【水晶の夜】ナチスドイツで発生した全国規模のユダヤ人襲撃事件について解説!

水晶の夜で破壊されたユダヤ人商店(出典:wikipedia)

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。

今回は、1938年11月9〜10日にかけてナチスドイツで発生した全国規模のユダヤ人襲撃事件、「水晶の夜」について解説します。

目次

「水晶の夜」が発生した頃の時代背景

世界の状況

1936年、ドイツはヴェルサイユ条約によって非武装地帯とされたラインラントに軍隊を進駐させます。英仏は抗議したものの軍事行動は起こさず、ここにヴェルサイユ体制は崩壊します。

1937年、ドイツ・イタリア・日本は日独伊防共協定を結んで連携を強め、ファシズム諸国が結束していきます。1938年、ドイツはオーストリアを併合し、さらにチェコスロバキアにズデーテン地方を要求した結果、ミュンヘン会談が開かれ、イギリス・フランスはドイツがこれ以上拡大しないことを条件にズデーテン地方の割譲を認めます。しかし、ヒトラーは約束を守らず1939年にチェコを併合してスロバキアを保護国化し、さらにヒトラーは1939年9月、ソ連と独ソ不可侵条約を締結してポーランドに侵攻します。これに対してイギリス・フランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発します。

第二次世界大戦勃発の1年前、ミュンヘン会談でドイツがチェコのズデーテン地方を獲得した直後が、水晶の夜が発生した当時の世界の状況です。

ナチス台頭とヒトラー政権成立

第一次世界大戦で敗戦したドイツは、ヴェルサイユ条約により、領土の一部と植民地の全てを失い、多額の賠償金を課せられていました。1929年からの世界恐慌でも最もダメージを受け、ドイツ経済は深刻な不況となります。そんな中、ドイツに多額の賠償金を課すヴェルサイユ体制への不満が高まります。すると、ヴェルサイユ体制の打倒を目指す、ヒトラー率いるナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)が国民の支持を集め、1933年に政権を獲得します。

ドイツ首相となったヒトラーは、独裁体制を作り上げます。1933年2月27日に国会議事堂放火事件が起きると、共産党員の仕業と決めつけ共産党を弾圧します。さらに3月には全権委任法を制定し、ヒトラー内閣は議会の議決を経ずに法律を制定することができるようになります。そして7月までにナチ党以外の政党は解散させられ、ナチ党の一党独裁体制が成立します。1934年8月2日にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは大統領職と首相職を兼ね、「総統」となります。

反ユダヤ主義とニュルンベルク法

20世紀初頭の多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンでは、各民族の民族運動に脅かされていた支配階級ドイツ人の間で、ドイツ人の民族的優位を主張する考えが広まっていました。ここで青年時代を過ごしたアドルフ・ヒトラーもその影響を強く受け、ドイツ人を含むゲルマン民族などのアーリア人種が最も優れた人種であり、ユダヤ人が最も劣っている、という思想を持ちます。明らかに偏った思想ですが、経済的成功者の多いユダヤ人によるユダヤ資本の支配に反発する民衆が多かったことと、第一次世界大戦の敗因をユダヤ人の裏切りだとする考えが広まっていたため、ヒトラーの反ユダヤ政策もドイツ国民の絶大な支持を得ます。

政権を獲得したヒトラーがまず行ったユダヤ人排斥政策が1935年9月15日に制定された「ニュルンベルク法」です。この法律はユダヤ人の公民権を奪うものでした。

ニュルンベルク法制定後、ユダヤ人迫害が強化されます。ユダヤ人はドイツで暮らしていくことが難しくなり、国外へ移住するユダヤ人が多くなります。しかし、ニュルンベルク法はさらなるユダヤ人排斥政策の前触れに過ぎませんでした。

「水晶の夜」事件の原因

ポーランド系ユダヤ人追放

ヒトラー政権成立後、ドイツに住むユダヤ系ドイツ人は迫害されますが、ユダヤ系ポーランド人は迫害を免れていました。ナチスドイツ政府も、国交を結んでいたポーランドとの関係に配慮したのです。ユダヤ系ポーランド人はいつでもポーランドに帰ることができました。

