こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。
今回は、19世紀のモーツァルトと呼ばれ、『結婚行進曲』を含む『真夏の夜の夢』や『ヴァイオリン協奏曲』などの名曲を生み出した天才ユダヤ人作曲家、メンデルスゾーンの生涯について解説します。
『結婚行進曲』は結婚式のBGMに選ばれることの多い非常に有名な曲で、『ヴァイオリン協奏曲』も第1楽章冒頭の出だしは誰もが聴いたことのある有名なメロディです。
他にも多くの曲を作曲している一方で指揮者や音楽監督としての手腕も凄まじく、バッハの音楽の復興やライプツィヒ音楽院の設立など、音楽界へ大きな影響を与えた人物です。幼少期から才能を発揮したため、同じく早熟の天才になぞらえて「19世紀のモーツァルト」とも呼ばれます。
しかし、ユダヤ人の家系であったため迫害を受けることも多く、それはキリスト教への改宗後も変わらず、彼の音楽さえもユダヤ人であるために批判されました。
この記事では、まず当時の世界とユダヤ人の時代背景と音楽史について分かりやすく解説し、メンデルスゾーンの生涯を追っていきます。そして最後に、管理人によるメンデルスゾーン作曲『ヴァイオリン協奏曲』第1楽章のヴァイオリン演奏動画を載せています。
メンデルスゾーンが生きた頃の時代背景
世界の状況
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メンデルスゾーンは、1809年2月3日にドイツのハンブルクで生まれ、1847年11月4日にドイツのライプツィヒにて38歳で生涯を終えます。19世紀前半に生きた人物です。この時期は、ナポレオン戦争を経て欧州諸国が自由主義化し産業革命を遂げたイギリスが世界の工場となってアジアの植民地化が進んだ時代でした。
フランス革命から頭角を表したナポレオン・ボナパルトは1804年に皇帝に即位し、ナポレオン1世となります。ナポレオンは革命の成果を固定させるため、法の下の平等や契約の自由などを定めたナポレオン法典を制定します。このような自由主義・ナショナリズムの波及を恐れた欧州各国は第3回対仏大同盟を結んで対抗します。ナポレオンはまずイギリス上陸を目指しますが1805年10月のトラファルガーの海戦で敗れ、イギリス上陸は断念します。しかし、陸ではフランスの圧勝で、1805年12月のアウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシアの連合軍を破り、1806年7月のライン同盟成立、1806年11月の大陸封鎖令、1807年7月のティルジット条約によって、ナポレオンの欧州大陸支配が完成します。
しかし、1808年にスペインでナポレオンに対する反乱が起き、長期化します。さらに1810年に大陸封鎖令による経済悪化に耐えられなくなったロシアが大陸封鎖令を破棄してイギリスと貿易を始めると、1812年にナポレオンはロシア遠征を行いますが、ロシア軍の焦土作戦とロシアの冬の寒さによって大敗します。ここが転換点となり、ナポレオンの勢いは衰えます。1813年には全ヨーロッパが参加する第4回対仏大同盟が結ばれ、各国の連合軍に敗れて1814年4月にはパリが陥落してナポレオンは退位させられ、地中海のエルバ島に流刑になります。その後の欧州の体制について各国が話し合うウィーン会議が設けられますが、結論が出ないままでいるとナポレオンがエルバ島を脱出してパリに帰還します。そうなると慌てた各国は結束して1815年6月にワーテルローの戦いでナポレオンは再び敗れ、南大西洋のセントヘレナ島に流され、ナポレオンはそこで生涯を終えます。
ナポレオンを破った各国は自由主義・ナショナリズムの広がりを恐れて絶対王政を復活させ、フランス革命前の状態に戻すウィーン体制が1815年6月に成立します。その後も自由主義・ナショナリズムを求めて欧州各地で民衆の反乱が起こり、各国は必死に鎮圧しますが、フランス革命・ナポレオンによって高揚した自由主義・ナショナリズムの動きを止めることは次第に難しくなります。
独立したばかりのアメリカ合衆国は領土拡大と発展を続けます。1803年にはルイジアナをフランスから購入して大陸中部に進出、1812〜1814年の米英戦争勝利によって経済的に自立して北部の工業化を進め、1819年にはスペインからフロリダを購入します。そして1823年にはモンロー大統領がモンロー宣言を行います。これは、アメリカ合衆国がヨーロッパに干渉しない代わりに、ヨーロッパ諸国のアメリカ大陸への干渉にも反対する、といった内容です。ここから20世紀前半までアメリカ合衆国の外交政策はこの理念を基本方針とし、孤立主義となります。
中米・南米のラテンアメリカ諸国にもフランス革命の影響が波及して多くの国が独立を達成します。1804年にカリブ海のハイチがフランスから独立して最初の黒人国家を誕生させると、それに続いて1811年にベネズエラ独立、1816年にアルゼンチン独立、1818年にチリ独立、1819年コロンビア独立、1821年ペルーとメキシコ独立、1822年ブラジル独立、1823年中央アメリカ連邦独立、1825年ボリビア独立と、次々に独立が連鎖していきます。
衰退するオスマン帝国も近代化を試みます。中でもエジプトでは1805年からのエジプト総督ムハンマド=アリーによる近代化改革が進みます。そして1811年には実質的にオスマン帝国から独立します。ギリシアでも1821年から独立戦争が起き、ヨーロッパ各国が支援します。さらに1812年には露土戦争に敗れてロシアによってベッサラビアが併合され、オスマン帝国の領土はどんどん縮小していきます。
清は1796〜1804年の白蓮教徒の乱によって衰退し始めます。日本も江戸幕府が衰退する中、ヨーロッパ各国の船の来航が相次ぎ、1825年に異国船打払令が発令され、外国船を追い返すようになります。
インドではイギリスによる植民地化が進み、1775〜1818年のマラータ戦争で勝利したイギリスはインド中部にまで支配を広げます。さらに1819年にはシンガポールを買収し、東南アジアへの進出も始めます。ベトナムでは1802年に阮福暎が南北統一し、越南国(阮朝)が成立します。
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ウィーン体制によって一時的に絶対王政が復活しますが、自由主義・ナショナリズムを求める動きは止められず、各地で反乱や革命が起き、1848年にウィーン体制は崩壊します。フランスでは1830年の七月革命によって立憲君主政の七月王政が成立し、さらに1848年の二月革命によってより自由主義の進んだ第二共和政となり、大統領にナポレオン1世の甥、ルイ=ナポレオンが就任します。
このフランスの二月革命が波及してプロイセンとオーストリアでは同年1848年に三月革命が起こります。プロイセンでは国王に憲法制定を約束させて同年1848年にフランクフルト国民議会が召集されますが、うまくまとまらず1849年に国王に解散させられ、自由主義は退潮します。オーストリアでも皇帝に憲法制定と自由主義を約束させますが、やがて皇帝に反撃されて退潮し、オーストリアは多民族を支配する絶対主義帝国として続くことになります。イタリアでも統一の機運が高まりますが、オーストリアやフランスの介入によって阻害されます。一方、ギリシアとベルギーの独立は成功し、ギリシアは1829年にオスマン帝国から独立、1830年にベルギーはオランダから独立します。ロシアでは自由主義運動は完全に弾圧され、対外進出を強めたロシアはコーカサス地方を獲得します。
いち早く工業化したイギリスは世界の工場となり、圧倒的な生産力を背景に世界各地をイギリス中心の経済システムに組み込みます。選挙法改正やカトリック教徒解放法などの自由主義化も進み、ウィーン体制とは距離を取って経済力強化と植民地拡大を進め、1837年に即位したヴィクトリア女王のもとで大英帝国繁栄の黄金期を迎えようとしていました。
アメリカ合衆国は領土拡大を続けます。1845年テキサス併合、1846年オレゴン併合、1846〜1848年の米墨戦争勝利によってカリフォルニア併合し、太平洋まで到達します。カリフォルニアでは金鉱が発見されてゴールドラッシュが起き、西武開拓が進んで経済的にも大きく発展します。
ラテンアメリカでは独立が続きます。1828年にウルグアイが独立、1830年にエクアドル・ベネズエラが独立します。
1831〜1839年のエジプト=トルコ戦争でオスマン帝国は負けそうになりますが、イギリス・ロシアなどの支援でエジプト以外の領土を取り戻します。これがきっかけでオスマン帝国ではタンジマートと呼ばれる上からの近代化改革が始まります。南下政策を取るロシアはオスマン帝国への進出を拡大しようとしますが、それを恐れるイギリスはオスマン帝国を安定させようとし、オスマン帝国はイギリス・ロシアの覇権争いの舞台となっていきます。北アフリカではフランスが1830年にアルジェリアに侵攻し、植民地化します。
イギリスは銀の流出を食い止めるため、アヘンを清に輸出します。清の林則徐が1839年にアヘンを没収すると、イギリスは1840年にアヘン戦争を起こし、イギリスが圧勝します。敗れた清は1842年の南京条約で香港をイギリスに割譲し、イギリス・フランス・アメリカに対して最恵国待遇と領事裁判権を与え、関税自主権を失うといった、不平等条約を結ばされます。
日本では1841年から老中水野忠邦が天保の改革を実施して幕府を建て直そうとしますが、大名の反対によって失敗し、1843年に失脚します。また、清のアヘン戦争敗北によってヨーロッパ諸国の圧倒的な武力を目の当たりにした日本は1842年に異国船打払令を緩和します。
インドでは1845〜1849年のシク戦争でイギリスが勝利し、北西部もイギリスが植民地化します。同時期にイギリス東インド会社は商業活動を停止し、インド統治機関となります。こうしてイギリスはインドの大部分を植民地化することに成功します。イギリスは隣のビルマにも進出を開始し、1826年に第一次イギリス・ビルマ戦争に勝利してインドとの国境地帯を占領します。東南アジアでは1826年にイギリスが海峡植民地を成立させます。
このように、ナポレオン戦争を経て欧州諸国が自由主義化し産業革命を遂げたイギリスが世界の工場となってアジアの植民地化が進んだのが、メンデルスゾーンが生きた当時の世界の状況です。
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ドイツの状況

