こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。
今回は、19世紀末からヨーロッパのユダヤ人の間で高まってきたユダヤ人国家建設運動、「シオニズム」について解説します。
2世紀にローマ帝国によってパレスチナを追い出されたユダヤ人は世界各地に離散し、自分たちの国を持たずにいました。19世紀にヨーロッパ各地で反ユダヤ主義が高まり迫害が強くなってきたことで、ユダヤ人たちは国家建設の必要性を感じます。そして1948年、ついにユダヤ人国家「イスラエル共和国」が誕生します。
この記事では、「シオニズム」の流れを分かりやすく解説します。
シオニズムが発生した頃の時代背景
2000年近くにわたる離散(ディアスポラ)の時代
ユダヤ人とは、もともとはヘブライ人と呼ばれた、紀元前1500年頃からシリア・パレスチナ地方にいたセム語系の民族です。ヘブライ人は一神教のユダヤ教を作り、信仰します。紀元前11世紀末にヘブライ王国が建てられ、紀元前10世紀に全盛期を迎えますが紀元前922年頃に分裂します。北のイスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされます。南のユダ王国は新バビロニアに紀元前586年に滅ぼされ、このとき多くのヘブライ人がバビロンに連れ去られます。これをバビロン捕囚といい、この頃からヘブライ人はユダヤ人と呼ばれます。紀元前538年に宗教に寛容なアケメネス朝ペルシアによって解放されてユダヤ人がパレスチナに戻ると、そこで一定の自治も認められます。紀元前332年からのヘレニズム時代にはさまざまな国の支配を受けながら内紛が続き、やがてローマに介入をされ、紀元前63年からローマの支配を受けます。ローマの支配は過酷で、ユダヤ人は抵抗を試みますが弾圧されます。2世紀前半にユダヤ人はローマ帝国によってパレスチナを追い出され、地中海、ヨーロッパ、メソポタミアなど世界各地に離散していきます。これをディアスポラといいます。




反ユダヤ主義の高まり
その後は各地で保護されたり迫害されたりを繰り返します。キリスト教徒が大多数のヨーロッパでは、ユダヤ人はイエスを殺した人々であり裏切り者だというイメージが古くからありました。12世紀頃の十字軍の時代にはイスラム教徒への攻撃と同様にユダヤ教徒も攻撃され、14世紀の黒死病(ペスト)流行の際にはユダヤ人の陰謀とされるなど、社会の敵役とされてきました。また、ヨーロッパのユダヤ人は金融業などで経済的に成功する者が多かったため、貧困層から反感を持たれることもありました。
19世紀に入ると、宗教的な反感ではなく人種差別としての反ユダヤ主義の考えが生まれます。西ヨーロッパのキリスト教徒はほぼインド=ヨーロッパ語族のアーリア人であったため、セム語系のユダヤ人はアーリア人に比べ劣った人種だという考えです。これはセム語という「言語」による分類を「人種」による分類と混同した考えです。19世紀のヨーロッパでは同一民族による国民国家を作ろうというナショナリズムが広まっていたため、異民族であるユダヤ人を排斥したかったのです。
シオニズムの流れ
シオニズムの語源

エルサレム旧市街の南西にあるシオンの丘に由来しています。ここはダヴィデ王の墓などがある名所です。もともとは物理的な丘を指す名前でしたが、やがてエルサレムやイスラエルそのものを指す言葉となり、ユダヤ人が帰還を願う対象かつ宗教的・精神的支柱を指す言葉とされていきます。シオンの地に帰還しよう!というのがシオニズムなのです。
シオニズム運動の始まり

19世紀末のヨーロッパで反ユダヤ主義が高まる中、2つの決定的な事件が発生します。ポグロムとドレフュス事件です。1881年3月13日、ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されると、ユダヤ人が首謀者という噂が流れ、ロシア民衆による大規模なユダヤ人襲撃・殺害が発生します。これを「ポグロム」といいます。1894年、フランスのユダヤ系軍人ドレフュスがドイツのスパイとして軍法会議で有罪とされます。作家ゾラや言論人クレマンソーらが再審を要求しますが、反ユダヤ主義者やカトリック教会は再審に反対し、フランス世論は二分されます。最終的には軍による証拠の捏造が判明し、ドレフュスの無罪が認められます。これを「ドレフュス事件」といいます。



