【時代解説:1900〜1910年】帝国主義の進展が列強間の対立を激化させた頃の世界史を解説!

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!

今回は、1900〜1910年の、帝国主義の進展が列強間の対立を激化させた頃の世界史を解説します。

帝国主義の進展による世界分割の完了は、帝国主義列強同士の対立を生みます。イギリス・フランスなど早くから植民地を拡大して多くの植民地を持つ国と、ドイツなど後から植民地を拡大したため少ない植民地しか持たない国の対立です。

この記事では、そんな1900〜1910年はどんな世界だったのか、分かりやすく解説します。

目次

1900〜1910年はどんな世界だったのか

ヨーロッパ

イギリスは「光栄ある孤立」と呼ばれる孤立主義を取っていましたが、アジアでのロシアの拡大に対抗するため、日本と同盟を結びます。1902年の日英同盟成立です。そして1904〜1905年の日露戦争で日本が勝利してロシアの拡大を食い止めることに成功します。20世紀に入るとドイツの生産力・軍事力の拡大が著しく、それに対抗するため、それまで対立していたロシア・フランスと一転して協調し、1907年に三国協商(イギリス・フランス・ロシア)が成立します。日露戦争後は日本とロシアでも1907年に日露協約が結ばれて和解したため、列強間の国際関係は、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)、三国協商(イギリス・フランス・ロシア)+日本、の2つの陣営に分かれて対立する構図となります。

バルカン半島では1908年にオーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合し、ロシア・バルカン諸国との対立を深めていきます。

アメリカ

アメリカ合衆国も帝国主義政策を続け、1901年に就任したセオドア・ローズヴェルト大統領が1903年にパナマ共和国からパナマ運河建設権と租借権を獲得し、パナマ運河の建設を開始します。パナマ運河は1914年に完成しますが、これで太平洋と大西洋の船の行き来がしやすくなりました。

東アジア

中国の清では列強の排除を掲げて1900年に義和団事件が起こりますが、1901年に列強諸国によって鎮圧されます。これが原因で列強諸国による中国の半植民地化が加速しますが、特にロシアが勢力を拡大し、朝鮮にまで進出しようとします。これに危機感を抱いた日本が1904年にロシアに宣戦して日露戦争が起こり、1905年に勝利してポーツマス条約を結びます。日本は南樺太を領土として獲得、朝鮮と遼東半島に対する権益を獲得します。日露戦争後、日本は韓国(朝鮮)を保護国化しますが、反発した朝鮮の安重根が首相伊藤博文を暗殺する事件が起こり、1910年に日本は韓国併合し、朝鮮半島を植民地とします。

西アジア・南アジア・東南アジア・アフリカ

オスマン帝国ではアブデュル=ハミト2世の専制政治への反発から1908年に青年トルコ革命が起こり、トルコ民族主義と立憲政治を掲げる青年トルコ政権が誕生します。イランのカージャール朝では1905年に立憲革命が起こります。イランは北部がロシア、南東部がイギリスと、勢力圏が分けられ半植民地化されます。

アフリカではオランダ系移民のボーア人国家をイギリスが併合しようとし、1899〜1902年に南アフリカ戦争が起こります。戦争はイギリスの勝利に終わって1910年にイギリス領南アフリカ連邦が成立します。1905年にはモロッコの権益を巡ってフランスとドイツが衝突してモロッコ事件が起こります。ドイツは結局モロッコの権益を得られず、国際的にも孤立します。

インドと東南アジアでは民族運動が起こり、脱植民地化を目指す動きが生まれます。インドでは1906年に国民会議カルカッタ大会が開かれ、ベトナムでは1905年にドンズー運動が起こり、日本へ留学する者が現れます。

1900〜1910年は帝国主義の進展が列強間の対立を激化させた時代

このように、1900〜1910年は帝国主義の進展が列強間の対立を激化させた時代でした。帝国主義の進展による世界分割の完了は、帝国主義列強同士の対立を生みます。イギリス・フランスなど早くから植民地を拡大して多くの植民地を持つ国と、ドイツなど後から植民地を拡大したため少ない植民地しか持たない国の対立です。

これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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