こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、第二次世界大戦直前の1935〜1939年頃、イギリスとフランスがナチスドイツの拡大をある程度容認する外交政策「宥和政策」を取った理由とその経緯について解説します。
ヒトラー率いるナチスドイツは、1935年再軍備宣言、1936年ラインラント進駐、1938年3月オーストリア併合、10月ズデーテン地方併合と、軍備拡張と領土拡大を続けます。これに対してイギリスとフランスは直接介入せず、ヒトラーの要求をある程度認めて戦争の回避に努めようとします。しかし、かえってヒトラーを増長させ、1939年の第二次世界大戦勃発につながってしまいます。
なぜイギリスとフランスは、ヴェルサイユ条約を破り公然と侵略を行うナチスドイツに対して譲歩してしまったのでしょうか。
この記事では、宥和政策を取った理由とその経緯について図を用いて解説します。
英仏がナチスドイツに対して宥和政策を取っていた頃の時代背景
1929年にアメリカから始まった世界恐慌は瞬く間にソ連を除く世界中に広がり、世界中が深刻な不況となってしまいます。広大な国土を持つアメリカ、植民地を多く持つイギリス・フランスは資源と市場が豊富なためブロック経済を構築して不況に対処しますが、ドイツ・イタリア・日本など植民地が少ない国は資源と市場を求め、対外進出を始めます。これらの国ではナショナリズムが強調され、国の利益が優先されて個人の人権や自由が制限される、ファシズムが台頭していきます。
ドイツ・イタリア・日本のファシズム諸国と共産主義を掲げるソ連による侵略が始まります。イギリス・フランスはドイツをソ連に対する防波堤とするため、ミュンヘン会談などの宥和政策を取って懐柔しようとします。しかし、逆に増長させてしまい、さらに侵略戦争がエスカレートしていきます。その後、もともと不倶戴天の敵であったドイツとソ連が不可侵条約を結びお互いの侵略戦争を認め合って背後の安全を確保します。ドイツはイギリス・フランスとの戦争に向かい、第二次世界大戦が勃発します。
第二次世界大戦の勃発前、ファシズム諸国とソ連の脅威が高まっていたのが、宥和政策が行われた当時の世界の状況です。
融和政策ではなく宥和政策!
宥和政策の「宥」は常用漢字ではないため、「融和政策」と表記されることがありますが、これは意味が変わってきます。「宥和」とは「対立する相手を寛大に扱って仲良くすること」、「融和」とは「打ち解けて互いに親しくなること」という意味です。「融和政策」だとヒトラーと協調して同盟国や友好国のような関係になることを指しますが、「宥和政策」は、あくまでヒトラーは敵としたうえで譲歩して表面上平和を維持するということです。
宥和政策を取った理由はソ連への対抗と戦争回避のため!
宥和政策を取った理由は主に2つ、ソ連への対抗と、戦争回避のためです。
当時のイギリスでは、1番の脅威は共産主義とソ連であると考えられていました。そのため、1933年に成立したヒトラーのナチスドイツ、1932年に満州国を建国した日本、1922年に成立したムッソリーニのファシスト=イタリアなどの反共を掲げる勢力の拡大に対して、ソ連を抑えるためにこれらを利用できると判断します。イギリスは、ドイツにソ連と戦ってほしい、そしてあわよくば共倒れになってほしい、と願い、ドイツの拡大をある程度認めたのです。
第一次世界大戦で多大な被害を受けたイギリスとフランスでは、戦争を回避したい世論が多数派を占めていました。もう二度と戦争はしたくないという思いが強く、戦争回避のためならドイツの拡大をある程度認めてもいいと考えます。
このようにして、イギリスとフランスはドイツの拡大をある程度容認する宥和政策を取ることにしたのです。
宥和政策の流れ
宥和政策の始まり!ドイツ再軍備宣言と英独海軍協定(1935年)
1935年3月16日、ヒトラーはドイツの再軍備を公に宣言します。水面下で準備が進んでいたため、宣言後は急速に発展します。徴兵制が復活して陸軍は一気に70万人に増加し、空軍も創設され、ワイマール共和国軍はドイツ国防軍と改称されます。
このようにして復活したドイツ軍は1936年のスペイン内戦への介入で初めて実践経験を積み、1939年からの第二次世界大戦までに急速に増強されます。
ドイツの再軍備宣言はヴェルサイユ条約違反であり、翌4月にイギリス・フランス・イタリアはストレーザ戦線を結成してドイツに抗議します。さらにフランスは5月にソ連と仏ソ相互援助条約を締結しますが、6月にイギリスがドイツと交渉して英独海軍協定を結んだことでこの共同戦線は崩壊します。結局各国はドイツに制裁を行うことはなく、ドイツの再軍備を容認することになります。
このときイギリスはフランスには無断で単独でドイツと交渉して英独海軍協定を結びました。これが宥和政策の始まりです。
