【ドイツ再軍備宣言】ヴェルサイユ条約への挑戦!ヒトラーが徴兵制を復活させた出来事を解説!

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!

今回は、第二次世界大戦勃発から4年前の1935年3月16日、ヒトラーがヴェルサイユ条約によるドイツの軍備制限を破棄して再軍備を宣言し、徴兵制を復活させた出来事について解説します。

1933年にヒトラー政権が誕生してから2年後の1935年、再軍備と徴兵制の復活が公に宣言されます。実は1920年代から水面下で着々と準備を進めていたのですが、対外的に宣言したのがこのタイミングになります。

この記事では、ドイツ再軍備宣言の内容と経緯、その影響について解説します。

目次

ドイツ再軍備宣言の頃の時代背景

1929年にアメリカから始まった世界恐慌は瞬く間にソ連を除く世界中に広がり、世界中が深刻な不況となってしまいます。広大な国土を持つアメリカ、植民地を多く持つイギリス・フランスは資源と市場が豊富なためブロック経済を構築して不況に対処しますが、ドイツ・イタリア・日本など植民地が少ない国は資源と市場を求め、対外進出を始めます。これらの国ではナショナリズムが強調され、国の利益が優先されて個人の人権や自由が制限される、ファシズムが台頭していきます。

第二次世界大戦勃発の4年前、世界恐慌による不況からファシズム諸国の台頭し始めたのが、ドイツ再軍備宣言が行われた当時の世界の状況です。

ヴェルサイユ条約による軍備制限

1919年6月28日ヴェルサイユ条約調印(出典:wikipedia)

1914〜1918年まで続いた第一次世界大戦で敗戦したドイツは、1919年に結ばれた講和条約であるヴェルサイユ条約で領土削減に軍備制限、多額の賠償金を課せられますが、軍備制限の内容は以下の通りです。

陸軍10万人、海軍1万6500人、空軍禁止、徴兵制廃止、戦車保有禁止、潜水艦禁止

軍備制限により多くの軍人が職を失います。彼らはヴェルサイユ体制への反発を強め、多くがナチスなどの右翼団体に入ります。

水面下での軍備増強

過酷な軍備制限を課されたドイツ共和国(ワイマール共和国)でしたが、密かに水面下で軍備増強を進めます。ドイツ国内では国際連盟による監視がなされていたため、国際連盟の監視が届かない場所で軍備増強を行います。その場所とは、ソ連です。ドイツとソ連は1922年にラパロ条約を結び、極秘に共同で軍備増強を行います。世界から嫌われていた共産主義国家ソ連と敗戦国ドイツが、お互いの利害が一致して手を結んだのです。両国はソ連奥地のカザンとリペツクに戦車学校、航空機工場などを設け、兵器の研究や将校の教育を行います。ドイツは1935年の再軍備宣言から軍備増強を始めたのではなく、ナチスが政権を獲得する遥か前の1920年代から周到に準備を進めていたのです。

ドイツ再軍備宣言!

1939年ワルシャワでの戦勝パレードをするドイツ国防軍(出典:wikipedia)

1935年3月16日、ヒトラーはドイツの再軍備を公に宣言します。水面下で準備が進んでいたため、宣言後は急速に発展します。徴兵制が復活して陸軍は一気に70万人に増加し、空軍も創設され、ワイマール共和国軍はドイツ国防軍と改称されます。

このようにして復活したドイツ軍は1936年のスペイン内戦への介入で初めて実践経験を積み、1939年からの第二次世界大戦までに急速に増強されます。

各国の反応と国内での影響

人物画像出典:wikipedia

ドイツの再軍備宣言はヴェルサイユ条約違反であり、翌4月にイギリス・フランス・イタリアはストレーザ戦線を結成してドイツに抗議します。さらにフランスは5月にソ連と仏ソ相互援助条約を締結しますが、6月にイギリスがドイツと交渉して英独海軍協定を結び、10月にイタリアがエチオピア侵攻を行ったことでこの共同戦線は崩壊します。結局各国はドイツに制裁を行うことはなく、ドイツの再軍備を容認することになります。

ドイツ国内では職を失っていた軍人が軍に復帰することができたため歓迎されます。さらに急速な軍備拡大は軍需産業の成長をもたらし、世界恐慌による不況からの経済復興が進むことになります。

これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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