こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、第二次世界大戦直前の1938年9月29〜30日、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの4ヵ国が参加した「ミュンヘン会談」と、そこで結ばれた「ミュンヘン協定」について解説します。
軍備拡張と領土拡大を続けるヒトラー率いるナチス・ドイツは、隣国チェコスロバキアの一部であるズデーテン地方をドイツ領にするよう要求します。戦争回避のため、イギリス・フランスが仲介に入り、さらにイタリアも交えて4ヵ国首脳で会談した結果、「ズデーテン地方を割譲する代わりにドイツはこれ以上領土拡大しない」ことで協定が成立します。
しかし、その後ヒトラーは約束を破り、翌1939年3月、チェコスロバキアを解体してチェコを併合、スロバキアを保護国とします。
なぜ英仏は宥和政策を取ってドイツの拡大を黙認したのでしょうか。
この記事では、ミュンヘン会談/協定の内容と経緯について図を用いて解説します。
ミュンヘン会談/協定の頃の時代背景
1929年にアメリカから始まった世界恐慌は瞬く間にソ連を除く世界中に広がり、世界中が深刻な不況となってしまいます。広大な国土を持つアメリカ、植民地を多く持つイギリス・フランスは資源と市場が豊富なためブロック経済を構築して不況に対処しますが、ドイツ・イタリア・日本など植民地が少ない国は資源と市場を求め、対外進出を始めます。これらの国ではナショナリズムが強調され、国の利益が優先されて個人の人権や自由が制限される、ファシズムが台頭していきます。
ドイツ・イタリア・日本のファシズム諸国と共産主義を掲げるソ連による侵略が始まります。イギリス・フランスはドイツをソ連に対する防波堤とするため、ミュンヘン会談などの宥和政策を取って懐柔しようとします。しかし、逆に増長させてしまい、さらに侵略戦争がエスカレートしていきます。その後、もともと不倶戴天の敵であったドイツとソ連が不可侵条約を結びお互いの侵略戦争を認め合って背後の安全を確保します。ドイツはイギリス・フランスとの戦争に向かい、第二次世界大戦が勃発します。
第二次世界大戦の勃発前、ファシズム諸国の台頭に対して、共産主義に対する防波堤の役割を期待した英仏が宥和政策を取っていたのが、ミュンヘン会談が行われた当時の世界の状況です。
ミュンヘン会談/協定に至るまでの動き
オーストリア併合までの歴史(1919年〜1938年3月)
第一次世界大戦で敗戦したドイツは、ヴェルサイユ条約により、領土の一部と植民地の全てを失い、多額の賠償金を課せられていました。1929年からの世界恐慌でも最もダメージを受け、ドイツ経済は深刻な不況となります。そんな中、ドイツに多額の賠償金を課すヴェルサイユ体制への不満が高まります。すると、ヴェルサイユ体制の打倒を目指す、ヒトラー率いるナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)が国民の支持を集め、1933年に政権を獲得します。
ヒトラーは1935年から領土拡大を始めます。1935年1月に国際連盟管理下にあったザール地方をドイツ領に編入、3月にヴェルサイユ条約を破棄して再軍備を宣言し、5月に徴兵制を復活させます。1936年3月7日にはラインラント進駐を成功させ、7月にスペイン内戦が勃発するとイタリアと共にフランコを支援します。ここでソ連は人民戦線を支援しますが、共産主義を嫌う米英仏は不干渉政策を取ります。これがきっかけでドイツとイタリアは接近し、10月にベルリン=ローマ枢軸が成立します。そして11月には日本と日独防共協定を結び、1937年11月6日にはイタリアも参加して日独伊防共協定となります。ソ連包囲網の形成です。
1938年3月12日にドイツはオーストリアを併合します。ドイツ人国家のオーストリアはヒトラーを歓迎します。第一次世界大戦後に結ばれたヴェルサイユ条約・サン=ジェルマン条約ではドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)は禁止されていましたが、英仏はこれを黙認します。
1938年の国際関係
このように、のちに連合国を形成したアメリカ・イギリス・フランスなどの資本主義諸国とソ連は最初から協力していたわけではなく、むしろ敵対関係にありました。資本主義(アメリカ・イギリス・フランス・中華民国など)、ファシズム(ドイツ・イタリア・日本など)、共産主義(ソ連)の3つの陣営があり、互いに協力・敵対を繰り返す三つ巴の国際関係であったことが重要です。
そして1938年当時、資本主義陣営はファシズムよりも共産主義を危険視していました。特に英仏はドイツに共産主義に対する防波堤の役割を期待していました。共産主義の拡大を恐れる英仏は、防共を掲げるドイツ・イタリアにソ連と戦ってもらおう、あわよくば共倒れになってほしい、という思惑があったのです。だからこそ、ドイツによるザール編入・再軍備宣言・ラインラント進駐・オーストリア併合を黙認したのです。
ズデーテン地方の領土要求
容易くオーストリアを手に入れたヒトラーは、チェコスロバキアに目を付けます。チェコスロバキアには、ドイツ系住民が多く住むズデーテン地方という場所がありました。ズデーテン地方はチェコスロバキアでも有数の工業地帯であり、ズデーテン地方のドイツ人はドイツへの編入を望んでいました。しかし、当然チェコスロバキア政府は認めません。さらに、チェコスロバキアはフランス・ソ連と相互防衛援助条約を結んでいたため、もしドイツがチェコスロバキアに侵攻すれば、世界大戦が勃発する危険がありました。しかし、ヒトラーは英仏が参戦しないと読み、強気の態度でチェコスロバキア侵攻の準備を進めます。9月に入るとズデーテン地方のドイツ人が自治を求めてデモを行い、プラハで非常事態宣言が出されます。
