こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。
今回は、ユダヤ人社会の二大勢力のうちの1つ、「セファルディーム」について解説します。
21世紀現在のユダヤ人(ユダヤ教徒)社会には、大きく分けて「セファルディーム」と「アシュケナジーム」の2つの勢力があります。人数比は、セファルディームが約2割、アシュケナジームが約8割です。現在、ユダヤ人の大半はイスラエルかアメリカ合衆国に居住していますが、イスラエルのユダヤ人における両者の人数比は半々、アメリカ合衆国ではほとんどがアシュケナジームです。
離散(ディアスポラ)した地域に応じて、セファルディームはスペイン・中東・北アフリカ系ユダヤ人、アシュケナジームは中欧・東欧系ユダヤ人と分けられます。教育水準が高く、エリート層が多いのはアシュケナジームです。
では、セファルディームとアシュケナジームはどうして別々の集団となり、どのような歴史を辿っていったのでしょうか?
この記事では、「セファルディーム」について徹底的に解説します。
中世〜イスラーム圏とキリスト教圏への離散〜
イスラーム圏に離散したユダヤ人
2世紀にローマ帝国によってエルサレムを追放されたユダヤ人の多くはローマ帝国に離散しますが、392年にローマ帝国でキリスト教が国教とされると、ユダヤ人は迫害こそされないものの差別されます。そんな中、7世紀にアラビア半島でイスラーム教が起こると、ユダヤ人の多くはイスラーム圏に移住します。

今日の国際情勢からは想像もつかないと思いますが、イスラームはユダヤ人に対して寛容でした。法を重視する姿勢が共通していることもあり、意外にもキリスト教とユダヤ教よりもイスラーム教とユダヤ教のほうが共通点が多いのです。7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教は瞬く間に勢力を拡大し、イスラーム勢力はパレスチナを含む西アジアを支配します。750年にアッバース朝が成立すると、異民族であってもイスラーム教に改宗すればジズヤ(人頭税)が免除されることとなったため、ユダヤ教から改宗する者もいました。しかし、イスラーム国家でユダヤ教徒やキリスト教徒は「啓典の民」としてズィンミー(庇護民)の地位を与えられます。ムスリムの支配に服従してジズヤ(人頭税)を納めれば、生命・財産の安全と宗教の自由が保障されます。ユダヤ人にとって、迫害してくるキリスト教世界と比べてイスラーム世界に住むほうが遥かに条件が良かったのです。7〜13世紀まで、世界のユダヤ人の9割がイスラーム諸国で暮らすことになりました。

ところが、13世紀にモンゴル帝国がアッバース朝を倒して西アジアにイル=ハン国を建国すると、政治的混乱の影響で西アジアのユダヤ人は激減します。この状況で新たにユダヤ社会の中心となったのがイベリア半島です。イベリア半島は8〜15世紀まで、北部はキリスト教勢力が支配し南部はイスラーム勢力が支配する状況が続きます。政治的には両者は対立していましたが、文化の面では繋がっていきます。そこで活躍したのが読み書きが得意なユダヤ人でした。イスラームのアラビア語圏で発展した学術書を、ユダヤ人がラテン語やヘブライ語に翻訳してヨーロッパのキリスト教世界に伝えます。こうして、ユダヤ人はキリスト教世界とイスラーム世界の橋渡し役となったのです。
キリスト教圏に離散したユダヤ人
キリスト教圏では差別されるユダヤ人ですが、商業や金融業の役割を生かして現在のドイツやフランスなどの西ヨーロッパに移住します。中世までは、キリスト教では利息を取ることが禁止されていました。ユダヤ教では、同胞から利息を取ることは禁止されていますが異教徒から利息を取ることは許されています。そのため、ユダヤ人はキリスト教徒にお金を貸す金融業や商業で活躍するようになります。ローマ教皇とフランク王国、つまりキリスト教と世俗権力が手を結んでいた中世初期の西ヨーロッパでは、世俗権力は実利的な経済発展の観点からユダヤ人とも協調します。ユダヤ人を保護しながら商取引に関する特権を与えたのです。中世初期の西ヨーロッパでは、ユダヤ人は世俗権力にとって有益な少数精鋭の金融業者でした。このような特権を与えられたことで、ユダヤ人も柔軟に応じます。ユダヤ教の教えでは偶像崇拝者と商取引を行ってはならないとされていますが、当時のラビはこの偶像崇拝者からキリスト教徒を除くことにします。