19世紀前半のドイツは、形骸化していた神聖ローマ帝国が滅亡し、ナポレオン支配の中でドイツとしてのナショナリズムが生まれ、ドイツ統一への機運が高まった時代でした。メンデルスゾーンが生まれる3年前の1805年、フランス革命によって台頭したナポレオン率いるフランスとオーストリア、ロシアが戦ったアウステルリッツの三帝会戦でナポレオンが勝利します。翌1806年、ナポレオンはライン川流域の諸侯にライン同盟を結成させ、神聖ローマ帝国を離脱させます。これを受けて皇帝フランツ2世が神聖ローマ皇帝を退位したため、神聖ローマ帝国は滅亡します。翌1807年にはプロイセンも破ってティルジット条約を結び、プロイセンは独立こそ守ったものの領土は半減します。

この屈辱から、プロイセンでは国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の臣下のシュタインとハルデンベルクによって上からの近代化改革が行われます。農奴解放による身分制改革、営業の自由などの経済改革、傭兵制から国民皆兵制への軍政改革、教育改革によって、プロイセンは近代的な国民国家の枠組みと自由経済体制が出来上がります。しかし、上からの改革だったために不十分さは残り、議会制も憲法も作られませんでした。そんな中、1807〜1808年にベルリンで行われた哲学者フィヒテによるドイツ国民国家形成を唱えた「ドイツ国民に告ぐ」の連続講演は、ドイツ人としての愛国心を呼び起こします。
メンデルスゾーン死去の翌年1848年にはドイツ統一と憲法制定を目指すためのフランクフルト国民会議が開催されます。ここでドイツ皇帝としてプロイセン国王を迎えることが決まりましたが、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は議会の恩恵によって帝位につくことを拒否します。プロイセンと、そもそもドイツ統一に反対していたオーストリアという2つの大国が拒否したため結局この会議によるドイツ統一は失敗します。
1862年、プロイセン首相となったビスマルクは鉄血政策という富国強兵政策を進め、オーストリア、デンマーク、フランスを破って1871年にドイツ統一を達成し、ドイツ帝国が成立します。
このように、形骸化していた神聖ローマ帝国が滅亡し、ナポレオン支配の中でドイツとしてのナショナリズムが生まれ、ドイツ統一への機運が高まったのが、メンデルスゾーンが生きた当時のドイツの状況です。
ユダヤ人とは
メンデルスゾーンは、ユダヤ系ドイツ人です。ここで少しユダヤ人について解説します。
もともとはヘブライ人と呼ばれた、紀元前1500年頃からシリア・パレスチナ地方にいたセム語系の民族です。ヘブライ人は一神教のユダヤ教を作り、信仰します。紀元前11世紀末にヘブライ王国が建てられ、紀元前10世紀に全盛期を迎えますが紀元前922年頃に分裂します。北のイスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされます。南のユダ王国は新バビロニアに紀元前586年に滅ぼされ、このとき多くのヘブライ人がバビロンに連れ去られます。これをバビロン捕囚といい、この頃からヘブライ人はユダヤ人と呼ばれます。
紀元前538年に宗教に寛容なアケメネス朝ペルシアによって解放されてユダヤ人がパレスチナに戻ると、そこで一定の自治も認められます。紀元前332年からのヘレニズム時代にはさまざまな国の支配を受けながら内紛が続き、やがてローマに介入をされ、紀元前63年からローマの支配を受けます。ローマの支配は過酷で、ユダヤ人は抵抗を試みますが弾圧されます。2世紀前半にユダヤ人はローマ帝国によってパレスチナを追い出され、地中海、ヨーロッパ、メソポタミアなど世界各地に離散していきます。これをディアスポラといいます。
その後は各地で保護されたり迫害されたりを繰り返しますが、19世紀になるとパレスチナにユダヤ人国家を建設しようという動きが盛んになり、ユダヤ人入植者が増えていきます。これをシオニズムといいます。1914年に始まった第一次世界大戦でパレスチナを支配するオスマン帝国と戦ったイギリスは、各勢力の協力を得るため三枚舌外交を行います。ユダヤ人にパレスチナでの国家建設を約束する一方でアラブ人にも同様に国家独立を約束、さらにフランス・ロシアとはパレスチナの分割統治の約束をします。これが21世紀現在も続いているユダヤ人とアラブ人の対立の原因です。第二次世界大戦ではナチス・ドイツによって大量虐殺され、約600万人のユダヤ人が亡くなります。これをホロコーストといいます。大戦後の1947年、国連によってパレスチナをユダヤ人とアラブ人の居住地域に分割することが決定し、念願のユダヤ人国家イスラエルが建国されます。しかし、両者は納得せず、何度も戦争が勃発し、ユダヤ人とアラブ人の争いは続いています。
クラシック音楽の歴史
メンデルスゾーンは作曲家です。ここで、クラシック音楽の歴史について簡単に解説します。
一般的に、クラシック音楽とは、17〜20世紀前半の西洋音楽を指します。「クラシック音楽」と聞くと敷居が高いイメージを持つ人もいると思いますが、ドレミファソラシドといった音階やト音記号・ヘ音記号なども、クラシック音楽が生み出したシステムです。現在の世界に存在する音楽のほとんどは、クラシック音楽のシステムが基本となっています。ピアノやヴァイオリン、クラリネットといった楽器も、クラシック音楽の楽器です。
9世紀頃、カトリック教会からグレゴリオ聖歌が生まれ、それが発展して15〜16世紀にルネサンス音楽となります。この頃は歌がメインで、楽器はあまり発達していませんでした。
17世紀になると、オルガンやチェンバロなどの鍵盤楽器や、ヴァイオリンなどの弦楽器が盛んに作られ、それらのための音楽が作られるようになります。オペラなどの歌劇もこの頃誕生します。クラシック音楽の始まりです。歌劇が生まれた1600年からバッハが亡くなった1750年までがバロック音楽の時代です。代表的な作曲家は、ヘンデル、バッハ、ヴィヴァルディです。