ところが1938年10月6日、ポーランド政府は旅券法を改正し、ポーランド系ユダヤ人の入国を拒否することを宣言します。ポーランドも反ユダヤ主義的だったため、ポーランド系ユダヤ人が帰ってくるのを嫌がったのです。

ポーランド系ユダヤ人をポーランドへ送り返したいナチスドイツ政府は、この対応に激怒します。そこで新旅券法が施行される1938年10月30日よりも前にポーランド系ユダヤ人を強制的に送り返すことにします。親衛隊とドイツ警察は約17000人のポーランド系ユダヤ人をトラックや列車で国境地帯に移送します。しかし、ポーランド国境警察は国境を封鎖してユダヤ人の受け入れを拒否します。まだ新旅券法が施行されていないのにも関わらずです。

ドイツからもポーランドからも締め出されたポーランド系ユダヤ人たちは、国境の無人地帯で食料もない状態で放浪することになり、餓死者も出ました。

ポーランド系ユダヤ人によるパリのドイツ大使館員暗殺テロ

ドイツ大使館員を暗殺したポーランド系ユダヤ人青年ヘルシェル・グリュンシュパン(出典:wikipedia)

このとき追放されたポーランド系ユダヤ人に、センデル・グリンシュパンという人物がいました。センデルはパリにいる当時17歳の息子ヘルシェル・グリンシュパンに惨状を訴えます。激怒したヘルシェルはドイツ大使館でテロを起こすことを計画します。

エルンスト・フォム・ラート(出典:wikipedia)

1938年11月7日、ヘルシェルは拳銃を持ってパリのドイツ大使館に行き、応対した三等書記官エルンスト・フォム・ラートに2発の銃弾を撃ち込みます。ヘルシェルは大使館員に捕えられフランス警察に引き渡されます。ヘルシェルは「自分の家族がドイツ警察から非道の仕打ちを受けたと聞き、抗議のためにドイツ大使館員を殺害しようと決めました。世界に対してユダヤ人の惨状を訴えたかった。復讐したかった。」と語ります。

ヒトラーは自分の侍医をパリに派遣してラートの治療にあたらせますが、ラートは11月9日に死去します。

全国的な反ユダヤ暴動「水晶の夜」の発生

水晶の夜で破壊されたユダヤ人商店(出典:wikipedia)

ラート暗殺事件を受け、11月9日夜から10日未明にかけて、組織的な反ユダヤ主義暴動がドイツ各地で発生します。267のシナゴーグと7500のユダヤ人商店や企業が破壊されます。

このとき、ユダヤ人は殴られたり辱められたりし、中には殺された者もいました。96人のユダヤ人が殺害されたとされています。ユダヤ人居住地の墓地、病院、学校、家も破壊され、略奪も多く発生しました。

大多数の市民はこの暴動を黙認し、ドイツ警察もナチスの命令に基づき暴動を全く取り締まりませんでした。割られて路上に散らばったユダヤ人商店のショーウインドウの破片が水晶のように輝いていたことから、この暴動は「水晶の夜(クリスタルナハト)」と呼ばれます。

ナチスはこの暴動を「民族精神の正当な蜂起」として正当化します。殺人を行った者は一応逮捕されますが、ほとんど不起訴か無罪になります。一方、ユダヤ人女性を強姦した者は処罰されました。1935年に制定されたニュルンベルク法の「ドイツ人の血と名誉を守る法律」に違反したからです。

さらに、この暴動の際にユダヤ人が3万人近くも逮捕され、強制収容所へ送られます。ただし、彼らはドイツ国外に移住するという条件つきですぐに釈放されます。

事件の影響

ラート暗殺と水晶の夜の影響で、ユダヤ人迫害政策はさらに強化されます。11月15日にはユダヤ人が学校に通うことが禁止され、そのすぐ後にはユダヤ人の夜間外出禁止命令も出されます。その結果、ドイツから移住していくユダヤ人の数が急増しました。

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