そのようなユダヤ人の地位は、ユダヤ人が庶民との商取引は金貸しで得た儲けを権力者が税金として納めさせるというシステムで成り立っていました。しかし、これをよく思わないのがキリスト教徒の庶民たちです。金貸しは悪いイメージで語られることが多いですが、当時の庶民たちも権力者とユダヤ人の結びつきを癒着ととらえ、憎むようになるのです。

このようなキリスト教徒の庶民たちのユダヤ人に対する敵意が表面化したのが、12世紀の十字軍運動の盛り上がりでした。イスラム勢力に圧迫されているビザンツ帝国がローマ教皇に支援を求めたことで始まったのが十字軍です。聖地エルサレム奪還を掲げて何度も派兵され一時的にエルサレムを占領することに成功します。この十字軍は、エルサレムに到達するまでのヨーロッパで、ユダヤ人を迫害します。この頃から、民衆のあいだではユダヤ人が儀式のためにキリスト教徒の子供を殺してその血を食用に使うというデマが広がり、報復と称したユダヤ人襲撃が起こります。もっとも当時迫害されたのはユダヤ人だけではありません。キリスト教徒の異端者、ハンセン病患者、同性愛者、売春婦、浮浪者なども、キリスト教社会の規範から逸脱する存在として、ユダヤ人と同様に迫害されました。
西ヨーロッパからの追放
イギリスでは1290年にユダヤ人が追放され、フランスでも14世紀に追放令が出されます。さらに14世紀にはペストの流行によりユダヤ人が毒を入れたというデマが広まり、またユダヤ人襲撃が起こります。この頃からキリスト教でも利息が解禁されたことでキリスト教徒も金融業に参入できるようになり、ユダヤ人の居場所がなくなります。早くから中央集権化が進み統一的にユダヤ人が追放された英仏と異なり、ドイツでは諸侯の権力が強かったため、統一的にユダヤ人が追放されるのは遅くなります。ユダヤ人はしばらくドイツに留まりますが、15世紀にはドイツからも追放されます。西ヨーロッパを追放されたユダヤ人の多くは東欧に逃れていき、「アシュケナジーム」となります。
近世〜セファルディームの成立〜
スペイン追放
イベリア半島のユダヤ人はさまざまな職業に就いていました。大航海時代に入るとイスラーム圏との地中海貿易に携わり、商業の分野でも活躍します。しかし、イベリア半島でのレコンキスタが進んでキリスト教勢力が優位に立つと、イスラームとの橋渡し役だったユダヤ人の利用価値が低下し、迫害が始まります。十字軍やペストの影響もあります。この結果、イベリア半島にいたユダヤ人の半数以上はキリスト教に改宗します。1492年にレコンキスタが完了してスペインとポルトガルによってイベリア半島が完全にキリスト教勢力に支配されると、イスラーム教徒が追放されるのと同様にユダヤ人も改宗しない場合はスペインから追放されることになりました。この、イベリア半島に住んでいたユダヤ人が「セファルディーム」と呼ばれます。
ポルトガルとオランダへの移住
同じイベリア半島でも、ポルトガルではしばらくのあいだユダヤ人迫害はされませんでした。大航海時代が始まると、ユダヤ人やコンベルソ(改宗者、隠れユダヤ人)は新大陸との貿易で活躍します。しかし、ローマ教皇の命令で1536年に異端審問が実施されるようになると、彼らはオランダに移住し、コンベルソはユダヤ教に再改宗します。
オランダに移住したユダヤ人は、再び新大陸との貿易で活躍します。砂糖貿易やプランテーション経営にも関わります。オランダの首都アムステルダムは、セファルディームの商業の一大拠点となり、西欧最大のユダヤ共同体が生まれます。アムステルダムはその後も長くユダヤ人の一大拠点であり続け、17世紀には三十年戦争によってドイツから逃れてきたアシュケナジームが多く流入してきます。この頃からユダヤ人は公職・軍・小売業などから排除されるようになりますが、迫害はされなかったためユダヤ人の拠点の1つではあり続けます。20世紀にナチスドイツからアムステルダムに亡命してきたアンネ・フランクの一家もこのドイツからアムステルダムに逃れてきたアシュケナジームです。
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オスマン帝国への移住

