こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、第二次世界大戦直前の1936年3月7日、ドイツがヴェルサイユ条約で非武装地帯とされたラインラントに軍隊を進駐させた出来事について解説します。
1935年に再軍備宣言をして軍備拡張を始めたヒトラー率いるナチス・ドイツは、1936年3月7日、突然ラインラントの非武装地帯に軍隊を進駐させます。ラインラントはヴェルサイユ条約とロカルノ条約で非武装地帯とされており、ドイツ軍がそれを破って進駐すればフランス軍が反撃してくる可能性がありました。しかし、フランスをはじめ周辺国は反撃せず、ラインラント進駐は成功します。ヒトラーはフランスが反撃しないと予想し、賭けに出て大成功したのです。
なぜこのときフランスは反撃せず、ラインラント進駐は成功したのでしょうか。
この記事では、ラインラント進駐の内容と経緯について図を用いて解説します。
ラインラント進駐の頃の時代背景
1929年にアメリカから始まった世界恐慌は瞬く間にソ連を除く世界中に広がり、世界中が深刻な不況となってしまいます。広大な国土を持つアメリカ、植民地を多く持つイギリス・フランスは資源と市場が豊富なためブロック経済を構築して不況に対処しますが、ドイツ・イタリア・日本など植民地が少ない国は資源と市場を求め、対外進出を始めます。これらの国ではナショナリズムが強調され、国の利益が優先されて個人の人権や自由が制限される、ファシズムが台頭していきます。
ドイツ・イタリア・日本のファシズム諸国と共産主義を掲げるソ連による侵略が始まります。イギリス・フランスはドイツをソ連に対する防波堤とするため、ミュンヘン会談などの宥和政策を取って懐柔しようとします。しかし、逆に増長させてしまい、さらに侵略戦争がエスカレートしていきます。その後、もともと不倶戴天の敵であったドイツとソ連が不可侵条約を結びお互いの侵略戦争を認め合って背後の安全を確保します。ドイツはイギリス・フランスとの戦争に向かい、第二次世界大戦が勃発します。
第二次世界大戦の勃発前、ファシズム諸国の台頭に対して、共産主義に対する防波堤の役割を期待した英仏が宥和政策を取っていたのが、ラインラント進駐が行われた当時の世界の状況です。
ラインラントってどこ?
ラインラントとは、ライン川中流域の両岸地帯で、ヨーロッパの経済・産業の中心地です。ヨーロッパ最大の工業地域であるルール工業地帯に隣接しています。ラインラントでは古くからケルンやマインツなどの都市が栄えていました。ドイツにとっても経済・産業の中心地であり、最も先進的で重要な地域です。しかし、ラインラントはドイツ西端に位置するため、たびたびフランスの侵攻を受けてきました。ルイ14世やナポレオンにより一部の地域が占領されたこともあります。
ラインラント進駐までの動き
ヴェルサイユ条約によりラインラントが非武装地帯となる
1914〜1918年まで続いた第一次世界大戦で敗戦したドイツは、1919年に結ばれた講和条約であるヴェルサイユ条約で領土削減に軍備制限、多額の賠償金を課せられますが、さらにフランスとの国境地帯であるラインラントが非武装地帯とされます。この地域にドイツが軍隊を置くことが禁止されてしまったのです。加えて、ラインラントのうちライン川西岸地域は1935年まで連合国軍が保障占領することになります。大戦後のヨーロッパでは国際協調の機運が高まる中、1925年にロカルノ条約が締結されて西ヨーロッパの現状維持と安全保障が規定され、ドイツの国際連盟加盟が実現します。その後、イギリスのヘンダーソン外相の提案により、1930年までに連合国軍がライン川西岸から撤兵します。しかし、ラインラントが非武装地帯であることは変わらず、軍事力の空白地帯となっていました。
1936年頃の国際関係