ラインラント進駐の容認(1936年)
ドイツは、1936年3月7日、突然ラインラントの非武装地帯に軍隊を進駐させます。ラインラントはヴェルサイユ条約とロカルノ条約で非武装地帯とされており、ドイツ軍がそれを破って進駐すればフランス軍が反撃してくる可能性がありました。しかし、フランスをはじめ周辺国は反撃せず、ラインラント進駐は成功します。ヒトラーはフランスが反撃しないと予想し、賭けに出て大成功したのです。
フランスは実際にはドイツ軍より優れた軍備を持っていたものの、ドイツ軍の戦力を過大に見積もっており、フランス軍が反撃すれば再び長い戦争が起こると予想していました。第一次世界大戦で国土が戦場となり大きなダメージを負ったフランスでは戦争を避けたい考えが大きく、イギリスとともに宥和政策を取ってある程度はヒトラーの要求を容認する考えとなります。そのため、フランスはラインラント進駐に対して抗議はしたものの、軍による反撃は行いませんでした。イギリスはドイツ軍のラインラント進駐は問題であるとは考えていませんでした。イギリスも戦争を恐れており、ヒトラーの要求をある程度は容認する考えでした。
オーストリア併合(1938年3月)
1938年3月13日、ナチス・ドイツは隣国オーストリアを併合します。オーストリアはもともとドイツ人の国であったことから、イギリス・フランスはドイツによるオーストリア併合を問題であるとは考えておらず、容認します。
ミュンヘン会談(1938年9月)
容易くオーストリアを手に入れたヒトラーは、チェコスロバキアに目を付けます。チェコスロバキアには、ドイツ系住民が多く住むズデーテン地方という場所がありました。ズデーテン地方はチェコスロバキアでも有数の工業地帯であり、ズデーテン地方のドイツ人はドイツへの編入を望んでいました。しかし、当然チェコスロバキア政府は認めません。さらに、チェコスロバキアはフランス・ソ連と相互防衛援助条約を結んでいたため、もしドイツがチェコスロバキアに侵攻すれば、世界大戦が勃発する危険がありました。しかし、ヒトラーは英仏が参戦しないと読み、強気の態度でチェコスロバキア侵攻の準備を進めます。9月に入るとズデーテン地方のドイツ人が自治を求めてデモを行い、プラハで非常事態宣言が出されます。
この事態を憂慮したイギリス首相チェンバレンは、フランス首相ダラディエと共にヒトラーと会談して戦争を回避しようとします。チェンバレンとダラディエは、ドイツがチェコに侵攻すれば英仏が介入すると警告しますが、ヒトラーは強気の姿勢を崩さず、ズデーテン地方の即時併合を認めなければ侵攻すると宣言します。しかし同時に、ズデーテン併合でドイツの領土拡大を終わりにするとも宣言します。ヒトラーは、「これが最後の要求である」と言うことで、英仏に譲歩させる余地を作ろうとしたのです。もちろん、これで最後にするつもりなど微塵もありません。
こうして欧州戦争の危機が高まる中、1938年9月28日、イタリアのムッソリーニが仲介に入り、英仏独伊4ヵ国首脳による会談を提案します。ヒトラーは同意し、翌29日にドイツのミュンヘンで会談が行われます。これがミュンヘン会談です。ちなみにチェコスロバキア代表のマサリク駐英大使は会談には参加できず別室で待たされます。完全に蚊帳の外です。
会談の結果、翌30日にミュンヘン協定が成立します。「ズデーテン地方は即ドイツが併合する。その代わりドイツはこれ以上領土拡大せず、今後の対外政策は全てイギリスと話し合って決める。」といった内容です。これにチェコスロバキアも同意し、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決定します。チェコスロバキアは不満でしたが、英仏がドイツに譲歩した以上、単独でドイツの侵攻を防ぐことは不可能だと判断したのです。
このミュンヘン会談が宥和政策のピークとされています。
ミュンヘン協定を結びおえた英首相チェンバレンは、本国に戻ると熱狂的な歓迎を受けます。戦争の危機を回避し平和を守った英雄と見られたのです。チェンバレンは群衆に対し、「我々の時代の平和は守られた」と言ってヒトラー直筆署名入り文書を振りかざしてみせます。ヒトラーに騙されたとは知らず、すっかり英雄気分です。
チェコスロバキア解体(1939年3月)
「これが最後の要求である」と言ってズデーテン地方を獲得したヒトラーでしたが、最初から約束を守るつもりはありません。ヒトラーは、ミュンヘン会談の結果、強気な外交を行っても英仏が武力介入することはないと確信します。翌1939年3月15日にはチェコスロバキアを解体させ、チェコを併合、スロバキアを保護国化します。これに対して英首相チェンバレンはヒトラーを激しく非難しますが、開戦には踏み切りません。ミュンヘン会談によるヒトラーへの譲歩は完全に失敗となりますが、ソ連への対抗と戦争回避のため、それでもイギリスは宥和政策を続けます。