ハンガリー生まれのユダヤ人ジャーナリストのヘルツルは、パリに滞在中、ドレフュス事件に遭遇します。フランス人が「ユダヤ人を殺せ!」と叫ぶのを目の当たりにしてショックを受け、反ユダヤ主義が渦巻くヨーロッパにユダヤ人安住の地はないと感じます。そのため、ユダヤ人の人権を守るためにはヨーロッパの外にユダヤ人国家を建設することが必要だと考えます。彼は1896年に著書『ユダヤ人国家』を出版し、国家建設のプログラムを詳細に記します。翌1897年、スイスのバーゼルで第1回シオニスト大会を開催します。ここには各国から代表として送られた200人のユダヤ人が集まり、1つの政治勢力「シオニスト」が誕生します。ヘルツルは1904年に心臓病で死去します。ユダヤ系財閥のロスチャイルド家はシオニストを経済的に支援します。初期のシオニズムでは国家建設の場所は必ずしもパレスチナとは想定しておらず、アフリカ未開の地なども候補にありました。
バルフォア宣言
ところが、当時のパレスチナはオスマン帝国の支配下にありました。最初はオスマン皇帝に許可をもらって移住しようとしますが上手くいきません。そんな中、1914年に第一次世界大戦が勃発します。すると、オスマン帝国と戦うイギリスはシオニストを支援することでオスマン帝国を弱体化させようと考えます。1917年、イギリス政府は戦後のユダヤ人国家建設を約束する「バルフォア宣言」を出し、シオニストの協力を取り付けます。その結果、多くのユダヤ人がヨーロッパからパレスチナに移住します。
ところがイギリスは、各勢力の協力を得るため三枚舌外交を行っていました。ユダヤ人にパレスチナでの国家建設を約束する一方でアラブ人にも同様に国家独立を約束(1915年フサイン・マクマホン協定)、さらにフランス・ロシアとはパレスチナの分割統治の約束(1916年サイクス・ピコ協定)をします。これが21世紀現在も続いているユダヤ人とアラブ人の対立の原因です。
1918年に第一次世界大戦が終結すると、イギリスはサイクス・ピコ協定通りにオスマン帝国領をフランスと山分けし、パレスチナはイギリスが統治します。ロシア帝国は革命で倒れたため除外されます。裏切られたユダヤ人とアラブ人はイギリスに対する反乱を起こし、さらにユダヤ人とアラブ人の間でも紛争が起こります。
イスラエル共和国

第二次世界大戦によってイギリスが弱体化すると、イギリスはパレスチナ問題を対処しきれなくなり、国連の場で協議されることになります。1947年11月、国連でパレスチナ分割案が採択されます。ところが、これはパレスチナ人口の3割しかいないユダヤ人に6割の土地を与えるものだったため、シオニストは賛成しますがアラブ諸国は猛反発します。1948年5月、イギリス委任統治の終了に合わせてシオニストがイスラエル共和国独立を宣言すると、アラブ諸国がイスラエルに攻め込み、第一次中東戦争が始まります。

シオニスト軍は大勝し、分割決議よりもユダヤ領が増え停戦となります。2世紀にローマ帝国にパレスチナを追放されて以来2000年弱も自分の国を持たなかったユダヤ人は、ついにかつての故郷の地で独立を達成したのです。
大イスラエル主義
その結果、アラブ人のパレスチナ難民が発生します。その後イスラエルはアメリカ・イギリス支援のもと経済と軍事を強化し、アラブ諸国と何度も戦争を繰り返して領土と入植地を広げていきます。ところが、21世紀に入ってもパレスチナ問題は解決せず、ユダヤ人とアラブ人の対立は激化しテロや紛争が頻発しています。シオニストの保守派は、ヨルダン川西岸地区やガザ地区もイスラエルの領土にすべきと考え、そこに住むアラブ人は隣国に移住すべきだと主張します。これを「大イスラエル主義」といいます。イスラエル共和国のユダヤ人口は2024年時点で700万人を超え、世界で最もユダヤ人が多く住む国となっています。