この事態を憂慮したイギリス首相チェンバレンは、フランス首相ダラディエと共にヒトラーと会談して戦争を回避しようとします。チェンバレンとダラディエは、ドイツがチェコに侵攻すれば英仏が介入すると警告しますが、ヒトラーは強気の姿勢を崩さず、ズデーテン地方の即時併合を認めなければ侵攻すると宣言します。しかし同時に、ズデーテン併合でドイツの領土拡大を終わりにするとも宣言します。ヒトラーは、「これが最後の要求である」と言うことで、英仏に譲歩させる余地を作ろうとしたのです。もちろん、これで最後にするつもりなど微塵もありません。
ミュンヘン会談の開催とミュンヘン協定の締結
こうして欧州戦争の危機が高まる中、1938年9月28日、イタリアのムッソリーニが仲介に入り、英仏独伊4ヵ国首脳による会談を提案します。ヒトラーは同意し、翌29日にドイツのミュンヘンで会談が行われます。これがミュンヘン会談です。ちなみにチェコスロバキア代表のマサリク駐英大使は会談には参加できず別室で待たされます。完全に蚊帳の外です。
会談の結果、翌30日にミュンヘン協定が成立します。「ズデーテン地方は即ドイツが併合する。その代わりドイツはこれ以上領土拡大せず、今後の対外政策は全てイギリスと話し合って決める。」といった内容です。これにチェコスロバキアも同意し、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決定します。チェコスロバキアは不満でしたが、英仏がドイツに譲歩した以上、単独でドイツの侵攻を防ぐことは不可能だと判断したのです。
イギリス・フランスがドイツに譲歩した理由は、ソ連への対抗のためです。ナチスドイツは反共を掲げており、共産主義を敵視していました。イギリス・フランスも共産主義を危険視していたため、ドイツにソ連と戦ってほしい、そしてあわよくば共倒れになってほしい、と願い、宥和政策によってドイツの拡大をある程度認めることにします。そのために小国チェコスロバキアを犠牲にしたのです。
ミュンヘン会談/協定後の動き
平和を守った英雄?となった英首相チェンバレン
ミュンヘン協定を結びおえた英首相チェンバレンは、本国に戻ると熱狂的な歓迎を受けます。戦争の危機を回避し平和を守った英雄と見られたのです。チェンバレンは群衆に対し、「我々の時代の平和は守られた」と言ってヒトラー直筆署名入り文書を振りかざしてみせます。ヒトラーに騙されたとは知らず、すっかり英雄気分です。翌1939年3月のドイツによるチェコ併合で約束が破られたときはヒトラーを激しく非難しますが、それでも開戦することはなく、ドイツへの宥和政策は続きます。1939年8月に独ソ不可侵条約が締結されて9月にドイツがポーランドに侵攻すると、さすがに容認できず、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まります。しかし、英仏軍はドイツに侵攻することはなく、「奇妙な戦争」と呼ばれる非交戦状態が長く続きます。こうして、1940年5月の退陣までチェンバレンの弱腰な宥和政策が続きます。
英仏への不信感が強まるスターリン
ソ連はチェコスロバキアと相互援助条約を締結していたのにも関わらず、ミュンヘン会談から除外され、ソ連が関与することなくミュンヘン協定が結ばれてズデーテン地方の割譲が決定してしまいます。ソ連は英仏よりもドイツを敵視していましたが、このミュンヘン会談での英仏の対応にソ連のスターリンは強く不信感を抱きます。英仏はドイツと組んでソ連を攻撃するつもりなのでは、とも考えます。その結果、ソ連はドイツに接近していき、翌1939年8月の独ソ不可侵条約締結へと繋がっていきます。
約束を破り領土拡大を続けるヒトラー
「これが最後の要求である」と言ってズデーテン地方を獲得したヒトラーでしたが、最初から約束を守るつもりはありません。ヒトラーは、ミュンヘン会談の結果、強気な外交を行っても英仏が武力介入することはないと確信します。翌1939年3月15日にはチェコスロバキアを解体させ、チェコを併合、スロバキアを保護国化します。これに対して英首相チェンバレンはヒトラーを激しく非難しますが、開戦してくることはありません。イギリスの宥和政策が続くと考えたヒトラーは、ポーランドに対してダンツィヒ自由都市の割譲を求めたり、リトアニアのメーメルを併合したりと、ますます強気になって領土拡大を続けます。
ミュンヘン会談/協定が第二次世界大戦勃発の原因となった
ミュンヘン会談をはじめとする宥和政策は、ヒトラーを増長させ、結果的に大戦争を招いてしまいます。1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、英仏がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まります。もし英仏が強気の態度で開戦も辞さないという姿勢だった場合、ヒトラーは思いとどまってここで領土拡大は止まったかもしれません。まだ戦争の準備が整っていないドイツがこの段階で開戦するのは不利だったためです。また、ドイツがポーランド侵攻に踏み切ったのは独ソ不可侵条約を締結して東側の安全を確保できたことが大きく、独ソが接近する原因となったのは、ミュンヘン会談の結果スターリンが英仏に対して不信感を抱いたためです。だからこそ、侵略国家は早めに介入して潰しておくほうが、かえって平和を維持できるのです。
これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。