こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。
今回は、紀元前1021〜922年頃、シリア・パレスチナ地方に存在したユダヤ人国家、ヘブライ王国について解説します。
「ヘブライ王国」と聞いてもイメージが掴めない人も多いと思いますが、「(古代)イスラエル王国」と聞けばなんとなくイメージが掴めるのではないでしょうか。
2世紀頃から20世紀前半までの長い離散(ディアスポラ)を経て1948年にユダヤ人国家イスラエルが建国されますが、ディアスポラより遥か昔、紀元前1021〜922年頃、現在のイスラエルとほぼ同じ場所に、ヘブライ王国というユダヤ人国家が存在し、一時は空前の大繁栄を謳歌していました。
そんな古き良きユダヤ人国家ヘブライ王国ですが、どういう経緯で建国され、王様はどのような統治をし、なぜ滅びてしまったのでしょうか?
この記事では、まず当時の世界とユダヤ人の時代背景を分かりやすく解説し、ヘブライ王国の建国から滅亡まで追っていきます。
ヘブライ王国の時代における世界の状況
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ヘブライ王国は、紀元前1021年に建国され、紀元前922年に分裂したとされています。この紀元前1000年頃は、大国が衰退期を迎え、次の大国が生まれるまでの過渡期でした。
オリエントでは、紀元前1200年頃に系統不明の海の民の侵入によってアナトリアのヒッタイト王国、ギリシアのミケーネ文明、エジプトの新王国といった大国が衰退に追い込まれ、その影響を受けたメソポタミア北部のアッシリア、メソポタミア南部のバビロニアも衰退していました。
中国は、殷王朝が滅びて周王朝が誕生した頃でした。インドでは、アーリア人がインダス川上流からガンジス川上流へと移動し始めた時期です。そして日本は、縄文時代でした。
このような大国の衰退によって、メソポタミアとエジプトに挟まれた地域であるシリア・パレスチナでは、権力の空白が生まれます。そのような中、多くの小国が誕生し、ヘブライ王国もその1つでした。
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ヘブライ王国建国に至るまでの経緯

ユダヤ人がユダヤ人と呼ばれるようになるのは紀元前586年のバビロン捕囚以降であり、この頃はヘブライ人と呼ばれていました。ヘブライ人というのは他民族からの呼称であり、自分たちではイスラエル人と言っていました。ヘブライ人は紀元前1500年頃からシリア・パレスチナ地方に定住していたセム語系の民族です。聖書によると、ユダヤ人の父祖アブラハムがカナンの地(パレスチナ)を神から与えられ、メソポタミア南部のウルからカナン(パレスチナ)に移動したとされています。

ヘブライ人には12の部族があり、選挙で民族指導者である士師を選出していました。そんな中、次第に民から王政を望む声が高まります。そこで士師サムエルは、神の指示によりベニヤミン族の背が高く美しい若者サウルを選び、最初の王とします。ヘブライ王国の誕生です。ヘブライ王国のことも自分たちではイスラエル王国(古代イスラエル王国)と呼んでいましたが、一般的にはこの時の王国のことをヘブライ王国と呼び、紀元前922年頃に分裂した北半分の国をイスラエル王国と呼びます。統一王国をイスラエル王国と呼ぶ場合は、分裂後北半分の国を北イスラエル王国と呼びます。
ヘブライ王国の歴史
初代サウル王の時代(紀元前1021〜1000年)
王となったサウルはペリシテ人など周辺民族と戦い、勝利していきます。しかし、アマレク人との戦いに勝利した際、女子供家畜も含め皆殺しにせよ、という神の命令に背いて、アマレク人を憐れみ皆殺しにはしませんでした。神の命令に背いたサウルは、神から見放されます。酷い神様ですね。

神の命令を受けた士師サムエルは、サウルに代わる王を探します。ユダ族、ベツレヘムにいた羊飼いの美しい少年ダヴィデに目を止め、王となるべき人物と認めます。その日からサウルは悪霊に苛まれますが、竪琴の名人であるダヴィデを側近としたことで、竪琴の音色を聴いたサウルは心が休まりました。ダヴィデは竪琴の名人かつ戦士だったため、王の側近としてこの時から重要人物となります。ダヴィデが生まれたのは紀元前1040年とされています。

当時のヘブライ王国は、海の民の一派であるペリシテ人と頻繁に戦っていました。特に、ペリシテ人の中で最強の戦士ゴリアテはヘブライ兵たちに恐れられています。そこで、ダヴィデはゴリアテと一騎打ちすることにします。サウルは鎧と武器をダヴィデに与えますが、ダヴィデの体には合わず、石と投石器で戦うことにします。ダヴィデは石を見事にゴリアテの眉間に命中させ、倒れたゴリアテが持っていた剣を奪い、ゴリアテの首を取ります。ダヴィデの勝利です。ペリシテ軍は総崩れになり、ヘブライ軍の大勝利となります。
その後もダヴィデは連戦連勝し、王国の英雄として人気者になりますが、嫉妬したサウルはダヴィデを亡き者にしようと企みます。サウルは自分の娘をダヴィデの妻として与える代わりにペリシテ軍と戦わせて戦死させようとしますが、思惑に反してダヴィデは勝利を重ねます。業を煮やしたサウルは部下に命じてダヴィデを殺させようとしますが、なんとかダヴィデは逃れ、逃げ出して各地を転々とします。
そんな中、サウルはペリシテ軍に敗れ、追い詰められて自害します。ダヴィデは出身部族のユダ族のもとに行き、そこでユダ王となります。