1750〜1820年頃までが、古典派音楽の時代です。交響曲やソナタ形式といった音楽形式のフォーマットが確立した時代です。代表的な作曲家は、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンです。クラシック音楽といえば、この頃の音楽をイメージする人が多いでしょう。
1820〜1900年頃までが、ロマン派音楽の時代です。この頃には、それまで教会や宮廷、貴族向けだった音楽が一般庶民にも広まり、自由でキャッチーな表現の音楽が生まれます。代表的な作曲家は、シューベルト、ショパン、ワーグナー、ブラームス、チャイコフスキー、メンデルスゾーンです。
1900〜1945年頃までが、近代音楽の時代です。さらに自由な形態に進化します。無調や十二音技法など、これまでのクラシック音楽のシステムを根底から崩すような音楽が生まれます。代表的な作曲家は、シベリウス、ラフマニノフ、ドビュッシー、ラヴェルです。クラシック音楽と呼ばれるのは、ここまでです。1945年以降は現代音楽になります。ジャズ、ロック、ポップスなどです。

哲学者の祖父モーゼスと銀行家の父アブラハム

作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの祖父モーゼス・メンデルスゾーンは、「ユダヤ啓蒙主義」の創始者とされる、高名な哲学者でした。「ユダヤ啓蒙主義」とは、ユダヤ人としてのアイデンティティーを守りつつ近代ヨーロッパ社会へ溶け込むことを目指す思想です。「ハスカラー」とも呼ばれます。モーゼスは貧しいユダヤ人家庭の子どもとしてドイツに生まれます。父親とラビからユダヤ教育を受け、各言語や哲学を学びます。カントとも交流を持っていました。彼は裕福なユダヤ商人の子どもたちの家庭教師をしたり、絹織物工場で簿記の仕事をするなどして生計を立てながら、哲学者として論文を書き、有名になります。晩年にはカントが尊敬するほどの大哲学者となり、ヨーロッパ中に知れ渡ります。彼には3人の息子がいました。ヨーゼフ、アブラハム、ナータンです。次男のアブラハムが作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの父となります。


長男ヨーゼフがまず銀行家として成功し、次男アブラハムも兄と協力してメンデルスゾーン銀行を経営します。ヨーゼフとアブラハムはハンブルクの名士となります。アブラハムは、ナポレオンの大陸封鎖令を破ってイギリスと貿易して財を成し、ナポレオンから逃れるためにベルリンに移住します。これはドイツ(プロイセン)にとって愛国的と見られ、ベルリンの名士となります。そしてメンデルスゾーン銀行は繁栄していきます。
フェリックス・メンデルスゾーンが天才作曲家となったのは、父アブラハムの経済力と教育が大きな要因です。それに、アブラハム自身も大銀行家として活躍しています。しかし、アブラハムは謙虚な性格なため、息子フェリックスが活躍すると「かつて私は偉大な父の息子として知られていた。だが今では偉大な息子の父親として知られている。」と述べています。
メンデルスゾーンの生涯

裕福で教養の高い家庭に生まれ神童として育った幼少期
メンデルスゾーンは1809年2月3日、ドイツ北西部の工業都市ハンブルクで生まれます。フルネームだとフェリックス・メンデルスゾーンといいます。メンデルスゾーン家には登場人物が多いため、以降は「フェリックス」と呼ぶことにします。祖父モーゼスはユダヤ啓蒙主義の創始者とされる哲学者かつ一代で頭角を現した経営者です。父アブラハムは大銀行家で母レアはベルリンの富豪の娘で音楽の才能に恵まれていました。メンデルスゾーン家には4人の子供がいて、上から姉ファニー、フェリックス、弟パウル、妹レベッカです。メンデルスゾーン家がハンブルクに住んでいたのはフェリックスが2歳のときまでです。1811年、父アブラハムの銀行がナポレオンの大陸封鎖令を破ってイギリスと取引しようとしたため、それに対する報復を恐れてベルリンに移住することになります。

ベルリンでは年々ユダヤ人への偏見や差別が増していく状況だったため、父アブラハムの判断で子供たち4人をキリスト教のプロテスタントに改宗させることにします。1816年3月21日、フェリックス7歳のとき、ベルリンのエルサレム教会で洗礼を受けて改宗しました。フェリックスが初めて音楽教育を受けたのは4歳でした。母レアはプロ級のピアノの腕の持ち主だったため、ファニーとフェリックスにそれぞれ4歳からピアノを教えます。そして母レアは早くから2人の特別な才能に気づきます。メンデルスゾーン家は裕福なために貴族や文化人たちとの交流が多くかったため、この天才姉弟は早くから著名な音楽家たちと出会います。マリー・ビゴーやベルガーといった一流のピアニストから姉弟そろってレッスンを受けることもありました。幼い頃からフェリックスの才能は抜きん出ていて、ベートーヴェンの9つの交響曲(「運命」「第九」など)を全てピアノで暗譜して演奏することもできました。メンデルスゾーン家の子どもたちは学校には通わず、アブラハムが人脈と財力を駆使して家庭教師として招いた各分野の第一人者たちに家で教育を受けます。音楽だけでなく語学、数学、体操、絵画、乗馬などさまざまな教養を身につけます。ときどき近所の子供たちとかけっこなどをして遊ぶこともありますが、大部分は家で姉弟たちや家庭教師と過ごします。フェリックスは父と同様、真面目で勤勉な性格に育ちます。子供たちは4人とも仲良しでしたが、特に姉ファニーとフェリックスの2人は仲良しで、一心同体で何をするにも一緒でした。