1935年3月のドイツの再軍備宣言により、警戒したフランスとソ連が接近して5月に仏ソ相互援助条約が結ばれます。ドイツは孤立しますが、6月にイギリスとの交渉が成立して英独海軍協定が結ばれます。イギリスによる宥和政策の始まりです。そんな中、1935年10月にムッソリーニ率いるイタリアがエチオピアに侵攻します。イギリス・フランスは経済制裁を行いますが、武力制裁は行いませんでした。これを見たドイツのヒトラーは、強気な外交をしても英仏は直接介入してこないと判断し、ラインラント進駐という強気の賭けに出ます。
ラインラント進駐の実行〜ヒトラー人生最大の賭け〜
1936年3月7日早朝、ドイツ軍はラインラント非武装地帯に入り、午前中のうちにライン川東岸に到達します。そのうち一部の部隊はライン川を渡り、ライン川西岸に入ります。このときのドイツ軍の軍備は貧弱で、ライン川西岸に入った部隊はフランス軍の反撃があればすぐに撤収することになっていました。しかし、フランス軍の反撃はなく、ラインラント進駐は成功に終わります。ヒトラーはラインラント進駐の理由を、仏ソ相互援助条約締結だと主張します。これはロカルノ条約違反のため、ヒトラーはそれを理由にロカルノ条約の破棄を宣言します。
ラインラント進駐はあっけなく成功しますが、ヒトラーは緊張と不安でドキドキしながらフランスとイギリスの反応を見守っていました。のちにヒトラーは、このラインラント進駐後の48時間が人生で1番不安なときだったと語っています。
ラインラント進駐の影響とその後の動き
反撃せずラインラント進駐を容認した英仏
フランスは実際にはドイツ軍より優れた軍備を持っていたものの、ドイツ軍の戦力を過大に見積もっており、フランス軍が反撃すれば再び長い戦争が起こると予想していました。第一次世界大戦で国土が戦場となり大きなダメージを負ったフランスでは戦争を避けたい考えが大きく、イギリスとともに宥和政策を取ってある程度はヒトラーの要求を容認する考えとなります。そのため、フランスはラインラント進駐に対して抗議はしたものの、軍による反撃は行いませんでした。
イギリスは1935年に英独海軍協定を結んで宥和政策を取っており、ドイツ軍のラインラント進駐は問題であるとは考えていませんでした。イギリスも戦争を恐れており、ヒトラーの要求をある程度は容認する考えでした。
ヴェルサイユ体制の終わり
ヴェルサイユ条約とロカルノ条約によって定められたラインラント非武装が破られたことは、両体制の終わりを意味します。ラインラント進駐によって、ヴェルサイユ体制とロカルノ体制によるヨーロッパの国際秩序は崩壊します。
ヒトラー神話の誕生と領土拡大の始まり
ラインラント進駐という大きな賭けの成功は、ヒトラーに神がかり的な力があると錯覚させるのに十分すぎるほどの成功でした。ドイツ国民はヒトラーを崇拝するようになり、ドイツ国内でのヒトラーの権力は揺るぎないものとなります。そして自信を持ったヒトラーは同年1936年のスペイン内戦への介入、1938年のオーストリア併合、ズデーテン併合と領土拡大を続けていきます。
ラインラント進駐に対してフランスが反撃していれば第二次世界大戦は起こらなかった
この時点でフランス軍の戦力はドイツ軍に対して優位であり、フランス軍の反撃があればドイツ軍はすぐに撤収する予定だったことから、もしフランス軍が反撃していればラインラント進駐は失敗に終わったでしょう。ラインラント進駐が失敗するとヒトラーの威信は地に堕ち、すぐに失脚しただろうとドイツ国防軍幹部も語っています。そうなればドイツはこれ以上拡大することができず、第二次世界大戦までエスカレートすることはなかったでしょう。だからこそ、侵略国家は早めに介入して潰しておくほうが、かえって平和を維持できるのです。
これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。