独ソ不可侵条約と第二次世界大戦勃発(1939年8〜9月)
チェコ併合に続いてリトアニアのメーメル地方も併合し、さらにドイツはポーランドに対してダンツィヒの併合とポーランド回廊の通行権を要求します。これに対してイギリスのチェンバレン首相はポーランド支援を表明します。そこでヒトラーはポーランド侵攻を計画するにあたって安全を確保するため、ソ連との提携に踏み切ります。
ソ連はチェコスロバキアと相互援助条約を締結していたのにも関わらず、ミュンヘン会談から除外され、ソ連が関与することなくミュンヘン協定が結ばれてズデーテン地方の割譲が決定してしまいます。ソ連は英仏よりもドイツを敵視していましたが、ミュンヘン会談での英仏の対応にソ連のスターリンは強く不信感を抱きます。英仏はドイツと組んでソ連を攻撃するつもりなのでは、とも考えます。その結果、ソ連はドイツに接近していき、翌1939年8月の独ソ不可侵条約締結へと繋がっていきます。
ドイツをソ連への防波堤とするための宥和政策が、ドイツとソ連が協力するというイギリスにとって最悪の結果につながってしまったのです。
これを見てイギリスはようやく宥和政策を続けることが困難だと悟り、8月25日にポーランドと相互援助条約を締結し、フランスもそれに倣います。しかし、ソ連と不可侵条約を結んで東方の安全を確保したヒトラーは英仏との開戦もやむなしと考えます。1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻します。これに対して9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発します。
ドイツ軍はポーランド軍を次々と撃破し、わずか2週間でポーランド西半分のほとんどを占領します。さらに9月17日、突如としてソ連軍がポーランドに侵攻します。ドイツとソ連という2つの大国に挟み撃ちにされたポーランドにもはや勝ち目はなく、9月28日にワルシャワが陥落してポーランドは降伏します。ポーランドの国土は分割され、西半分をドイツが、東半分をソ連が占領します。
奇妙な戦争(1939年9月〜1940年5月)
1939年9月3日にイギリスとフランスはドイツに宣戦布告しますが、積極的にドイツを攻撃することはありませんでした。独仏国境沿いでの両軍の睨み合いが続き、ほとんど陸上での戦闘行為がなかったため、「奇妙な戦争(ファニー・ウォー)」と呼ばれます。「まやかし戦争」「いかさま戦争」とも呼ばれます。ただし、海上では英仏海軍とドイツ海軍による活発な戦闘が発生します。
第二次世界大戦が勃発し、明確にドイツと交戦状態になったにも関わらず、イギリスとフランスは戦争に対して消極的でした。第一次世界大戦のような甚大な被害が再び発生することを恐れ、心底戦争が嫌になっていたのです。そのため、ポーランドとの相互援助条約にしたがって仕方なくドイツに宣戦布告したものの、ポーランドを救うためにドイツ領に侵攻することはなかったのです。ヒトラーもこれを見抜いており、フランスとの国境線の防御を薄くし、軍の大半をポーランド侵攻に向けます。このとき独仏国境線では英仏軍はドイツ軍に対して圧倒的優位であり、英仏軍が積極的にドイツ領に侵攻すればドイツ軍は崩壊間違いなしでした。英仏はドイツを止める最後のチャンスを棒に振ってしまったのです。
この奇妙な戦争は、準備が整ったドイツ軍が1940年5月にベネルクス3国とフランスに対して侵攻を始めたことで、終了します。
宥和政策の終わり(1940年5月)
宥和政策の失敗が原因で英首相チェンバレンは1940年5月、退陣に追い込まれます。後継は軍人出身のチャーチルが首相に就任し、挙国一致内閣が結成されます。チャーチルはもともと宥和政策を批判していて対独強硬派でした。チャーチルの首相就任によりイギリスの宥和政策は完全に終わり、ナチスに対して徹底抗戦して最終的に勝利することになります。
宥和政策がヒトラーを増長させ第二次世界大戦勃発の原因となった
このように、宥和政策はヒトラーを増長させ、第二次世界大戦勃発の原因となります。宥和政策によってドイツをソ連への防波堤にしようと画策するものの、独ソ不可侵条約によるドイツとソ連の提携という最悪の結果となってしまいます。戦争回避という目的も、最終的に準備の整ったドイツ軍に攻撃されてフランスが占領されるという最悪の結末になります。宥和政策は完全に失敗でした。英仏は第二次世界大戦を未然に防ぐ、もしくは小規模な戦争で終わらせることができる機会を何度も逃してしまいます。英仏が毅然とした態度を取って直接介入も辞さないという姿勢であれば、ヒトラーも領土拡大を思いとどまったかもしれません。だからこそ、侵略国家は早めに介入して潰しておくほうが、かえって平和を維持できるのです。
これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。