多神教の諸民族にとっては受け入れられても、一神教のユダヤ教にとっては受け入れられるものではありません。唯一神ヤハウェ以外の神の存在を認めることはできないのです。そのため、ユダヤ人たちはローマの支配に対する不満を募らせ、反乱を起こします。
二度のユダヤ戦争の結果、エルサレムは廃墟になり多くのユダヤ人が亡くなります。135年、エルサレムは陥落します。ローマ帝国の勝利です。ハドリアヌス帝は、ユダヤ地方が不安定な原因はユダヤ教にあると考え、根絶を図ります。ユダヤ教の指導者たちは殺害され、律法の書物は廃棄されます。エルサレムは「アエリア・カピトリナ」に改称され、ユダヤ人が市内に入ることは禁じられます。ユダヤ人の故郷でありユダヤ国家の首都であり続けたエルサレムへの立ち入りが禁止されたことは、ユダヤ人にとって故郷を失ったも同然でした。また、「ユダヤ」と名のつくあらゆるものを廃止し、属州の名も「ユダヤ属州」から「シリア・パレスチナ属州」に変更されます。
このユダヤ戦争は、ユダヤ人の最後の抵抗でした。ユダヤ国家は完全消滅し、全てのユダヤ人が地中海各地やメソポタミアなどに離散(ディアスポラ)していきます。以降、1948年にイスラエル共和国が独立するまでの約1800年間、ユダヤ人は自分たちの国を持つことができませんでした。

イスラーム圏とキリスト教圏へのディアスポラ

2世紀にローマ帝国によってエルサレムを追放されたユダヤ人の多くはローマ帝国に離散しますが、392年にローマ帝国でキリスト教が国教とされると、ユダヤ人は迫害こそされないものの差別されます。そんな中、7世紀にアラビア半島でイスラーム教が起こると、ユダヤ人の多くはイスラーム圏に移住します。イスラーム国家でユダヤ教徒やキリスト教徒は「啓典の民」としてズィンミー(庇護民)の地位を与えられます。ムスリムの支配に服従してジズヤ(人頭税)を納めれば、生命・財産の安全と宗教の自由が保障されます。ユダヤ人にとって、迫害してくるキリスト教世界と比べてイスラーム世界に住むほうが遥かに条件が良かったのです。7〜13世紀まで、世界のユダヤ人の9割がイスラーム諸国で暮らすことになりました。
キリスト教圏では差別されるユダヤ人ですが、商業や金融業の役割を生かして現在のドイツやフランスなどの西ヨーロッパに移住します。中世までは、キリスト教では利息を取ることが禁止されていました。ユダヤ教では、同胞から利息を取ることは禁止されていますが異教徒から利息を取ることは許されています。そのため、ユダヤ人はキリスト教徒にお金を貸す金融業や商業で活躍するようになります。
セファルディムとアシュケナジム

13世紀のモンゴル帝国の侵攻によってイスラーム世界が大打撃を受けた結果、イスラーム圏に離散したユダヤ人社会の中心地はイベリア半島に移ります。イベリア半島では北部をキリスト教勢力が、南部をイスラーム勢力が支配する状況が続いており、ユダヤ人は両者の橋渡し役として活躍します。しかし、レコンキスタが完了してイベリア半島全体がキリスト教勢力の支配下に入ると、イスラーム教徒とともにユダヤ人も追放されます。このイベリア半島に住んでいたユダヤ人が「セファルディム」と呼ばれます。セファルディムは主にオランダとオスマン帝国に移住していきます。

西ヨーロッパでは12世紀の十字軍の時にユダヤ人が迫害されたり、14世紀のペスト流行の際にユダヤ人が毒を入れたというデマが広がったりと、ユダヤ人への差別や迫害が発生してきます。金融業で高い利息を取るユダヤ人に対する反感や、そもそもキリスト教徒の間では、ユダヤ人はイエスを殺した人々というイメージがあったことも原因です。15世紀までにイギリス、フランス、ドイツでユダヤ人追放令が出され、ユダヤ人は主に東欧に逃れていきます。彼らが「アシュケナジム」と呼ばれます。アシュケナジムは主にポーランドに移住していきます。

ディアスポラとシオニズム
ディアスポラのユダヤ人は、各地で少数派としてまとまって暮らします。迫害や差別を受けることもありましたが、各地の権力者に取り入ったりしてユダヤ教とユダヤ人共同体を守り続けます。
このディアスポラを終わらせたのがシオニズムです。19世紀にヨーロッパ各地で反ユダヤ主義が高まり迫害が強くなってきたことで、ユダヤ人たちはユダヤ人の人権を守るために国家建設の必要性を感じます。オスマン帝国やイギリスに働きかけながらパレスチナの地でシオニストは勢力を伸ばし、ついに1948年、パレスチナの地に念願のユダヤ人国家「イスラエル共和国」が誕生します。

ディアスポラの間もユダヤ人がまとまり続けられた理由
通常、強制移住させられた民族は周囲に同化する場合が多いです。ユダヤ人が同化しなかったのは、ユダヤ教という存在があったからです。単に宗教というだけでは、他の民族にもあります。ユダヤ教が異なるのは、律法と高い教育水準です。ユダヤ教では律法によって日常生活のさまざまなことが定められています。そのため、各地に散らばっていても日々の生活からユダヤ人であることを意識できました。さらに、各地にあるシナゴーグという集会所で定期的にラビ(宗教指導者)から教えを受けます。ラビは日常生活に関する助言や判断も行っていたため、ラビとシナゴーグという結節点を通して、ディアスポラのユダヤ人は散らばっていても一体性を保つことができたのです。また、ユダヤ教では律法が書かれた書物を読んで学ぶため、読み書きを習得することが義務でした。そのため、ユダヤ人たちは高い識字率を誇りました。教育水準が高いため、さまざまな学問や専門知識を得る者がたくさんいました。よって、離散先でもユダヤ人コミュニティ内でネットワークを築いて助け合うことが、それぞれのユダヤ人が生き残るために重要だったのです。
ディアスポラは悲劇というより、約2000年近くもの長い間離散したのに民族としてまとまり続け、かつての故郷の地に再び自分たちの国を作ったという奇跡の物語と言えるでしょう。


