【地名解説:モルダヴィア】歴史的地名を解説!現在のルーマニア北東部とモルドバにまたがる地域!

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!

今回は、歴史的地名の1つ、「モルダヴィア」について解説します。現在のルーマニア北東部とモルドバ、一部はウクライナにまたがる地域です。

みなさんは、「モルダヴィア」という地名を聞いたことがあるでしょうか。ほとんどの人は知らないと思います。似たような名前に「モルダウ」「モルドバ」がありますが、「モルダウ」はドイツ・チェコ・オーストリアを流れる川の名前(モルダウ川)で、「モルダヴィア」とは無関係です。「モルドバ」は現在東ヨーロッパにあるモルドバ共和国の国名です。「モルダヴィア」と「モルドバ」が指しているものは同じですが、前者はロシア語で後者はモルドバ語・ウクライナ語と、言語による表記の違いです。

この記事では、歴史的地名の1つ、「モルダヴィア」について徹底的に解説します。

目次

モルダヴィアの位置

上の図の紫色の範囲がモルダヴィアです。現在のモルドバ共和国の全域・ルーマニア北東部・ウクライナの一部にまたがる地域です。歴史上のモルダヴィアと現在のモルドバ共和国の領域はそのまま同じではなく、モルダヴィアの一部が現在のモルドバ共和国となっています。

モルダヴィアの地理

モルダヴィアは、カルパティア山脈とドニエストル川に挟まれた地域です。そしてほぼ中央をプルート川が通り、モルダヴィアを東西に分けています。大まかに分けると、プルート川の西側がルーマニア、東側がモルドバです。

出典:wikipedia

モルダヴィアは亜寒帯湿潤気候に属しており、大部分がDfb気候、黒海沿岸の一部地域がDfa気候となっています。

モルダヴィアの歴史

モルダヴィア公国まで(〜14世紀)

モルダヴィア地域には、紀元前からトラキア系のダキア人が王国を作り、ローマ帝国と対峙していましたが、106年にローマ帝国に滅ぼされます。ダキア人が住んでいた地域のうち、トランシルヴァニアとワラキアはローマ帝国の属州ダキアとなりましたが、モルダヴィアは属州にはなりませんでした。その後はスラヴ人、ハンガリー人、タタール人などさまざまな民族の支配を経て、1359年にルーマニア人がモルダヴィア公国を建国します。

オスマン帝国の支配下(15世紀〜18世紀)

モルダヴィア公国が独立したのも束の間、15世紀に入ると、バルカン半島を北上してきたオスマン帝国の脅威にさらされます。1420年にモルダヴィアはオスマン帝国に征服されますが、直轄領とはならずに自治を認められ、オスマン帝国支配下の従属国として、モルダヴィア公国が存続します。ルーマニア人貴族の勢力も残され、貴族の中で選挙によってモルダヴィア公が選ばれるという体制が続きます。

とはいえ、モルダヴィア公国はずっとオスマン帝国に従順だったわけではなく、15世紀後半にはシュテファン大公がオスマン帝国に激しく抵抗します。1475年にはハンガリー、ポーランド、ヴェネツィアと同盟してオスマン帝国を破るなど、一時的にオスマン帝国を退けることに成功しますが、1480年にオスマン帝国に屈し、和睦を結んで、再びオスマン帝国の属国となります。

その後、約300年以上にわたり、モルダヴィア公国はオスマン帝国の支配下となりました。

ロシアの支配下(19世紀前半)

18世紀に入ると、オスマン帝国の衰退とロシア帝国の拡大によってロシア帝国の影響が強まり、18世紀から19世紀の間はロシア帝国に占領されたり、オスマン帝国が奪い返したりと、両国の係争地となります。

1828年から1829年の露土戦争でロシアが勝利すると、モルダヴィアとワラキアはロシアの保護国となりますが、1853年のクリミア戦争でロシアが敗れると、再びオスマン帝国内の自治公国に戻ります。

この頃から、モルダヴィアのうちプルート川より東側の東モルダヴィアはロシア領となることが多く、ベッサラビアと呼ばれるようになります。以後、「モルダヴィア」は一般的にプルート川より西側の西モルダヴィアを指すことになります。

ルーマニア統一後(19世紀後半〜)

1848年革命によるヨーロッパ全体での「諸国民の春」の動きの影響で、同じルーマニア人国家であるワラキアとの統一と完全独立を求める運動が強まります。

1859年にはワラキアとの統一が果たされてルーマニア公国となり、ルーマニア人国家が1つにまとまります。さらに1878年の露土戦争がロシアの勝利に終わると、ルーマニア公国はオスマン帝国から完全独立し、ルーマニア王国となります。この頃、黒海沿岸地域のドブロジャ北部も併合します。ドブロジャの南部はブルガリア領となります。

1917年のロシア革命によってロシア帝国が崩壊すると、ルーマニア王国はベッサラビアを併合し、1920年のパリ条約で国際的にも認められます。さらにオーストリア・ハンガリー帝国からトランシルヴァニアも獲得し、ルーマニアは完全に統一されます。

しかし、1940年にソ連がベッサラビアを併合すると、東モルダヴィア(ベッサラビア)はソ連の一部となります。その後、1991年のソ連崩壊によってベッサラビアの大部分はモルドバ共和国として独立し、残りの一部はウクライナ領となります。ベッサラビアはルーマニア領とはならず、別の国になってしまったのです。

こうして、西モルダヴィアはルーマニア領、東モルダヴィア(ベッサラビア)はモルドバ共和国、一部地域はウクライナ領、という現在の状態になったのです。

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