こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、第二次世界大戦勃発から4年前の1935年1月13日、ヴェルサイユ条約により国際連盟管理下に置かれていたザール地方が住民投票によりドイツ領に編入された出来事について解説します。
なぜこのタイミングでザール地方の帰属を決める住民投票が行われ、ドイツ領に編入されたのでしょうか。
この記事では、ザール編入の内容と経緯について図を用いて解説します。
ザール編入の頃の時代背景
1929年にアメリカから始まった世界恐慌は瞬く間にソ連を除く世界中に広がり、世界中が深刻な不況となってしまいます。広大な国土を持つアメリカ、植民地を多く持つイギリス・フランスは資源と市場が豊富なためブロック経済を構築して不況に対処しますが、ドイツ・イタリア・日本など植民地が少ない国は資源と市場を求め、対外進出を始めます。これらの国ではナショナリズムが強調され、国の利益が優先されて個人の人権や自由が制限される、ファシズムが台頭していきます。
第二次世界大戦勃発の4年前、世界恐慌による不況からファシズム諸国の台頭し始めたのが、ザール編入が行われた当時の世界の状況です。
ザール地方ってどこ?
ザール地方とは、ドイツ西部にありフランス・ルクセンブルクとの国境地帯です。ザール地方は良質な石炭を多く埋蔵するザール炭田がある工業地帯だったため、18世紀以降はドイツ・フランスの間で領有を巡って争われてきました。人口の90%をドイツ人が占めていましたが、フランスは何度もザール地方のドイツからの分離を画策します。
国際連盟の管理下となっていたザール地方
1914〜1918年まで続いた第一次世界大戦で敗戦したドイツは、1919年に結ばれた講和条約であるヴェルサイユ条約で領土削減に軍備制限、多額の賠償金を課せられますが、さらにフランスとの国境地帯であるザール地方が15年間国際連盟の管理下に置かれ、ザール炭田の採掘権がフランスに認められます。15年の管理期間のあとは帰属を決定する住民投票が行われることとなっていました。そこでフランスはザール地方のフランス領編入を目論み、フランス語学校や通貨フランの導入などの同化政策を行います。
住民投票によりドイツ領に編入
1933年にドイツでヒトラー率いるナチスが政権を獲得すると、多くの反ナチス派のドイツ人がザール地方に逃げ込み、国際連盟の管理下に引き続き置いてもらうことを要求します。しかし、多くの住民はドイツへの復帰を願っていました。15年の管理期間が満了した後の1935年1月13日に住民投票が行われます。投票率は98%でした。そのうちドイツ帰属が90.73%、フランス帰属が0.4%、現状維持が8.86%でした。この結果、圧倒的多数の支持によりドイツ領に復帰します。フランスの必死の活動も虚しく約9割の住民がドイツ復帰を望み、残りの反ナチス派の人々もフランス帰属ではなくあくまでナチス政権の間は国際連盟の管理下に置かれることを望んでいたので、フランスへの編入は夢のまた夢だったことが分かります。
第二次世界大戦後のザール問題
第二次世界大戦後、フランスはなおもザール地方のドイツからの分離を画策し、欧州共同管理を提案します。しかし、1955年に行われた住民投票の結果、67%が欧州共同管理に反対してドイツ領への復帰が決定されます。現在もザールはドイツ領となっています。
ザール編入はヒトラー最初の領土拡張成功!
ザール編入は住民投票という合法的手段で行われ、オーストリア併合とは異なりナチスによる圧力で強制されたものでもなく、完全に平和的に行われたものでした。しかし、ヒトラーにとってザール編入は初めての領土拡張の成功であり、住民の9割以上からナチス支配下のドイツ領への編入を望まれたことで、大きな自信を得たことでしょう。
これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。