こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。
今回は、西暦66〜74年と131〜135年の2回、ローマの支配に対してユダヤ人が大規模な反乱を起こした出来事、ユダヤ戦争について解説します。
ヘロデ大王の孫、アグリッパ1世が44年に病死すると、ローマ帝国はユダヤ属州を直接統治します。ローマ帝国は基本的に被支配民族の文化や宗教を尊重して統治しますが、多神教がほとんどの地中海世界において、一神教のユダヤ教は異質でした。ローマ帝国の皇帝崇拝・皇帝の神格化も、多神教の諸民族にとっては受け入れられても、一神教のユダヤ教にとっては受け入れられるものではありません。唯一神ヤハウェ以外の神の存在を認めることはできないのです。そのため、ユダヤ人たちはローマの支配に対する不満を募らせ、反乱を起こします。
最終的にユダヤ戦争は2回ともローマの勝利で終わり、ユダヤ国家は完全消滅してしまいます。
この記事では、ユダヤ戦争の原因と経過を追っていき、最後にユダヤ戦争の歴史的位置づけを解説します。
ユダヤ戦争の時代における世界の状況
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第一次ユダヤ戦争は66〜74年の8年間、第二次ユダヤ戦争は131〜135年の4年間続きました。この頃は、ユーラシア東西で巨大帝国が黄金期を迎えた時代でした。西では地中海を統一したローマ帝国がヨーロッパなど周辺地域にさらに勢力を広げ、優れた文化や建築物を多数生み出すなど黄金期を迎え、東では後漢がタリム盆地などの西域まで勢力を広げ、東アジア地域に冊封関係を築いて古代中国の黄金期を迎えます。
1〜2世紀、ローマ帝国の版図は最大となり、「ローマの平和(パクス=ロマーナ)」と呼ばれる空前の大繁栄を謳歌します。黄金期です。地中海だけでなく西ヨーロッパの大部分と中央・東ヨーロッパの一部、オリエントの西半分まで征服します。ローマ帝国では現在も実用的に使用される建築物も多数生まれ、テルマエ=ロマエに描かれる大浴場などの娯楽施設も生まれるなど、とても2000年前のものとは思えない、現代から見ても驚くような発展を遂げます。
パレスチナ地域に西暦30年頃に生まれたキリスト教は、初めローマ帝国に迫害されますが、やがて公認されてローマ帝国の国教となり、キリスト教はその後のヨーロッパ思想の源流となります。西暦0年はイエス・キリストの生まれた年とされています。
オリエントではパルティアがローマ帝国と激しく争います。この頃のローマ帝国の勢いは凄まじく、一時的にパルティアの首都クテシフォンを含むメソポタミアの大部分を占領します。
200年近く続いた前漢の繁栄も西暦に入る頃には陰ります。貨幣経済の活発化により農民が没落して豪族が力を伸ばし、中央では宦官や外戚が皇帝の政治を左右するようになります。そしてついに外戚の王莽が西暦8年に帝位を奪い、前漢を滅ぼして「新」を建国します。しかしその新もすぐに反乱が多発して滅亡し、皇族の劉秀が25年に皇帝に即位(光武帝)、漢を復興させて「後漢」を建国します。後漢は儒教を国教として各地の優れた人材を登用し、次第に国力を安定させて匈奴や西域諸国を従え、前漢時代の繁栄を取り戻します。
弥生時代の日本(倭)では、九州北部の奴国が後漢の光武帝に使者を送って金印を授けられます。
インド西北部ではクシャーナ朝が2世紀のカニシカ王の時代に最盛期を迎え、中央アジアのシルクロードの要衝を抑えて陸上交易で繁栄します。南部デカン高原のサータヴァーハナ朝は、ローマや東南アジア、中国との海上交易で繁栄します。
このように、ユーラシア東西で巨大帝国が黄金期を迎えた時期が、ユダヤ戦争が起きた当時の世界の状況です。そして西の帝国ローマに対してユダヤ人が反乱を起こしたのが、ユダヤ戦争でした。
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ユダヤ戦争に至るまでの経緯
多神教のローマ帝国と一神教のユダヤ
ローマ帝国は392年に一神教であるキリスト教を国教と定めますが、もともとは多神教の国でした。ギリシャ神話の神々や地域伝来の神など、さまざまな神々を崇拝していました。そのため、ローマ帝国は基本的に被支配民族の文化や宗教を尊重し、寛容な統治をします。また、ローマ帝国は皇帝を崇拝しており、皇帝は死後神格化されて神になります。しかし、多神教がほとんどの地中海世界において、一神教のユダヤ教は異質でした。ローマ帝国の皇帝崇拝・皇帝の神格化は、多神教の諸民族にとっては受け入れられても、一神教のユダヤ教にとっては受け入れられるものではありません。唯一神ヤハウェ以外の神の存在を認めることはできないのです。そのため、ユダヤ人たちは皇帝崇拝を求めるローマに対する不満を募らせます。
ローマの支配に対する反発
紀元前4年にヘロデ大王が亡くなると、ローマはユダヤを直接統治します。37年に即位したローマ皇帝カリギュラは皇帝崇拝を強要し、ユダヤは反乱を起こすかに見えました。しかし、カリギュラが亡くなり41年に後を継いだ皇帝クラウディウスは、皇帝崇拝の強要を取り消します。さらにヘロデ大王の孫であったアグリッパ1世をユダヤ王として認め、ある程度の裁量を与えて統治させます。アグリッパ1世はユダヤ教神官勢力にも好意的で、ローマとユダヤ神官勢力の間でうまくバランスを取って統治します。そのアグリッパ1世が44年に病死すると、ローマは再びユダヤを直接統治します。その後はローマとユダヤの間で小競り合いが頻発します。そして66年春、ユダヤ総督フロルスが徴税の名目でエルサレム神殿の宝物を持ち出したことがきっかけで、エルサレムで暴動が起こります。これが第一次ユダヤ戦争のきっかけです。

