こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。
今回は、紀元前586年、ユダ王国を滅ぼした新バビロニア王国によって住民のヘブライ人がバビロンに強制移住させられた出来事について解説します。
統一ヘブライ王国は紀元前922年に南北分裂し、北のイスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は紀元前586年に新バビロニア王国に滅ぼされます。そのとき、ユダ王国の住民が新バビロニア王国の首都バビロンに強制移住させられてしまいます。これをバビロン捕囚といい、この頃からヘブライ人はユダヤ人と呼ばれるようになります。
民族的苦難の中で、ユダヤ人たちはユダヤ人としての民族意識を高め、ユダヤ教を成立させ、旧約聖書が書かれます。
この記事では、まず当時の世界とユダヤ人の時代背景を分かりやすく解説し、バビロン捕囚の詳細と歴史的意義について解説します。
バビロン捕囚の時代における世界の状況
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紀元前586年にバビロン捕囚が行われ、紀元前538年に解放されます。この期間は、オリエントの国際情勢が4国分立状態からアケメネス朝ペルシアの覇権確立へと移り変わっていった時期でした。
アッシリア帝国の崩壊後、オリエントにはエジプト、アナトリアのリディア、メソポタミアの新バビロニア、イラン高原のメディアの4つの王国が分立します。
イラン人がイラン高原に建国したメディアは紀元前550年にイラン系のペルシア人に倒され、ペルシア人はアケメネス朝ペルシアを建国します。アケメネス朝はリディア・新バビロニア・エジプトを征服して紀元前522年にオリエントを統一、さらに北西インドまで征服し、エーゲ海からインダス川までに至る大帝国を築きます。アケメネス朝は服属した異民族には寛容だったため、約200年近くも安定してオリエントを支配します。
ギリシアでは神ではなく市民が政治を動かす民主政が発展していき、中国は春秋時代の真っ只中で、周王は完全に実権を失って諸侯たちが半ば独立国家のように覇を競っていました。
このように、オリエントの国際情勢が4国分立状態からアケメネス朝ペルシアの覇権確立へと移り変わっていった時期が、バビロン捕囚が行われた当時の世界の状況です。アッシリア帝国には属国にされ、新バビロニアにはバビロン捕囚にされ、アケメネス朝ペルシアには捕囚から解放されるといったように、ユダヤ人の運命は時のオリエント覇権国家に左右されます。
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バビロン捕囚に至るまでの経緯

紀元前1021年に建国された統一ヘブライ王国は、紀元前922年に分裂します。北のイスラエル王国と南のユダ王国です。イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、住民は強制移住させられます。彼らのその後の行方は定かになっておらず、「失われた10部族」と呼ばれます。



南のユダ王国はほぼユダ族から構成される国で、部族同士の争いがなく王権が安定して長期間存続します。紀元前722 年にイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされたときもユダ王国はなんとか滅亡を免れ、アッシリアの属国として存続します。紀元前609年にアッシリアが滅亡すると、メソポタミアの新バビロニア王国とエジプトがユダ王国の支配を巡って争います。当初は新バビロニアに着きましたが、同紀元前609年のメギドの戦いでエジプトに敗れると、エジプトの属国となります。そして紀元前605年に今度はカルケミシュの戦いで新バビロニア王国がエジプトに勝利すると、また新バビロニア王国の属国となります。
バビロンという都市について


バビロンは、メソポタミア南部のバビロニア地方の中心都市でした。バグダッドの南方にあります。バビロンとは、「神の門」という意味です。
紀元前1900年にアムル人が建国したバビロン第1王朝の都として繁栄します。バビロン第1王朝滅亡後もカッシートの都となり、紀元前625年に建国された新バビロニア王国の都として再び繁栄します。紀元前538年からはアケメネス朝ペルシアの副都として引き続き繁栄しますが、紀元前331年にアレクサンドロス大王の支配下に入って以降はセレウキアやクテシフォンが各国の都となり、バビロンは衰退していきます。紀元前1770〜1670年頃と、紀元前612〜320年頃の2つの期間は、バビロンは世界最大の人口を擁する都市だったと言われています。
19世紀から、廃墟となっていたバビロン遺跡の発掘が行われ、20世紀にはイラク王国、その後のイラク共和国によって保護されます。1978年、サダム・フセイン大統領によってバビロンの復元事業が行われ、2019年に世界文化遺産に登録されました。