1819年、フェリックスが10歳のとき、バッハの孫弟子で詩人ゲーテの友人でもある巨匠ツェルターが作曲と音楽理論の師として家に現れます。ファニーとフェリックスはツェルター先生から作曲を習い、出された課題を競争して書き上げてお互いに評価し合います。この頃から2人は音楽仲間としても結びつきが強まります。ツェルターは2人を高く評価し、特にフェリックスはモーツァルト並の早熟の天才だと評します。

1819年8月から、ドイツ全土にユダヤ人排斥運動が広まり、秋にはベルリンにも到達します。学生や市民が集団で「ヘップ!ヘップ!くたばれユダヤ人!」と叫びながら大通りを行進していきます。さらに、10月のある日、プロイセン王子の1人がフェリックスの前に来て「ヘップ!ヘップ!ユダヤ人の子!」と叫び、足元に唾を吐きつけて去っていきました。フェリックスは大銀行家の息子だったためにこのように他人から攻撃されることが初めてで、大きなショックを受けます。この事態を見た父アブラハムは、翌1820年に引っ越しを決めます。次の家はベルリンの中でもユダヤ人とドイツ人の関係が良いエリアでした。屋敷はとても広く豪華で、父アブラハムは今まで以上に各分野の第一人者たちを招いてドイツ社会に溶け込むための社交サロンを開きます。
フェリックスの作曲の進捗は凄まじく、11歳にしてピアノ三重奏曲、ピアノソナタ、歌芝居などを書き上げます。これにはツェルターも大喜びし、ファニーとフェリックスの2人を自分が指導監督している名門合唱団「ベルリン・ジングアカデミー」に入団させます。この合唱団で初めてフェリックスはバッハの音楽に触れます。

翌1821年、ツェルターは親友の詩人ゲーテにフェリックスを紹介します。ゲーテはドイツを代表する詩人で、『ファウスト』『若きウェルテルの悩み』などの名作を残した人物です。1821年11月3日から16日間、フェリックスはゲーテ邸に滞在します。フェリックス12歳のときです。フェリックスがゲーテにピアノ演奏を聴かせると、すぐにゲーテは心を奪われます。そして「この少年はモーツァルトの再来だ!」と言います。ゲーテ邸にいる間、フェリックスは毎日何時間もゲーテのためにピアノ演奏をし、ゲーテはフェリックスを深く愛します。72歳のゲーテと12歳のフェリックスは、年の差を超えた友情で結ばれます。その後もフェリックスはゲーテに招かれて何度か会っており、ゲーテの詩に曲をつけたりします。またゲーテはフェリックスのことを「彼はまるで、イスラエル王サウルを音楽で励ました若きダヴィデのようだ!」とも評します。ユダヤ人の偉人かつ竪琴の名手であったダヴィデになぞらえた、最大級の賛辞です。

1822年、フェリックス13歳のとき、父アブラハムと母レアもキリスト教に改宗します。さらに、キリスト教徒であることを示すために「バルトルディ」の名を加えます。フェリックスは「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ」となります。アブラハムは「フェリックス・M・バルトルディ」と名乗るように言いますが、フェリックスは反発します。長時間言い争った結果、「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ」と名乗ることで折り合います。
メンデルスゾーン家での第1回「日曜音楽会」は、この年の秋に開かれます。メンデルスゾーン家の自宅で隔週日曜日に開催される、音楽の勉強をする子供たちの発表の場でした。初めはフェリックスと姉ファニーのピアノ演奏が中心でしたが、時には規模が大きくなり宮廷楽団が雇われて演奏することもあり、フェリックスは自作のシンフォニア(小交響曲)の指揮をすることもありました。この日曜音楽会にはツェルターをはじめベルリンの名士たちが招かれ、みなフェリックスの才能に驚嘆します。本格的な演奏が楽しめるうえに贅沢な昼食も出るこの「日曜音楽会」は評判になり、ベルリンを訪れる世界的な音楽家たちのほとんどが参加するようになります。ウェーバー、パガニーニ、シュポア、フンメルといった巨匠たちの姿もありました。
さまざまな巨匠たちからもフェリックスは一流の音楽家になる素質があると認められますが、父アブラハムはフェリックスを音楽家という不安定な職業にすることに迷います。そこで父アブラハムは、自身が最も優れた音楽家だと信じる人物、パリ音楽院長のルイジ・ケルビーニに判定を仰ぐことにします。1825年、フェリックス16歳のとき、ケルビーニはフェリックスの自作曲の演奏を聴いて「この子には豊かな才能がある。音楽家として立派にやっていけるだろう。いや、すでに十分立派にやっている」と評します。これを聞いて安心した父アブラハムは、フェリックスの望み通り音楽家の道に進むことを許します。
この年の夏の終わり、メンデルスゾーン家は引越しします。父アブラハムは社会的・経済的に大成功していたため、親族全員が一緒に暮らせるような大邸宅に移ることにしたのです。場所はベルリンのはずれです。父アブラハムはここに宮殿のような大邸宅、見事な庭園、美しいホールを建設します。周囲の建物にも友人知人が住み、通り全体が1つの集合体のようになります。「日曜音楽会」はさらに大規模なものとなり、毎回数百人の観客が訪れます。すでにメンデルスゾーン家の「日曜音楽会」は私的な家庭演奏会の域を超えて、ベルリン全体でも貴重な公開演奏会となります。
翌1826年夏、フェリックス17歳のとき、姉ファニーとフェリックスと他の子供たちは、シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』に夢中になります。そこで、兄弟姉妹、友人たち、近所の子供たちを総動員して、「日曜音楽会」で上演しようという話になります。総監督は姉ファニーで、子供たちに戯曲の登場人物の役を当てはめていきます。フェリックスはこの芝居からインスピレーションを得て序曲『真夏の夜の夢』を完成させます。そして11月の「日曜音楽会」でフェリックスの指揮で上演します。そして一大センセーションを巻き起こします。シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』を知らない者はいませんでしたが、その世界をここまで音楽で完璧に表現できるとは誰も予想していませんでした。序曲『真夏の夜の夢』の評判は瞬く間にドイツ各地に広がり、フェリックスのもとにはドイツ東北部のシュテッティンという町からこの曲を指揮してほしいと依頼が来ます。そして1827年2月20日、フェリックス18歳のとき、シュテッティンで序曲『真夏の夜の夢』初の公開演奏を行います。
バッハ『マタイ受難曲』の復活公演

