【時代解説:3世紀(201〜300年)】ユーラシア東西で巨大帝国が衰退した頃の世界史を解説!

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!

今回は、3世紀の、ユーラシア東西で巨大帝国が衰退した頃の世界史を解説します。

西ではローマ帝国が外敵の侵入や国内の混乱によって弱体化し、東では後漢が滅びて三国時代となり、西晋が再び統一します。

この記事では、そんな3世紀はどんな世界だったのか、分かりやすく解説します。

目次

3世紀はどんな世界だったのか

ヨーロッパ・地中海地域

3世紀のローマ帝国は「3世紀の危機」と呼ばれ、外敵の侵入や国内の混乱によって弱体化していきます。2世紀末頃から北方のゲルマン人の侵入や東方のパルティア・ササン朝ペルシアとの戦争が激しくなり、国内では疫病が流行したり、帝位をめぐる争いが激化したりと、混乱していきます。3世紀中頃には、各地の軍団の中から短期間に多数の軍人が皇帝に即位しては殺害されるという軍人皇帝の時代となり、ローマ帝国は分裂の危機に陥ります。

この混乱を収束させたのが、284年に即位したディオクレティアヌス帝です。広大すぎる帝国を4つに分けて統治するテトラルキア(四帝分治制)を始め、これまでの元老院と皇帝が協力して統治する元首政という仕組みから、皇帝が一元的に統治する専制君主政に切り替えたことで、ひとまず各地の混乱は収まり、帝国はいったん安定を取り戻します。

東アジア

前漢・後漢と約400年にわたって続き繁栄をもたらした漢帝国も、2世紀末から外敵の侵入や国内の混乱によって急速に弱体化していきます。匈奴や鮮卑といった周辺諸民族との抗争が激化し、国内では宦官と外戚の争いや黄巾の乱などによって後漢王朝の権力が衰退する一方で、各地の豪族が力を増していき、3世紀には「三国志」で有名な群雄割拠の時代となり、220年に魏の曹丕から禅譲を迫られ、後漢は滅亡します。

三国時代には魏・呉・蜀の三国が分立し、この頃に倭(日本)の邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使節を送ります。魏は263年に蜀を滅ぼしますが、265年に家臣の司馬炎が帝位を奪い、魏に代わって晋が建国されます。晋は280年に呉を滅ぼして中国を再統一しますが、わずか10年後の290年から起こった八王の乱によって晋は内乱状態となります。

インド

クシャーナ朝は3世紀にササン朝ペルシアに滅ぼされ、サータヴァーハナ朝も3世紀に地方勢力の独立によって滅亡します。

その他の地域

イランでは、224年にササン朝ペルシアがパルティアを滅ぼし、東方のクシャーナ朝も滅ぼして勢力を拡大し、西のローマ帝国と激しく争います。

3世紀はユーラシア東西で巨大帝国が衰退した時代

このように、3世紀は、ユーラシア東西で巨大帝国が衰退した時代でした。西のローマ帝国は「3世紀の危機」と呼ばれ、外敵の侵入や国内の混乱によって弱体化し、東の後漢は滅亡して三国時代となります。

これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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