【ユダ王国】ヘブライ王国分裂後の南半分の国について解説!

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。

今回は、ヘブライ王国分裂後の紀元前922年〜586年、パレスチナ南部に存在したユダヤ人国家、ユダ王国について解説します。

約100年続いたユダヤ人統一国家ヘブライ王国ですが、重税や宗教対立が原因で南北に分裂してしまいます。北のイスラエル王国は紀元前722年に滅亡しますが、南のユダ王国は紀元前586年まで、300年以上も存続します。ユダヤ人という呼び方も、このユダ王国に由来します。

そんなユダ王国ですが、どういう経緯で建国され、どのような統治や外交が行われ、なぜ滅びてしまったのでしょうか?

この記事では、まず当時の世界とユダヤ人の時代背景を分かりやすく解説し、ユダ王国の建国から滅亡まで追っていきます。

目次

ユダ王国の時代における世界の状況

ユダ王国は、紀元前922年ヘブライ王国から分離独立し、紀元前586年に新バビロニア王国に滅ぼされます。この期間は、鉄器が広がり最初の世界帝国アッシリアが拡大していった頃でした。新バビロニア王国は、このアッシリアを滅ぼした国です。

オリエントでは、ミタンニ王国の属国だったアッシリアが、独立を回復した後に勢力を拡大します。紀元前8世紀後半から勢力を大きく拡大し、メソポタミアを征服します。アッシリアでは鉄製の武器が普及しており、それがアッシリアの軍事力の源でした。紀元前7世紀前半にはエジプトも征服し、オリエントを統一して最初の世界帝国を築き上げます。

アッシリア帝国は中央集権的な専制君主国家で、重税と圧政で諸民族を支配します。しかし、諸民族の反抗を招き、紀元前612年に新バビロニア・メディアの連合軍に敗れて滅亡します。

ギリシアは紀元前12〜8世紀の間、「暗黒時代」という混乱した時代でしたが、この時期に鉄器が普及します。暗黒時代には人々はバラバラに住んでいましたが、紀元前8世紀に入ると集住し始め、都市国家ポリスを形成します。ポリスの形成によって社会が安定して人口が増加すると、紀元前8世紀半ばから紀元前6世紀にかけてギリシア人は地中海全域に植民活動を行います。この時代は大植民時代とも呼ばれます。

中国では、紀元前11世紀に建国された周が、王の一族や有力な臣下を諸侯にして各地を治めさせる封建制で統治していましたが、周王と諸侯の関係も時が経つにつれて疎遠となり、王権が衰え諸侯たちの権力が強くなっていきます。紀元前770年に異民族の侵入により都を鎬京から洛邑に遷都した後は、周王は完全に実権を失って名目上の存在となります。この紀元前770年以前を西周、以後を東周と呼びます。

このように、鉄器が広がり最初の世界帝国アッシリアが拡大していった時期が、ユダ王国が存在した時期の世界の状況です。ユダ王国はアッシリアの属国となりますが、そのアッシリアを滅ぼした新バビロニア王国によって滅ぼされます。

ユダ王国建国に至るまでの経緯

2世紀頃から20世紀前半までの長い離散(ディアスポラ)を経て1948年にユダヤ人国家イスラエルが建国されますが、ディアスポラより遥か昔、紀元前1021〜922年頃、現在のイスラエルとほぼ同じ場所に、ヘブライ王国というユダヤ人国家が存在し、一時は空前の大繁栄を謳歌していました。

ダヴィデ像(出典:wikipedia)

特に第2代ダヴィデ王、第3代ソロモン王の頃に大きく発展し、ソロモン王時代の繁栄は「ソロモンの栄華」と呼ばれます。

ソロモン王(出典:wikipedia)

しかし、ソロモンは土木工事や神殿建設などのために国民へ重税を課しており、国民の反発を招きます。また、自分の出身部族ユダ族を優遇したことで他部族の反発を招き、さらに外国との関係を重視してユダヤ教以外の宗教を認めたことで、一神教であるユダヤ教徒の反発も招きます。一説には、他の宗教を認める、つまり唯一神ヤハウェ以外の神を認めたことで、神ヤハウェから見放された、という説もあります。

古代イスラエル12部族(出典:wikipedia)

紀元前931年にソロモン王は亡くなり、息子のレハブアムが後を継ぎます。しかし、国民の不満が高まっていたことで、ソロモンの死後すぐに反乱が起こります。その結果、イスラエル12支族のうち北部10支族がエフライム族出身のヤロブアムを擁立して分離独立し、紀元前922年、イスラエル王国(北イスラエル王国)が成立します。残された南部のユダ族とベニヤミン族は、レハブアムを国王とするユダ王国となります。都エルサレムはベニヤミン族の土地だったため、ユダ王国の都になります。