フェリックスの宝物は、14歳のクリスマスに亡き祖母から贈られた大バッハ(ヨハン・セバスティアン・バッハ)の大作『マタイ受難曲』のスコアでした。当時、世間一般ではバッハの音楽はあまり知られず、音楽家の間でも時代遅れという評価でしたが、メンデルスゾーン家とその一族はバッハとの繋がりが深く、バッハは偉大な作曲家と見なされていました。合唱団「ベルリン・ジングアカデミー」でバッハの宗教音楽を歌う機会もあり、フェリックスはバッハの大作『マタイ受難曲』を上演してみたいと思うようになります。上演に向けた動きは1827年秋から動き出します。姉ファニーと王立歌劇場の歌手デヴリエントが「ベルリン・ジングアカデミー」の中から有志を募り、メンデルスゾーン邸で試演を重ねます。試演メンバーはみなフェリックスの指揮するバッハ音楽に魅せられます。しかし、4時間近くもある『マタイ受難曲』にはもっと大規模なオーケストラと合唱団が必要です。そこで、まずツェルターを説得することにします。最初は無謀だと却下されますが、フェリックスの粘り強い説得により、しぶしぶ許可します。「ベルリン・ジングアカデミー」の理事たちも慈善目的の公演ならということで、ホール使用料をメンデルスゾーン家が支払う代わりに許可します。王立歌劇場の歌手たちやオーケストラも雇い、メンバーが揃っていきます。練習のときからフェリックスはスコアを完璧に暗譜しており、指揮するだけでなくピアノで伴奏パートを弾きながら的確な指導をします。これにはツェルターも舌を巻き、フェリックスの能力に脱帽します。「百年ぶりの復活公演」と銘打って新聞で大々的に告知されると、市民の関心は急激に高まって入場券は告知の翌日には売り切れます。公演日は1829年3月11日、フェリックス20歳のときでした。当日の聴衆の中には、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と、王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の姿もありました。公演は大成功し、ただちに10日後の3月21日に再演します。こうして『マタイ受難曲』の偉大さはベルリンだけでなくドイツ各都市に急速に伝わり、やがてヨーロッパ各国での「バッハ復興運動」に発展します。フェリックスは20歳にしてこの偉業を成し遂げたのです。
イギリスとイタリアへの演奏旅行

偉業を成し遂げてわずか約1ヶ月後の1829年4月18日から、フェリックスは長期間の演奏旅行に出かけます。この旅行は父アブラハムが計画したものでした。反ユダヤ主義が広がるベルリンでは、『マタイ受難曲』復活公演でさえ、王立歌劇場の音楽監督スポンティーニあたりから「ユダヤ人銀行家の息子が金にモノを言わせてジングアカデミーを買い取った」などと陰口と批判が飛び交っていました。ベルリン音楽界でのフェリックスへの敵意と妬みが今後も続くと考えた父アブラハムは、ヨーロッパ各地で音楽家として生きていくための経験と教養を積みながら、フェリックスを認めて大切にしてくれる場所を見つけてほしいと願い、最愛の息子を大旅行に送り出したのです。資金は全て父持ちで、旅程も父アブラハムが周到に練ったものでした。最初の目的地にはロンドンが選ばれました。父アブラハムが信頼している音楽家モシュレスと友人クリンゲマンがロンドンにいたからです。フェリックスはドイツ最大の港ハンブルクから船でロンドンに入り、クリンゲマンの家に居候します。フェリックスはモシュレスとクリンゲマンと一緒に連日連夜劇場や舞踏会に足を運び、ロンドン社交界や音楽界で交流を深めます。ここではユダヤ人であることは障害にはならず、むしろ勲章ですらありました。ロンドンには有名なユダヤ人銀行家ロスチャイルド家の1人がいて、政財界で権威を振るっていたからです。音楽だけでなく教養の高いユダヤ人天才音楽家のフェリックスはたちまちロンドン社交界の寵児になります。5月25日、フェリックスはフィルハーモニー協会の定期演奏会で自作の交響曲を指揮し、ロンドン・デビューを果たします。この演奏会は大成功し、ロンドンの楽員と市民はフェリックスを熱狂的に賞賛します。それから数ヶ月、毎月のようにコンサートで指揮を執り、ロンドンで「メンデルスゾーン・フィーバー」が巻き起こるほどの人気者となります。一連のコンサートを終えると、フェリックスはクリンゲマンと相談し、スコットランド地方を回りながら作曲を進めることにします。7月26日にスコットランドのエディンバラに到着し、1ヶ月ほどかけてスコットランド地方の自然や史跡を巡ります。このスコットランド旅で得た感覚をもとに、のちにフェリックスは『フィンガルの洞窟』『スコットランド交響曲』を作曲します。9月10日にロンドンに戻ったフェリックスは馬車の横転により何週間もベッドで寝込む大怪我を負います。怪我が治ってきたフェリックスは12月7日に一旦ベルリンに帰宅します。父アブラハムは、ロンドンで大成功した息子に満足します。
翌1830年、フェリックス21歳のとき、再び大旅行に出かけます。今度はドイツ南部のミュンヘンからオーストリアのウィーンを経てイタリアに入るルートです。11月1日にローマに入りますが、道中では社交や観光は二の次にして作曲に集中します。フェリックスは冬でも暖かいローマの気候に感激しますが、音楽のレベルは低く、期待は外れます。そこでフェリックスは作曲に集中し、イタリアの自然、気候、史跡を感じながら『イタリア交響曲』を作曲します。ローマでもナポリでも、フェリックスはイタリア人の怠惰な暮らしぶりを嫌悪します。真面目で勤勉なフェリックスには合わなかったのです。

1931年9月、フェリックス22歳のとき、再びバイエルン王国の首都ミュンヘンまで戻ってきます。ミュンヘンでは演奏会を何度か開いて成功します。次の目的地はフランスの首都パリです。12月半ばにパリに到着します。フェリックスはすぐにパリ社交界の人気者となりピアニストとして成功しますが、作曲家・指揮者としてのデビューは難しく、序曲『真夏の夜の夢』を指揮したときも聴衆の反応は冷淡でした。フェリックスの真面目で保守的な音楽は、革新的で俗的なパリ市民には合わなかったのです。フェリックスはパリに落胆します。翌1932年4月、フェリックス23歳のとき、再びロンドンに向かいます。ロンドン市民はフェリックスを大歓迎し、大スター扱いでした。演奏会も全て成功し、再びフェリックスはロンドンで絶賛されます。
しかし、ここで訃報が届きます。師ツェルターが5月15日に死去したのです。そこでフェリックスはベルリンに帰還し、家族の勧めにしたがってツェルターの後任の「ベルリン・ジングアカデミー」指揮者に立候補します。ところが、1833年1月22日の投票でフェリックスは対立候補のルンゲンハーゲンに敗れます。メンデルスゾーン家の家族同然だと思っていた親しい隣人までもがフェリックスがユダヤ人であることを理由に反対したためです。フェリックスはベルリンに絶望します。そんなとき、フェリックスのもとにロンドンからの作曲依頼と、ドイツ西部デュッセルドルフからの音楽監督への就任依頼が届きます。フェリックスはこの申し出を受け入れ、ベルリンを離れます。
デュッセルドルフの音楽監督になる

