こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、歴史的地名の1つ、「ワラキア」について解説します。現在のルーマニア南部地域であり、ルーマニアの主要部です。
みなさんは、「ワラキア」という地名を聞いたことがあるでしょうか。ほとんどの人は知らないと思います。
この記事では、歴史的地名の1つ、「ワラキア」について徹底的に解説します。
ワラキアの位置
上の図のオレンジ色の範囲がワラキアです。現在のルーマニア南部であり、首都ブカレストを含むルーマニアの主要地域です。
ワラキアの地理
ワラキアは、カルパティア山脈とドナウ川に挟まれた地域です。そして中央をオルト川が通り、ワラキアを東西に分けています。オルト川の西側がオルテニア、東側がムンテニアです。
ワラキアは亜寒帯湿潤気候に属しており、大部分がDfb気候、南西部と南東部の一部地域がDfa気候となっています。
ワラキアの歴史
古代〜ローマ帝国とゲルマン人の影響〜(2〜4世紀)
ワラキア地域には、紀元前からトラキア系のダキア人が王国を作り、ローマ帝国と対峙していましたが、106年にローマ帝国に滅ぼされます。ダキア人が住んでいた地域のうち、モルダヴィアは属州とはなりませんでしたが、ワラキアとトランシルヴァニアはローマ帝国の属州ダキアとなります。271年にローマ帝国はダキアから撤退しますが、この短期間のローマ支配の間に、ローマ文化とキリスト教が伝播します。
4世紀になると「ゲルマン民族の大移動」によってゲルマン系のゴート族がワラキアに定住し、支配します。ゴート族の間でもローマ文化とキリスト教が広まっていたため、ゴート族の支配下でもローマ文化とキリスト教の普及が進みます。
中世①〜東ローマ帝国・ブルガリア・ハンガリーの影響〜(5〜13世紀)
東ローマ帝国がワラキアを支配することはありませんでしたが、ドナウ川南岸を支配したことにより、北岸のワラキアにも5〜6世紀にかけて影響を及ぼします。
6〜7世紀にかけてスラヴ人がワラキアに移動して定住し、681年に第一次ブルガリア帝国が成立すると、ワラキアはその支配下となります。ブルガリアによる支配は10世紀まで続き、その後は諸勢力が入り乱れますが、主にブルガリアとハンガリーの係争地となります。
中世②〜ワラキア公国の成立〜(14世紀)
13世紀からハンガリーによる支配が続きますが、モンゴルの侵攻などでハンガリーが弱体化すると、ルーマニア人の豪族バサラブ1世が他の豪族たちをまとめ上げ、ハンガリーを破って1330年にワラキア公国を建国します。
オスマン帝国の支配下(15〜18世紀)
独立後のワラキア公国はトランシルヴァニアの領有をめぐってハンガリーとたびたび争いますが、14世紀末になるとバルカン半島を北上してきたオスマン帝国の脅威にさらされます。ワラキア公国ははじめ抵抗しますが、1417年にオスマン帝国の宗主権を受け入れます。直轄領とはならずに自治を認められ、オスマン帝国支配下の従属国として、ワラキア公国が存続します。ルーマニア人貴族の勢力も残され、貴族の中で選挙によってワラキア公が選ばれるという体制が続きます。
とはいえ、ワラキア公国はずっとオスマン帝国に従順だったわけではなく、15世紀後半にはワラキア公ヴラッド・ツェペシュがオスマン帝国に激しく抵抗します。1462年にはオスマン軍に夜襲をしかけて大勝利するなど、一時的にオスマン帝国を退けますが、最後は刺客に殺され、ワラキア公国とオスマン帝国は和睦を結びました。
その後、約300年以上にわたり、ワラキア公国はオスマン帝国の支配下となりました。
ロシアの支配下(19世紀前半)
18世紀に入ると、オスマン帝国の衰退とロシア帝国の拡大によってロシア帝国の影響が強まり、18世紀から19世紀の間はロシア帝国に占領されたり、オスマン帝国が奪い返したりと、両国の係争地となります。
1828年から1829年の露土戦争でロシアが勝利すると、ワラキアとモルダヴィアはロシアの保護国となりますが、1853年のクリミア戦争でロシアが敗れると、再びオスマン帝国内の自治公国に戻ります。
ルーマニア統一後(19世紀後半〜)
1848年革命によるヨーロッパ全体での「諸国民の春」の動きの影響で、同じルーマニア人国家であるモルダヴィア(西モルダヴィア)との統一と完全独立を求める運動が強まります。
1859年にはモルダヴィアとの統一が果たされてルーマニア公国となり、ルーマニア人国家が1つにまとまります。首都はワラキア公国中央のブカレストであり、ワラキアがルーマニア公国の主要部となります。さらに1878年の露土戦争がロシアの勝利に終わると、ルーマニア公国はオスマン帝国から完全独立し、ルーマニア王国となります。この頃、黒海沿岸地域のドブロジャ北部も併合します。ドブロジャの南部はブルガリア領となります。
1917年のロシア革命によってロシア帝国が崩壊すると、ルーマニア王国はベッサラビアを併合し、1920年のパリ条約で国際的にも認められます。さらにオーストリア・ハンガリー帝国からトランシルヴァニアも獲得し、ルーマニアは完全に統一されます。
しかし、1940年にソ連がベッサラビアを併合すると、東モルダヴィア(ベッサラビア)はソ連の一部となります。その後、1991年のソ連崩壊によってベッサラビアの大部分はモルドバ共和国として独立し、残りの一部はウクライナ領となります。ベッサラビアはルーマニア領とはならず、別の国になってしまったのです。
こうして、ルーマニアは首都ブカレストを含むワラキアを主要部とし、ワラキア・西モルダヴィア・トランシルヴァニア・ドブロジャを合わせた現在の状態になったのです。