ユダ王国の歴史

ユダ王国の王権は比較的安定しており、ほとんどユダ族であるダヴィデの子孫が王位を継承していきます。ユダ王国を構成する部族はユダ族とベニヤミン族の2つだけです。10部族を抱える北イスラエル王国と異なって民族間の対立がほとんどなく、国内が安定していました。

再統一を目指しイスラエル王国に侵攻を繰り返す

もともと統一ヘブライ王国であるダヴィデ一族の支配から分離独立する形で北のイスラエル王国が建国されたこともあり、当初、ユダ王国ではイスラエル王国を制圧して再び統一王国を作ろうとします。そのため、紀元前922年の分裂後しばらくはユダ王国がイスラエル王国にたびたび侵攻し、南北間での戦いが繰り返されます。

イスラエル王国と同盟して国力を充実させる

しかし、紀元前873年に即位した第4代ヨシャファト王のときにイスラエル王国の第7代アハブ王と和解します。そこから両国は同盟関係となり、共同でアラム人と戦ったりします。この頃にユダ王国は国力を充実させます。

暴君アタルヤ女王

ユダ王国の国王のうち、唯一ダヴィデ一族の子孫でなかったのが、紀元前842年に即位した第7代アタルヤ女王です。彼女はユダ王国史上最悪の暴君とされています。アタルヤはイスラエル第7代王アハブの娘であり、同盟関係にあるユダ王国の第5代ヨラム王の妻となります。紀元前842年にヨラム王が亡くなり、息子のアハズヤが第6代王となりますが、すぐに戦死してしまいます。ここで王座を奪ったのがアタルヤです。他宗教を崇拝するアタルヤはユダ王族や貴族から反感を買い、その反抗を抑えるためにユダ王族のほとんどを皆殺しにします。このような暴挙によって民心を失ったアタルヤは、王族の生き残りヨアシュに王位を奪われ、紀元前837年に処刑されてしまいます。そしてヨアシュが第8代王となります。

アッシリアによりイスラエル王国が滅ぼされユダ王国は属国となる

紀元前8世紀の中頃からメソポタミアのアッシリア王国が勢力を拡大すると、状況は一変します。紀元前722年に北のイスラエル王国が滅ぼされ、ユダ王国もアッシリアの圧力に屈して属国となります。アッシリアはエジプトも征服し、最初の世界帝国となります。

アッシリアが滅亡しエジプトとバビロニアの間で揺れ動く

ところが、紀元前609年にアッシリアが滅亡すると、新たにメソポタミアを支配した新バビロニア王国とエジプトがユダ王国の支配を巡って争います。当初は新バビロニアに着きましたが、同紀元前609年のメギドの戦いでエジプトに敗れると、エジプトの属国となります。そして紀元前605年に今度はカルケミシュの戦いで新バビロニア王国がエジプトに勝利すると、また新バビロニア王国の属国となります。しかし、第18代王ヨヤキムがエジプトの支援を期待して反乱を起こすと、新バビロニアのネブカドネザル2世王が紀元前597年にエルサレムを占領します。このとき第1回目のバビロン捕囚が行われていますが、一般的にバビロン捕囚は第2回目の出来事を指します。ユダ王国は再び新バビロニアの属国となります。

新バビロニア王国によって滅ぼされバビロン捕囚となる

第20代ゼデキヤ王が紀元前587年に再び新バビロニアに対して反乱を起こすと、ネブカドネザルは再びエルサレムを占領します。そして翌紀元前586年にエルサレム全体とソロモン王が築いたエルサレム神殿を破壊し、多数のヘブライ人が新バビロニアの都バビロンに連行されます。第2回バビロン捕囚です。一般的には、このときを「バビロン捕囚」と言います。こうして紀元前586年にユダ王国は滅亡し、紀元前922年のヘブライ王国分裂から300年以上続いた歴史に幕を下ろします。ヘブライ王国建国の紀元前1021年から数えると400年以上、ユダヤ人国家が存続していたのです。

ユダ王国年表

紀元前922年ヘブライ王国が分裂し南部にユダ族がユダ王国を建国、初代王はレハブアム
紀元前722年イスラエル王国滅亡、ユダ王国はアッシリアの属国になる
紀元前609年アッシリア滅亡、新バビロニアとエジプトの間で揺れ動く
紀元前601年エジプトと結んで新バビロニアへの貢納を停止する
紀元前598年新バビロニアによってエルサレム陥落、第1回バビロン捕囚
紀元前587年再び新バビロニアに対して反乱
紀元前586年新バビロニアに征服され滅亡、第2回バビロン捕囚
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