1833年4月14日、フェリックス24歳のとき、ベルリンを離れます。まずデュッセルドルフに寄って5月にある「下ライン音楽祭」の打ち合わせをした後、25日に3度目のロンドン入りをします。5月13日にフィルハーモニー協会の定期演奏会で自作の『交響曲第4番(イタリア)』指揮者を務めます。この演奏会でピアノ独奏も披露し、1つの演奏会で作曲家・指揮者・ピアニストとして名声を轟かせます。すぐにデュッセルドルフに戻ると「下ライン音楽祭」の準備を進めます。練習期間は数日でしたが、抜群の指導力で合唱、独唱、オーケストラをまとめ上げ、演奏者全員からの絶大な信頼を得ます。デュッセルドルフの「下ライン音楽祭」は5月26日から28日の3日間の開催で、音楽祭は大成功に終わりました。フェリックスはデュッセルドルフ市と音楽監督の3年契約を結びます。仕事内容は、音楽祭と教会音楽の監督と、歌劇場での指揮です。これはフェリックスにとって初めての職業音楽家として公的な地位でした。このことには父アブラハムも喜びます。しかし、オーケストラや合唱団のレベルはフェリックスが期待していたより低いものでした。フェリックスはデュッセルドルフ市の音楽レベルを向上させるために奮闘しますが、なかなかレベルは向上しません。オーケストラに対する怒りのあまり、リハーサル中に楽譜を破り捨てることもありました。また、作曲の時間も満足に取れず、音楽監督の仕事に忙殺されます。そんな中、1835年、フェリックス26歳のとき、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督兼指揮者への就任依頼が来ます。フェリックスはこれを受けることにし、限界を感じていたデュッセルドルフ音楽監督を辞任します。
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督になる

1871年に創設されたドイツ有数のオーケストラ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と一緒に仕事ができることは、音楽家として名誉なことでした。加えて、ライプツィヒはバッハの都です。フェリックスがずっと崇拝し続けてきたバッハの都で音楽監督に就任できることは、この上ない喜びでした。仕事内容は、10〜3月の6ヶ月間、20回の定期演奏会の指揮に加えて、特別演奏会・慈善演奏会の指揮を含む、市の全音楽活動の監督と、オーケストラの音楽的統率です。4月〜9月までの半年間は休暇のため、作曲の時間も取れます。フェリックスはこの条件に満足します。1835年8月30日にライプツィヒに到着したフェリックスは、10月4日にある就任披露演奏会の準備に取りかかります。ゲヴァントハウス管弦楽団の楽員数は40名で、能力はデュッセルドルフよりずっと上でした。そんな優秀なオーケストラのメンバーにとっても、フェリックスの指揮者としての能力の高さは衝撃的でした。瞬く間に楽員たちの信頼を得ます。10月4日の就任披露演奏会は大成功します。この演奏会で、フェリックスはライプツィヒ市民の高い文化度を実感します。聴衆は熱心に演奏に聴き入り、楽章ごとに拍手を送ります。その後の演奏会も成功続きでしたが、そんな中、父アブラハムの訃報が届きます。10月19日に亡くなったのです。父の死はフェリックスにとって大きなショックでした。そのため、父が完成を心待ちにしていた『聖パウロ』の作曲と「ゲヴァントハウス・コンサート」に全力で取り組むことで、立ち直ろうとします。翌1836年、フェリックス27歳の春、最初のシーズンが終わった時には彼はライプツィヒを完全征服していました。ライプツィヒ大学哲学科は、フェリックスに名誉博士号を贈ります。

5月1日、デュッセルドルフに向けてライプツィヒを発ちます。「下ライン音楽祭」で『聖パウロ』を指揮して初演するためでした。この初演では合唱団のアルトパートに姉ファニーも加わります。5月22日の「下ライン音楽祭」での『聖パウロ初演』は大成功に終わりました。デュッセルドルフに来る途中、フェリックスは伯母ドロテーアが住むフランクフルトに立ち寄って3日間滞在しました。この短い滞在の間に、伯母ドロテーアから、名門のジャンルノー家に引き合わされます。フェリックスはジャンルノー家の18歳の次女セシルに心惹かれます。フェリックスは女性に対しては父親譲りの保守的な考え方を持っていたため、公の場で活躍する女性は結婚相手には考えられませんでした。そのため、アマチュア合唱団にいて控えめな性格のセシルに夢中になります。そしてフェリックスは9月1日、セシルにプロポーズし、9日に婚約を交わします。

9月19日にライプツィヒに戻ったフェリックスは、10月からの新しいシーズンを前に2つの改革を実行します。オーケストラを50名に増員することと、古くからの友人であり優秀なヴァイオリニスト、フェルディナント・ダヴィッドをコンサートマスターに迎えたことです。10月からのシーズンは前年にも増して大成功で、フェリックスは「巨匠」と呼ばれるようになります。12月初め、フェリックスはライプツィヒ市との間で6年契約と報酬増額の約束を交わします。そして1837年3月28日、フェリックス28歳のとき、セシルと結婚します。公私ともに順調なフェリックスは、1838年、フェリックス29歳のとき、ダヴィッドに送った手紙で「来年の冬までには君のために『ヴァイオリン協奏曲』を書くよ」と約束します。フェリックスは、シーズン中は定期演奏会に加えてさまざまなコンサート企画を行い、休暇中には「下ライン音楽祭」をはじめとした各地の音楽祭の監督や指揮の要請に応え、休む暇がありません。フェリックスの名声はドイツ中に轟いていました。そんな中でも作曲を進め、『スコットランド交響曲』やオラトリオ『エリヤ』などの作品を生み出します。分刻みの毎日でしたが、子どもの頃からずっとこうした生活でした。フェリックスは慢性的な疲労に陥り、健康状態が悪化していきました。しかし、誰も彼を止めることはできません。何よりも、フェリックス自身が、まるで何かに駆り立てられているかのように働いていたためです。
ベルリン赴任とライプツィヒ音楽院設立