セファルディームが最も多く移住したのは、オスマン帝国でした。レコンキスタが完了した15世紀後半は、オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼして急成長していた時期です。ユダヤ人は金融や商業に長けていただけでなく、当時最先端だった印刷技術や医療技術などを持っており、オスマン帝国の経済を強化するためには絶好の人材たちでした。イスラーム国家のオスマン帝国の統治体制はアッバース朝と同じで、ユダヤ教徒やキリスト教徒は「啓典の民」としてズィンミー(庇護民)の地位を与えられます。ムスリムの支配に服従してジズヤ(人頭税)を納めれば、生命・財産の安全と宗教の自由が保障されます。ユダヤ教を含む他宗教には、ミッレト(共同体)を作らせ、ムスリムよりも高い税率のジズヤ(人頭税)を納めさせる代わりに自治を認めます。かつてのアッバース朝時代のように条件の良かったオスマン帝国には多くのユダヤ人が集まり、近世初期にユダヤ人が最も多く居住していたのはオスマン帝国でした。ヨーロッパのユダヤ人は金融以外の職に就くことは難しかったのですが、オスマン帝国のユダヤ人はさまざまな職に就きます。織物産業、金銀の産出・造幣・流通、国際貿易などの商業です。
オスマン帝国の衰退とフランス化するユダヤ人
17世紀末にオスマン帝国が第二次ウィーン包囲に失敗して衰退期に入ると、経済も停滞して統治の寛容さは失われていきます。イベリア半島からのセファルディームの移民は激減し、彼らはオスマン帝国ではなくオランダに向かいます。19世紀に入るとオスマン帝国内のユダヤ人への迫害も散発するようになります。オスマン帝国領内ではセルビア、ギリシア、エジプトなどの独立運動が盛り上がり、英仏露といったヨーロッパ諸国の介入も招きます。そんな中で進められたのが、1839年からのタンジマートです。オスマン帝国は西欧化を目指しつつ、非ムスリムにムスリムと同等の権利を与えます。これにより、外国のユダヤ人が帝国内に学校を作ることができるようになります。1860年にフランスのパリで「世界イスラリエット連盟」が結成されます。これは、当時の最先端の西欧教育を受けるユダヤ人が、イスラーム諸国に住む遅れたユダヤ人を教育する目的の組織です。連盟はオスマン帝国領内にユダヤ人学校を多く開設していきます。オスマン帝国に代わってフランスが植民地化したアルジェリアでもこの学校が建設されます。ユダヤ人はフランス化し、1870年にはユダヤ人にのみフランスの市民権が与えられます。
現代〜イスラエルへの移民〜

アシュケナジームの主導でユダヤ人のパレスチナ帰還運動(シオニズム)が進められ、1948年、エルサレムを首都とするイスラエル共和国が独立します。当初はシオニズムから距離を置いていたセファルディームも、パレスチナでのユダヤ人とアラブ人の紛争が激化すると、巻き込まれていきます。ユダヤ人口を増やしたかったアシュケナジームも、セファルディームの移民を表面上は歓迎します。しかし、アシュケナジームはセファルディームを遅れた人々と考えていたため、伝染病を疑われて殺虫剤を体中に散布されたりといった事件も起こります。中東・北アフリカからの移民はどんどん増えていき、1970年代にはイスラエルのユダヤ人口の半数が中東・北アフリカ系になります。セファルディームの中でも中東・北アフリカ系の人々は「ミズラヒーム」とも呼ばれます。アシュケナジームとミズラヒームは思想や習慣にすれ違いがあり、ミズラヒーム差別によって暴動が起きたりもしています。