バビロン捕囚
第1回バビロン捕囚
ユダ王国第18代王ヨヤキムがエジプトの支援を期待して新バビロニアに対して反乱を起こすと、新バビロニアのネブカドネザル2世王が紀元前597年にエルサレムを占領します。このとき第1回目のバビロン捕囚が行われていますが、一般的にバビロン捕囚は第2回目の出来事を指します。ユダ王国は再び新バビロニアの属国となります。
第1回バビロン捕囚では、家長だけで3023人がバビロンに送られたとされています。この時は神殿を破壊せず、ユダ王国を属国とすることでエジプトとの緩衝地帯にしようとします。
第2回バビロン捕囚

第20代ゼデキヤ王が紀元前587年に再び新バビロニアに対して反乱を起こすと、ネブカドネザルは再びエルサレムを占領します。そして翌紀元前586年にエルサレム全体とソロモン王が築いたエルサレム神殿を破壊し、多数のヘブライ人が新バビロニアの都バビロンに連行されます。第2回バビロン捕囚です。一般的には、このときを「バビロン捕囚」と言います。このとき連行されたのは家長だけで832人とされています。こうして紀元前586年にユダ王国は滅亡し、紀元前922年のヘブライ王国分裂から300年以上続いた歴史に幕を下ろします。ヘブライ王国建国の紀元前1021年から数えると400年以上、ユダヤ人国家が存続していたのです。
バビロン捕囚の実態
「捕囚」というと拉致されて奴隷のような扱いのイメージがありますが、実態としては「移住」という言葉が近いようです。監禁されたり過酷な強制労働をさせられたということはなく、ユダヤ人たちには土地が割り当てられ、半自由民として自治的な生活を営むことができました。さらに、ユダヤ人たちは比較的まとまった形で住まわされたため、他の民族と混合して同化することなく、ユダヤ人としてまとまり続けることができます。バラバラにされたイスラエル王国のアッシリア捕囚との大きな違いです。また、首都バビロンに限らずバビロニア全体に移住させられており、「バビロニア捕囚」とも言われます。
このように、バビロン捕囚は決して過酷なものではなかったため、紀元前538年の解放後も自発的にバビロンに留まるユダヤ人もいます。
バビロン捕囚からの解放

アケメネス朝ペルシアの王キュロス2世は、紀元前539年に新バビロニアを破ってバビロンを占領します。そして翌紀元前538年、ユダヤ人のエルサレム帰還と神殿再建の許可を出します。バビロン捕囚の終わりです。ユダヤ人たちは続々とエルサレムに向かい、帰還します。エルサレムに戻ったユダヤ人たちはヤハウェ神殿を再建し、紀元前515年に完成します。ソロモン王が建てた神殿を「第1神殿」、このとき建てられた神殿を「第2神殿」と言います。

アケメネス朝ペルシアは、征服先の住民の協力を得るため、他民族や他宗教に寛容な政策を取ります。その結果、ペルシアは広大な領土を約200年にわたって支配することができました。ダヴィデ家の血を引いていたゼルバベルがパレスチナの総督に任命され、ユダヤ人は自治を認められながら、ユダヤ教を発展させていきます。
バビロン捕囚の歴史的意義
バビロン捕囚は過酷な苦難ではありませんでしたが、祖国を失って異国の地に送られ、神殿が破壊されたことはユダヤ人にとって大きな危機でした。捕囚の中で、ユダヤ教の核心部分である、ヤハウェ神に対する一神教信仰が確立します。ユダヤ人たちは、偶像崇拝を行ったり異教を取り入れたことに対する神からの罰として、イスラエル王国とユダ王国が滅亡したと考えていました。そのため、ユダヤ人が繁栄していた時代を取り戻すため、捕囚中に、信仰を守って実践するための律法を整備していき、皆で学ぶための集会所を作ります。シナゴーグの始まりです。こうして、一神教ユダヤ教の基礎が確立したのです。

また、捕囚されたユダヤ人の中には、バビロンに残る者もたくさんいました。その意味で、バビロン捕囚はユダヤ人の離散(ディアスポラ)の始まりとも言われています。