1841年、フェリックス32歳のとき、前年に即位したプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世から、王立宮廷楽団楽長に任命されます。王は、ベルリンをヨーロッパ一の文化の都にしたいと考えており、そのためにはヨーロッパ中に名声を轟かせているメンデルスゾーンを獲得したい、と考えたのです。悩んだ末にフェリックスはこれを承諾して再びベルリンに住みます。相変わらずベルリンではフェリックスの作品は評価されませんでしたが、ベルリンでの仕事はライプツィヒでの激務に比べれば少なかったため、作曲に集中したり家族と過ごす時間を取ることができました。ライプツィヒでもシーズン中数回の演奏会の指揮は続けていたため、ベルリンとライプツィヒを往復する生活になります。各地からの要請にも応え続け、1842年6月、フェリックス33歳のときには、妻セシルとともに再びイギリスに訪問します。6月20日、音楽好きのヴィクトリア女王夫妻から、バッキンガム宮殿に招待されます。女王の夫アルバート公とフェリックスのオルガン演奏と、女王の歌による即興の共演も行われ、楽しい時間を過ごします。このときから、フェリックスとイギリス王室との親しい付き合いが始まります。この頃からフェリックスはライプツィヒに戻りたいと考え、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に辞意を伝えます。王立宮廷楽団楽長は辞めることができましたが、代わりにプロイセン音楽監督と宮廷作曲家に任命され、年に数回楽団の指揮を執ることと作曲を命じられます。この程度なら負担は少ないと考えたフェリックスは承諾し、11月半ばにライプツィヒに戻ります。ライプツィヒ市民は大喜びでした。フェリックスは再びゲヴァントハウス管弦楽団を率います。
12月12日、突然の訃報が入ります。母レアが亡くなったのです。フェリックスの悲しみは大きく、しばらく立ち直れませんでした。
1843年4月2日、フェリックス34歳のとき、3年以上前から進めていた計画が実り、ライプツィヒ音楽院を設立します。これはドイツ初の音楽学校でした。最初の新入生は男子17名女子5名の計22名で、教授陣には最高の音楽家たちが集められます。ピアノと作曲にシューマン、ヴァイオリンにフェルディナント・ダーヴィドなどです。初代校長にはゲヴァントハウス運営委員会の1人カイルが就任しますが、実質的な校長はフェリックスです。フェリックス自身も教壇に立ち、持っている知識や技術を惜しげもなく学生たちに与えます。こうしてフェリックスの仕事に、音楽学校の運営と教授職が加わります。
『真夏の夜の夢』と『ヴァイオリン協奏曲』を作曲
この年の夏、プロイセン王がポツダムの新宮殿でシェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』の上演を計画し、その音楽の作曲と指揮をフェリックスに命じます。彼は喜んでこれに応じます。17歳のときに作曲した序曲『真夏の夜の夢』はそのまま生かし、新たに劇付随音楽を12曲作曲して1つの作品とします。作曲中、フェリックスは本当に幸せでした。子ども時代の思い出に浸りながら作曲できたからです。この『真夏の夜の夢』には有名な「結婚行進曲」も含まれます。10月14日、ポツダムの新宮殿の中にある宮廷劇場で、プロイセン王と上流階級の人々の前で初演され、18日からはベルリンで一般公開されます。『真夏の夜の夢』は文句なしの大成功を収めます。誰もがこの音楽に熱狂し、公演は毎回「メンデルスゾーン!」の大歓声に包まれます。ついにベルリンでもフェリックスの名声が揺るぎないものになったのです。

翌1844年7月、フェリックス35歳のとき、家族とともにフランクフルト近郊の小さな村バート・ゾーデンで休暇を取り、体を回復させます。すると創作意欲が湧き、ダーヴィドとの6年ごしの約束の『ヴァイオリン協奏曲』の作曲に専念します。朝は6時に起き、昼食や夕食やお茶の時間をたっぷり取り、妻や子どもたちと山歩きやスケッチを楽しむといった牧歌的な生活の中から、若さと優美さにあふれた『ヴァイオリン協奏曲』が生まれます。気高く繊細でロマンティックなこの曲は、フェリックスの人間性そのもののような作品です。全楽章を休みなく演奏するスタイル、カデンツァを作曲家自身が全て書き込む、といった斬新なアイディアも盛り込まれます。
この年の秋のベルリン滞在中に、友人の家の夜会でスウェーデンから来たジェニー・リンドという24歳の歌手に出会います。フェリックスはジェニーの美しさと才能を愛し、何度か仕事をともにし、その度にジェニーを重用します。
この頃から、フェリックスはひどい偏頭痛に悩まされ、公的な活動からの引退を考え始めます。翌1845年3月13日、フェリックス36歳のときにライプツィヒで行われた『ヴァイオリン協奏曲』の初演で自ら指揮する予定でしたが、体調不良のため代理の指揮者を立てます。初演のソリストはダーヴィドでした。アメリカからの音楽祭の指揮の依頼も断ります。しかし、ずっと休むことはできませんでした。子どものときから周囲の期待に応えるよう努力してきた習性と、社会のために働くべきだという義務感から、引き続きヨーロッパ各地からの依頼に応えていきます。
38歳の若さで死去
8月半ばに完全復帰したフェリックスは、再びベルリンとライプツィヒを往復する生活を始め、激務の中でさらに体調を悪化させていきます。1846年8月26日、フェリックス37歳のとき、作曲したオラトリオ『エリヤ』をイギリスのバーミンガムで初演します。イギリス人たちの熱狂ぶりは凄まじく、拍手がいつまでも鳴り止まず「メンデルスゾーン!」の歓声でいっぱいになり、8曲もアンコールをすることになりました。彼の名声は頂点に達しますが、疲れも頂点に達します。偏頭痛や耳鳴りは酷くなり、医者からも休むように言われます。そして1847年3月19日、フェリックス38歳のとき、12年間在籍したライプツィヒ市音楽監督を辞任します。その後イギリスで再びヴィクトリア女王夫妻に会って5月15日にフランクフルトにある妻の実家に着きます。
2日後の5月17日、弟パウルから手紙が届きます。読み始めて数秒間呆然と手紙を見つめた後、突然言葉にならない叫びをあげて床に倒れ、気を失います。姉ファニーが脳溢血のため亡くなったのです。姉ファニーも弟同様我慢強く、体調不良にも関わらず、家族全員の世話、「日曜音楽会」の切り盛りをしつつ自身の作曲も行っていたため、休まなかったのです。フェリックスが受けたショックは両親のとき以上でした。姉ファニーは分身のような存在で、お互いの妻や夫よりも結びつきは強く、常に作曲について意見交換していました。フェリックスはずっと作曲について姉ファニーに相談し、その意見を誰のものよりも尊重していました。フェリックスは悲しみと喪失感に打ちのめされ、体も急激に弱り、全てが虚しく思えるようになります。力を振り絞って姉ファニーのためのレクイエムとして『弦楽四重奏曲ヘ短調』を作曲しますが、これまでの作風と全く異なり、悲痛で鬼気迫る音楽でした。
10月9日からフェリックスはたびたび発作を起こしたり意識を失うようになります。脳卒中でした。11月1日、一晩中叫び声をあげたり、うわごとを言ったり、作曲や指揮をしているかのようにハミングしたり、手拍子をしたりする発作が起こります。未だにフェリックスの頭の中は音楽でいっぱいでした。時折意識が戻る時に医師や妻セシルが「どんな具合ですか?」と聞くと「疲れた・・・ひどく疲れた・・・」と答えます。これがフェリックスの最期の言葉となりました。そして1847年11月4日、妻セシル、弟パウル、ダーヴィド、ゲヴァントハウス理事長に見守られ、穏やかに息を引き取ります。38歳9ヶ月でした。