第一次ユダヤ戦争
開戦

66年春に第一次ユダヤ戦争が始まりますが、初めは対ローマ強硬派による暴動という形で起こります。ユダヤ側の主な指導者は、フラウィウス・ヨセフス、シモン・バル・ギオラ、ヨハネ、シモンの4名でした。
ローマは暴動の首謀者を逮捕・処刑することで暴動を鎮圧しようとしますが、逆にユダヤ全土で反ローマの機運が盛り上がることになります。ユダヤ人たちは反ローマで結束し、人里を離れて隠遁生活を送っていたエッセネ派まで加わります。ローマのシリア属州総督が鎮圧に向かいますが、反乱軍に敗れてしまいます。ユダヤ軍は一時的にパレスチナのほぼ全土を支配します。

ユダヤの反乱を重く見たローマ皇帝ネロは、将軍ウェスパシアヌスに軍団を与えて鎮圧に向かわせます。ウェスパシアヌスは、いきなりエルサレムを攻略するのではなく、周辺の都市を1つずつ落としてエルサレムを孤立させようとします。ウェスパシアヌスはユダヤ軍を破ってサマリアやガリラヤを制圧し、エルサレムを孤立させることに成功します。このときユダヤ北部では10万人のユダヤ人が殺されるか奴隷として売られます。ユダヤ側はヨセフスがローマに降伏し、ユダヤ内の勢力はシモン率いるゼロテ派に大きく傾きます。そしてユダヤ内部でも内戦が起こり、対ローマ過激派のゼロテ派が穏健派を破ってエルサレムの実権を握ります。
68年4月、ガリア属州総督の反乱をきっかけに同年6月、ローマ皇帝ネロが自殺します。69年には4人の皇帝が次々と即位するなど、ローマ帝国は大混乱に陥ります。ウェスパシアヌスも、エルサレム攻略どころではなくなりローマに戻って皇帝位をめぐる争いに参加します。ユダヤ攻略軍の指揮は息子のティトゥスに任せます。こうして一時的にユダヤ戦争は膠着状態となります。
エルサレム陥落

69年12月、ローマ帝国ではウェスパシアヌスが皇帝に即位し、混乱状態が終わります。そして70年4月14日、ティトゥス率いるローマ軍によるエルサレム攻囲戦が始まります。
ティトゥスはまずエルサレムを完全包囲し、水と食糧の供給を断つ兵糧攻めを行います。しかし、この期に及んでユダヤ内部では内戦状態が続き、1つにまとまりません。エルサレムは無政府状態に近くなり、殺人などが横行する一方で、食糧不足による飢餓が蔓延しカニバリズムまで発生します。ところが、ユダヤ神官勢力とゼロテ派は軍を組織してローマへの反撃を行い、エルサレム市内に侵入したローマ軍を撃退するなどの活躍も見せます。

次にティトゥスはエルサレムを囲む壁の建設を始めます。これを見たユダヤ側はようやく内戦をやめ、反ローマで結束します。しかしローマ軍は攻城機を使って9月までにエルサレムの3つの城壁を破壊することに成功し、エルサレムの巨大な神殿も破壊されてしまいます。9月7日、ローマ軍はエルサレムを完全制圧します。その後のユダヤ戦争は、エルサレムから逃亡したユダヤ人を掃討する段階に入ります。
マサダ要塞陥落

