【時代解説:1910〜1920年】列強間の対立激化により第一次世界大戦が起こった頃の世界史を解説!

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!

今回は、1910〜1920年の、列強間の対立激化により第一次世界大戦が起こった頃の世界史を解説します。

植民地をめぐって列強間の対立が激化して三国同盟と三国協商の2陣営に分かれる中、多民族国家オーストリアの支配に反発したセルビア人の青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺し、それが引き金となって2陣営が戦う第一次世界大戦が勃発します。戦争は協商国の勝利に終わりますが、各国の被害は大きく、ヨーロッパ諸国は没落してアメリカの覇権が確立します。途中で戦争から脱落したロシアでは社会主義革命が起こります。

この記事では、そんな1910〜1920年はどんな世界だったのか、分かりやすく解説します。

目次

1910〜1920年はどんな世界だったのか

第一次世界大戦

バルカン半島ではドイツ・オーストリアが進めるパン=ゲルマン主義とロシア・バルカン諸国が進めるパン=スラヴ主義の対立から、1912〜1913年にオスマン帝国とバルカン諸国の間で第1次バルカン戦争が起こります。戦争はバルカン諸国の勝利に終わり、オスマン帝国はヨーロッパの領土の大半を喪失、バルカン諸国は領土を拡大します。その後、今度はバルカン諸国の間で領土配分への不満から第2次バルカン戦争が起こり、ブルガリアが負けて領土が縮小されます。それぞれのバルカン戦争で敗れたオスマン帝国とブルガリアは、ドイツに接近していきます。

そんな中、1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の支配に不満を持ったセルビア人の青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺するというサラエボ事件が起こり、オーストリアはセルビアに宣戦布告します。セルビアを支援するロシアは総動員令を発したため、これに対してオーストリアと同盟するドイツがロシアに宣戦布告し、ロシアと同盟するフランスも自動的に参戦することになります。イギリスは当初参戦には消極的でしたが、ドイツがフランス攻撃のために中立国ベルギーに侵攻したため、イギリスも参戦します。すると日英同盟にもとづいて日本も参戦し、第一次世界大戦が始まります。このように、複雑な同盟関係によって連鎖的に多くの国が巻き込まれる形で、第一次世界大戦は始まったのです。

フランスに侵攻したドイツは当初快進撃を見せますが、1914年9月のマルヌの戦いに敗れて進撃が止まり、以降西部戦線は塹壕戦に移行します。東部戦線では東プロイセンに侵入したロシア軍を1914年8月のタンネンベルクの戦いで破ってロシア領内に侵入します。オスマン帝国は1914年11月に三国同盟側で参戦し、コーカサス方面でロシア軍と戦います。三国同盟の一員だったイタリアはオーストリアと領土問題を抱えていたため、1915年5月に三国同盟を破棄して連合国側に加わり、オーストリアと戦います。

日本はドイツ領南洋諸島と中国におけるドイツの拠点である青島を占領します。同じくアフリカのドイツ植民地でも戦いが行われますが、概ね連合国側優勢で進みます。

戦争は長期化しますが、1917年に戦局が大きく動きます。イギリスは穀物を輸入に頼っていたため、イギリスの輸入ルートである大西洋で通商破壊を行うため、ドイツは無制限潜水艦作戦を開始します。しかし、これによって自国の船を沈められたアメリカ合衆国はドイツに宣戦し、連合国側に立って参戦します。

東部戦線でも動きがあり、ロシアで1917年にロシア革命が起こり、社会主義を掲げるソビエト政権が政権を握ります。ソビエト政権は1918年3月に同盟国側と単独講和してしまいます。東部戦線を終結させたドイツは全力を西部戦線に投入しますが戦局を好転させることはできず、1918年9月にブルガリア降伏、10月にオスマン帝国降伏、10月末にオーストリア・ハンガリー帝国が解体し、ドイツも11月にキール軍港での水兵の反乱から全国に広まって皇帝が退位させられ、ドイツ共和国が誕生します。ドイツ共和国は連合国側と休戦協定を結び、第一次世界大戦は終結します。

第一次世界大戦の講和のため1919年にパリ講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約が結ばれます。その結果ドイツは国土の13.5%と人口の1割を失い、高額な賠償金を課せられます。その他の同盟国も領土を縮小させられ、オーストリアからはチェコスロバキア・ハンガリー・セルビア人ークロアチア人ースロヴェニア人王国が独立し、ブルガリアはトラキアをギリシャに割譲、オスマン帝国はイスタンブールとアナトリア以外の領土を全て失います。また、ロシア領の東欧諸国も多く独立します。フィンランド・バルト三国・ポーランドが独立を達成します。

また、このような大きな戦争を起こさないための機関として、アメリカ大統領ウィルソンの提案で1920年に国際連盟が設立されますが、アメリカは議会の反対で不参加となります。

その他の動き

中国では民主主義を求めて1911年に辛亥革命が起こり、1912年に清は滅亡して中華民国が建国され、孫文が臨時大総統に就任しますが、清朝の軍閥であった袁世凱の軍事力が必要だったため取引して臨時大総統を袁世凱に譲ります。しかし、袁世凱は民主主義を抑圧して独裁政治を進めます。そして第一次世界大戦によって列強の目がアジアから離れたのを好機に日本は1915年に中国に対して二十一ヵ条の要求を行い、中国での権益を拡大します。

ロシアでは第一次世界大戦の総力戦による国内疲弊から、1917年にロシア革命が勃発します。その結果1917年11月に社会主義を掲げるソヴィエト政権が成立します。ソヴィエト政権は社会主義を諸外国にも広める思想を持っていたため、警戒した諸外国(イギリス・フランス・アメリカ・日本)は第一次世界大戦終結前の1918年4月から対ソ干渉戦争を行い、ソヴィエト政権の打倒を目指します。日本ではシベリア出兵と呼ばれます。

1910〜1920年は列強間の対立激化により第一次世界大戦が起こった時代

このように、1910〜1920年は列強間の対立激化により第一次世界大戦が起こった時代でした。植民地をめぐって列強間の対立が激化して三国同盟と三国協商の2陣営に分かれる中、多民族国家オーストリアの支配に反発したセルビア人の青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺し、それが引き金となって2陣営が戦う第一次世界大戦が勃発します。戦争は協商国の勝利に終わりますが、各国の被害は大きく、ヨーロッパ諸国は没落してアメリカの覇権が確立します。途中で戦争から脱落したロシアでは社会主義革命が起こります。

これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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