ユダ王となったダヴィデはサウルの後を継いだ息子イシュ・ボシェトと戦いますが、イシュ・ボシェトは昼寝中に部下に殺害されてしまいます。ダヴィデの勝利です。紀元前1000年、ダヴィデは2代目ヘブライ国王となり、エルサレムを都とします。
第2代ダヴィデ王の時代(紀元前1000〜961年)


即位したダヴィデはペリシテ人を破り、さらに周辺部族のモアブ人、アラム人、エドム人、アンモン人も破り、領土を大きく拡大します。
ダヴィデは、あるときバト・シェバという美しい女性に心を奪われます。しかし、バト・シェバはウリヤという人の妻でした。そこでダヴィデは、バト・シェバを手にいれるためウリヤを戦場の最前線に送り、戦死させます。ダヴィデとバト・シェバの間にソロモンという男の子が生まれ、ダヴィデはソロモンを後継者にします。ところが、ソロモンは長男ではなく、ダヴィデは他の女性との間に何人も子供がいます。バト・シェバを寵愛するあまり、ソロモンを後継者にしたのです。そのことがダヴィデの子供達の間での骨肉の争いに繋がります。三男アブサロムが長男アムノンを殺し、さらに父ダヴィデに対して謀反を起こし、一時期ダヴィデは都エルサレムを追われます。最終的に謀反は鎮圧されますが、ダヴィデの意に反してアブサロムは殺されてしまいます。
このように子供達の反乱などで国は混乱しますが、ダヴィデは中央集権的な国づくりを進め、ヘブライ王国繁栄の基礎を築きます。
晩年のダヴィデは、アビシャグという若い娘を寝るときに傍に侍らせます。また、ダヴィデの子アドニヤが自ら王を名乗る事件が起こります。しかし、ダヴィデがソロモンを後継者にすると宣言し、ソロモンが次の王に決まります。そして紀元前961年、ダヴィデはこの世を去ります。紀元前961年、ソロモンがヘブライ王国の王になったのです。

第3代ソロモン王の時代(紀元前961〜931年)

領土を大きく拡大した父ダヴィデと対照的に、ソロモン王は内政と外交を重視しました。エジプト、メソポタミア、地中海を結ぶ中間地点という立地を生かし、通商路を整備して外国との交易を発展させ、莫大な富を蓄えます。官僚制度を整備して中央集権体制を確立させ、大規模な土木工事を行って都市を強化します。ソロモンは初めてエルサレム神殿を建設し、ソロモン神殿とも呼ばれます。この神殿は、ユダヤ教の唯一神ヤハウェを祭るためのものでした。さらに、フェニキア人のティルスと同盟してフェニキア人の交易を保護し、エジプトのファラオの娘と結婚するなど、周辺諸国との友好関係を強化します。
このように、ソロモン王は内政と外交を重視して巨万の富と平和を築き、「ソロモンの栄華」と呼ばれる、ユダヤ史上最も繁栄した時代を作り上げます。
しかし、ソロモンは土木工事や神殿建設などのために国民へ重税を課しており、国民の反発を招きます。また、自分の出身部族ユダ族を優遇したことで他部族の反発を招き、さらに外国との関係を重視してユダヤ教以外の宗教を認めたことで、一神教であるユダヤ教徒の反発も招きます。一説には、他の宗教を認める、つまり唯一神ヤハウェ以外の神を認めたことで、神ヤハウェから見放された、という説もあります。

ヘブライ王国の南北分裂

紀元前931年にソロモン王は亡くなり、息子のレハブアムが後を継ぎます。しかし、国民の不満が高まっていたことで、ソロモンの死後すぐに反乱が起こります。その結果、イスラエル12支族のうち北部10支族がエフライム族出身のヤロブアムを擁立して分離独立し、紀元前922年、イスラエル王国(北イスラエル王国)が成立します。残された南部のユダ族とベニヤミン族は、レハブアムを国王とするユダ王国となります。都エルサレムはベニヤミン族の土地だったため、ユダ王国の都になります。


ヘブライ王国年表
紀元前1500年頃 | ヘブライ人がパレスチナに定住し始める |
紀元前1021年 | ヘブライ王国建国、サウルが初代国王になる |
紀元前1000年 | サウル死去、ダヴィデが第2代国王になる |
紀元前961年 | ダヴィデ死去、ソロモンが第3代国王になる |
紀元前931年 | ソロモン死去、レハブアムが後を継ぐが内戦状態に |
紀元前922年 | 北部10部族が分離しイスラエル王国成立、南部2部族はユダ王国に |