エルサレム陥落後も、一部のユダヤ人勢力が、ヘロデ大王の築いたマサダ要塞や、ヘロディオン、マカイロスなどに立てこもって抵抗します。中でもマサダ要塞は約1000人のユダヤ人が立てこもり、最後までローマ軍に抵抗します。マサダ要塞は死海西岸の高さ400mの台地の上にある要塞です。ローマ軍は力攻めは不可能だと判断し、3年かけて周囲の断崖を埋めて突入路を築く作戦を取ります。3年後、完成目前となった突入路を見て敗北を覚悟したユダヤ人たちは、ローマ軍の突入前夜に集団自決します。このマサダ要塞が陥落した73年5月、ようやく第一次ユダヤ戦争は終結したのです。
この戦争の後、ローマ帝国はユダヤの反乱を未然に防ぐため、エルサレムに軍団を駐屯させます。
第二次ユダヤ戦争
開戦まで

2世紀に入ると、再びユダヤ人の反ローマ闘争が活発になります。115年から117年にかけてローマ皇帝トラヤヌス率いるローマ軍がパルティア侵攻のため東に動いた隙を突いて、パレスチナのユダヤ属州だけでなくエジプトやメソポタミアなどディアスポラのユダヤ人たちも同時に蜂起します。これは鎮圧されますが、その頃、ユダヤ属州でシメオンという人物が、自分こそはユダヤ人を救う救世主(メシア)だと言い始めます。これに対して当時のユダヤ教の聖職者のリーダーであるラビ・アキバが支持を表明します。ユダヤ人たちはシメオンを支持するようになり、彼は「バル・コクバ」というメシアの称号を自称するようになります。

ローマ皇帝、五賢帝の1人であるハドリアヌスは、膨張政策を改めて帝国内の安定をはかっていました。エルサレムにローマ軍の退役兵を入植させる植民市の建設を行い、エルサレムを「アエリア・カピトリナ」というローマ風の名前に改称しようとします。さらにエルサレムのヤハウェ神殿跡地にローマの神を祀るユピテル神殿を建設しようとします。さらにユダヤの伝統である割礼を禁止しようともします。ユダヤ人たちの怒りは爆発し、131年、第2次ユダヤ戦争が始まります。ユダヤ側の指導者はバル・コクバでした。
イスラエル復興?
当初は、ユダヤ軍が優勢でした。各地でローマ軍の守備隊を破り、パレスチナ全土を制圧してユダヤの支配権を取り戻します。それから2年半にわたって、バル・コクバが政治的指導者、ラビ・アキバが宗教的指導者として、ユダヤの支配構造が確立します。「イスラエルの復興」が宣言され、コインを鋳造し、神殿の再建も計画されます。
エルサレム陥落
しかし、ローマ軍も黙ってはいません。ハドリアヌス帝はブリタニアから将軍ユリウス・セウェルスを呼び寄せ、軍団を与えてユダヤの鎮圧に向かわせます。ローマ軍はユダヤ軍を次々に破り、135年に再びエルサレムは陥落します。ユダヤ軍は掃討され、バル・コクバは戦死、ラビ・アキバは捕えられて処刑されます。多くのユダヤ人が亡くなり、エルサレムは完全に廃墟となり、ユダヤ全土は荒廃します。こうして、第2次ユダヤ戦争は終結します。
ユダヤ国家の完全消滅とユダヤ人の離散(ディアスポラ)
ハドリアヌス帝は、ユダヤ地方が不安定な原因はユダヤ教にあると考え、根絶を図ります。ユダヤ教の指導者たちは殺害され、律法の書物は廃棄されます。エルサレムは「アエリア・カピトリナ」に改称され、ユダヤ人が市内に入ることは禁じられます。ユダヤ人の故郷でありユダヤ国家の首都であり続けたエルサレムへの立ち入りが禁止されたことは、ユダヤ人にとって故郷を失ったも同然でした。また、「ユダヤ」と名のつくあらゆるものを廃止し、属州の名も「ユダヤ属州」から「シリア・パレスチナ属州」に変更されます。
このユダヤ戦争は、ユダヤ人の最後の抵抗でした。ユダヤ国家は完全消滅し、全てのユダヤ人が地中海各地やメソポタミアなどに離散(ディアスポラ)していきます。以降、1948年にイスラエル国が独立するまでの約1800年間、ユダヤ人は自分たちの国を持つことができませんでした。
嘆きの壁

ハドリアヌス帝によってユダヤ人のエルサレム立ち入りは禁止されますが、4世紀になってようやく状況が変わります。313年にコンスタンティヌス帝によりミラノ勅令が発布されます。ユダヤ人たちは、年に1回だけ、エルサレムの旧神殿が壊された後に残った壁に向かって祈りを捧げることが許されます。これが「嘆きの壁」です。
ユダヤ戦争年表
66年 | 第一次ユダヤ戦争開戦 |
69年 | ウェスパシアヌスがローマ皇帝に即位 |
70年4月14日 | エルサレム攻囲戦開始 |
70年9月7日 | ローマ軍がエルサレム完全制圧 |
73年5月 | マサダ要塞陥落、第一次ユダヤ戦争終戦 |
131年 | 第二次ユダヤ戦争開戦 |
135年 | エルサレム陥落、第二次ユダヤ戦争終戦 |