メンデルスゾーンの死後
妻と子どもたちのその後
妻セシルは、夫フェリックスの死から6年弱が経った1853年9月25日、36歳の若さでフェリックスの後を追います。2人は5人の子どもに恵まれます。カール、マリー、パウル、リリ、フェリックスの5人です、フェリックスは1844年に麻疹に罹り、1851年に死去します。カールは著名な歴史家となり、ハイデルベルク大学とフライブルク大学で歴史学の教授を務めます。パウルは有名な化学者で、アニリン染料の工業的生産において先駆的役割を果たします。マリーは結婚してロンドンに住みます。リリは、ライプツィヒ大学の法学教授となるアドルフ・ヴァッハと結婚します。このように、フェリックス・メンデルスゾーンの子どもたちもまた優秀だったのです。
死後長い間評価が低かったメンデルスゾーン
作曲家フェリックス・メンデルスゾーンに対する評価は、死後長い間、低いものでした。その理由は、彼がユダヤ人であったためです。
メンデルスゾーンの死から3年後の1850年、作曲家リヒャルト・ワーグナーがライプツィヒの名高い音楽誌『音楽新報』に「音楽におけるユダヤ性」という論文を投稿します。この論文でワーグナーは「彼は確かに特別の才能と幅広い教養の持ち主だが、その作品には我々が芸術に期待する心の奥底に訴えかけるものも、高い精神性も感じられない。彼らユダヤ人は演奏家としては優れていても、真の創作力には欠けており、他人の作品を盗むだけだ」と、メンデルスゾーンを名指しで批判します。このワーグナーによるメンデルスゾーン攻撃は人々の心に潜在していたユダヤ人嫌いに火をつけ、ドイツだけでなくかつてメンデルスゾーン・フィーバーが起きたイギリスにまで波及します。イギリスの高名な音楽評論家バーナード・ジョーは「メンデルスゾーンを偉大な作曲家の1人にすることはできない。彼は裕福は家庭で生まれ育ち、貧困や苦しみを知らないから、偉大な芸術家としての資質に欠ける」と非難します。こうした相次ぐ非難によって「メンデルスゾーンの音楽は優雅だが表面的」という見方が広まり、作品の評価も低くなります。
1933年にドイツ首相になったナチスのアドルフ・ヒトラーは、ワーグナーの音楽や思想を崇拝していました。そのため、ワーグナーが嫌っていたメンデルスゾーンをさらに貶めようとします。1934年から、ドイツの音楽教科書や作曲者名簿からメンデルスゾーンの名前が抹殺され、作品の演奏も全面禁止となります。1936年にはライプツィヒにあるメンデルスゾーン記念碑も破壊され、1939年には半世紀近く続いたメンデルスゾーン銀行が閉鎖されます。
現代で再評価されたメンデルスゾーン

メンデルスゾーンの名誉が復活したのは、ナチス・ドイツが敗戦して第二次世界大戦が終了した後でした。没後百年にあたる1947年、ライプツィヒで「メンデルスゾーン音楽祭」が開催され、新しい記念碑が建てられます。彼が崇拝していたバッハと同様、メンデルスゾーンもまた百年ぶりに復活したのです。そして没後150年の1989年、ライプツィヒに記念館「メンデルスゾーン・ハウス」が開館し、遺品が展示されます。
ジェニー・リンドとの関係

メンデルスゾーンは、1844年10月に出会ったスウェーデンのソプラノ歌手、ジェニー・リンドと1845年11月に再会します。この1年の間に彼女は「スウェーデンのナイチンゲール」と呼ばれるほどの人気者となっていました。メンデルスゾーンは彼女の美声と才能の虜になり、それから毎日にように友人の家で会い、助言を与えます。メンデルスゾーンが作曲したオラトリオ『エリヤ』のソプラノ独唱にを抜擢したり、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートや下ライン音楽祭でも起用し、大成功を収めます。2人はその後数日間、ライン川の船遊びを楽しみます。お互いに好意を持っていましたが、厳しい道徳観を持って生きてきたメンデルスゾーンは、決して妻や子どもたちを裏切ることはありませんでした。彼はあくまで、ジェニー・リンドの後見人・助言者の立場を貫きます。
メンデルスゾーンの死から2年後の1849年、ジェニー・リンドはメンデルスゾーン奨学基金を設立します。基金は2年ごとにイギリス在住の若い作曲家にメンデルスゾーン賞を与えています。
メンデルスゾーン作曲『ヴァイオリン協奏曲』第1楽章※管理人によるヴァイオリン演奏付き
メンデルスゾーンは、1839年から1845年の6年間かけて、親友ダーヴィドのために『ヴァイオリン協奏曲』を作曲します。メンデルスゾーンの作品の中で『真夏の夜の夢』と並ぶ代表作です。日本では「メンコン」という愛称で親しまれ、第1楽章冒頭の甘美で哀愁あふれるメロディは誰もが聴いたことあるほど有名です。3つの楽章で構成され、全て通して演奏するときは休みなく演奏することとされています。特にヴァイオリン学習者にとっては憧れの大曲で、音大受験の課題曲にもなっています。
楽器編成は独奏ヴァイオリン、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、ティンパニです。
管理人は5歳からヴァイオリンを習っていました。メンデルスゾーン『ヴァイオリン協奏曲』第1楽章の演奏動画を載せましたので、良ければ冒頭だけでもお聴きください。管理人が独奏ヴァイオリンのパートを演奏し、ピアノ伴奏がその他のパートを演奏しています。
メンデルスゾーン年表
| 1809年2月3日(0歳) | ハンブルクのユダヤ人銀行家の息子として生まれる |
| 1811年(2歳) | 一家でベルリンへ移住 |
| 1819年(10歳) | ツェルターから音楽の指導を受け始める |
| 1821年(12歳) | 詩人ゲーテと出会う |
| 1826年(17歳) | 序曲『真夏の夜の夢』を作曲 |
| 1829年(20歳) | バッハ『マタイ受難曲』百年ぶりの復活公演、イギリス旅行 |
| 1830年(21歳) | イタリア旅行 |
| 1833年(24歳) | デュッセルドルフの音楽監督に就任 |
| 1835年(26歳) | ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督に就任 |
| 1837年(28歳) | セシル・ジャンルノーと結婚 |
| 1842年(33歳) | 『スコットランド交響曲』を作曲 |
| 1843年(34歳) | ライプツィヒ音楽院を設立、劇付随音楽『真夏の夜の夢』を作曲 |
| 1844年(35歳) | 『ヴァイオリン協奏曲』を作曲 |
| 1846年(37歳) | オラトリオ『エリヤ』を作曲 |
| 1847年11月4日(38歳) | 脳卒中のためライプツィヒで死去 |
