こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、17世紀の、疫病や飢饉により各地で経済が停滞しオランダとアジア諸国が繁栄した頃の世界史を解説します。
気候の寒冷化によって各地で疫病や飢饉が起こって経済は停滞します。これを「17世紀の危機」と呼びます。そんな中、アジア交易に参入したオランダが中継貿易によって繁栄します。17世紀はオランダの世紀とも呼ばれます。
この記事では、そんな17世紀はどんな世界だったのか、分かりやすく解説します。
17世紀はどんな世界だったのか
西ヨーロッパ
17世紀のヨーロッパは、気候が寒冷化して大航海時代からの経済成長が止まり、疫病や飢饉、反乱などが相次ぎます。特にドイツは深刻で、1618年〜1648年の30年間にわたり、三十年戦争という戦乱が起こります。これは新教派と旧教派の対立が軸となりますが、旧教国のフランスが反ハプスブルク家の立場から新教側に立ったりと、宗教対立と政治的対立が入り乱れた戦争となります。結局決着がつかず1648年のウエストファリア条約によって終結します。この結果、ドイツの大小300の諸侯に完全な主権が認められ、実質的に神聖ローマ帝国は解体し、ハプスブルク家皇帝の勢力圏はオーストリアとしてドイツ最大の勢力となり、北ドイツのプロイセンがドイツ第2の強国として勢力を伸ばします。
イングランドは国王と議会の対立から1642年からのピューリタン革命によって1649年に国王が処刑され、一時的にクロムウェルをリーダーとする共和政になります。同年1649年にアイルランド征服、翌年1650年にスコットランドを征服し、グレートブリテン島を統一します。しかし、クロムウェルの死後、1660年に王政復古し、チャールズ2世が即位します。その後もイングランドでは国王と議会の対立は続き、1688年からの名誉革命の結果、1689年に「権利の章典」が発布され、「王は君臨すれども統治せず」の立憲君主政が確立します。また、17世紀前半には中継貿易で富を蓄えたオランダが覇権を握りますが、1652〜1674年にかけての3度の英蘭戦争の結果、イングランドが勝利してイングランドの覇権が確立します。さらに北米やインドに拠点を作り、植民地を拡大し始めます。
フランスは1643年に即位したルイ14世(太陽王)のもとで絶対王政の全盛期を迎えます。ルイ14世は対外進出を強め、三十年戦争への介入やスペイン・オランダ・ドイツへの侵略戦争によって領土を拡大します。さらに北米大陸やインドにも拠点を作り、植民地を拡大し始めます。
16世紀に覇権を握っていたスペインは大きく衰退します。1609年のオランダ独立、三十年戦争への介入による財政破綻によって一気に大国の地位を失います。
東ヨーロッパ
ロシアは一気に領土を拡大し、特にシベリアへの進出を強めます。まず1667年にポーランドを破ってウクライナを獲得、1682年に即位したピョートル大帝が中国の清と1689年にネルチンスク条約を結び、東方での領土を確定させます。これによってシベリアの大半がロシア領となります。さらにピョートル大帝は1687年から西欧使節団を派遣し、西欧化を目指します。
北欧ではスウェーデンが三十年戦争の結果勢力を拡大し、17世紀後半にはバルト帝国と呼ばれる強国となり、北ドイツやポーランドに領土を拡大します。
バルカン半島ではオスマン帝国が1683年に第2次ウィーン包囲を行うも失敗し、1699年のカルロヴィッツ条約によってハンガリーの大半をオーストリアに割譲します。これによってハプスブルク家オーストリアの中欧・バルカン半島における覇権が確立し、その繁栄が始まります。一方のオスマン帝国にとっては初めての領土縮小であり、衰退の始まりです。
西アジア・中央アジア
オスマン帝国は17世紀に最盛期を迎えます。バルカン半島・北アフリカ・オリエントにまたがる大帝国を築き、繁栄します。しかし、1683年の第2次ウィーン包囲に失敗して1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーを失うと、徐々に衰退が始まります。
イランのサファヴィー朝も17世紀に最盛期を迎え、1588年に即位したアッバース1世は新都イスファハーンを建設し、貿易を奨励して富を蓄え、「イスファハーンは世界の半分」と言われるほど繁栄します。
東アジア
中国では衰退した明に代わって満州の女真族が建てた清が台頭します。1616年に即位したヌルハチは満州の女真族を統一し、1626年に即位したホンタイジは朝鮮を服属させます。そして1643年に即位した順治帝が1644年に明を滅ぼした李自成を破って北京に入り、清が中国の覇権を握ります。1661年に即位した康熙帝のもとで中国は統一され、さらに対外進出を強めます。1683年には台湾を征服し、1689年にはロシアとネルチンスク条約を結んで東北の国境を確定させ、黒龍江以北の地も支配します。
日本では関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が全国統一し1603年に江戸幕府を開きます。1609年には薩摩藩の島津氏が琉球を征服します。当初は東南アジアでの朱印船貿易を幕府主導で行いますが、17世紀中頃にキリスト教禁教と金銀の流出阻止のため、第3代将軍徳川家光によって「鎖国」という対外関係管理体制に移行します。
南アジア・東南アジア
インド北部を統一したムガル帝国では1628年に即位したシャー=ジャハーンがタージ=マハルを造営します。この頃、イスラームとヒンドゥーが融合したインド=イスラーム文化が最盛期を迎えます。1658年に即位したアウラングゼーブ帝はデカン高原を征服してインドの大半を統一しますが、異教徒を弾圧したため諸勢力の離反を招き、ムガル帝国は衰退していきます。1674年にはヒンドゥー教徒が反乱してマラーター同盟が成立し、ムガル帝国は縮小し始めます。外国勢力のインド進出も進み、イングランドとフランスも南インド・東インドに拠点を作ります。
東南アジアではジャワ島にオランダが拠点を作ってアジア貿易を進め、朱印船貿易を行なった日本も東南アジア各地に日本町を作ります。
アメリカ
ヨーロッパ諸国は17世紀の経済停滞の打開を新大陸の植民地開発に求め、アフリカで獲得した黒人奴隷を新大陸に連行してプランテーションで働かせて生産物をヨーロッパにもたらす、大西洋奴隷貿易が行われます。同時に、新大陸やアフリカでイングランド・フランス・オランダも植民地を拡大し始めます。
17世紀は疫病や飢饉により各地で経済が停滞しオランダとアジア諸国が繁栄した時代
このように、17世紀は疫病や飢饉により各地で経済が停滞しオランダとアジア諸国が繁栄した時代でした。気候の寒冷化によって各地で疫病や飢饉が起こって経済は停滞します。これを「17世紀の危機」と呼びます。そんな中、アジア交易に参入したオランダが中継貿易によって繁栄します。17世紀はオランダの世紀とも呼ばれます。
これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。