こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。
今回は、『愛の喜び』『愛の悲しみ』『美しきロスマリン』の作曲者として有名なユダヤ人の作曲家にしてヴァイオリニスト、クライスラーの生涯について解説します。
『愛の喜び』は結婚式のBGMに選ばれることが多く、『愛の悲しみ』はアニメ「四月は君の嘘」で流れ、『美しきロスマリン』はバレエの音楽としてよく使われています。 クライスラーが作曲した曲の中で最も有名な3曲です。
他にも多くの曲を作曲している一方で、ヴァイオリンの腕前も凄まじく、名ヴァイオリニストとしても有名です。
しかし、彼がユダヤ人であることや、第一次世界大戦にオーストリア兵として従軍し、一時は生死をさまようほどの重傷を負ったことはあまり知られていません。
この記事では、まず当時の世界とユダヤ人の時代背景と音楽史について分かりやすく解説し、クライスラーの生涯を追っていきます。そして最後に、管理人によるクライスラー作曲『愛の喜び』『愛の悲しみ』『美しきロスマリン』のヴァイオリン演奏動画を載せています。
クライスラーが生きた頃の時代背景
世界の状況
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クライスラーは、1875年2月2日にオーストリアのウィーンで生まれ、1962年1月29日にアメリカのニューヨークにて86歳で生涯を終えます。19世紀末から20世紀半ばに生きた人物です。この時期は、帝国主義列強による世界の植民地化、2度の世界大戦から冷戦と、激動の時代でした。世界の一体化が完成し、グローバル社会・大衆消費社会が到来した時代でもあります。
19世紀後半に入って市民優位の資本主義・民主主義の社会が確立すると、欧米諸国は資源と市場を求めてさらに植民地を拡大させ、帝国主義の時代に入ります。
ヨーロッパでは、イギリスとフランスは互いに競い合いながら植民地を拡大させ、広大な植民地帝国を築きます。国内統一が遅れたドイツとイタリアも少し遅れて帝国主義に参加し、植民地を拡大します。
特にイギリスの植民地帝国は広大で、ヨーロッパ諸国の中でも抜きん出ていました。この時期はイギリスの覇権によるパクス・ブリタニカの時代となります。
ヨーロッパ諸国同士は、ドイツのビスマルクによるビスマルク体制の期間は勢力均衡による平和が保たれていましたが、ビスマルクの失脚後は徐々に対立が激化します。
ヨーロッパ諸国の強大な生産力と軍事力の前にアジア・アフリカ諸国はなすすべなく、ほとんどがヨーロッパ諸国の植民地または勢力圏となり、支配下に入りました。
アメリカ合衆国は広大な土地と工業力を活かして国力が急成長し、中南米や太平洋地域への進出も行います。
東アジアの日本は、明治維新による近代化に成功し、国力を急成長させて欧米諸国と対等に渡り合える力を手に入れます。中国の清は欧米諸国と日本によって半植民地化されていました。
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20世紀初頭になると列強による世界分割もほぼ完了します。1890年のビスマルク失脚以降、ヨーロッパ諸国同士の対立は激化し、イギリス・フランス・ロシアの三国協商とドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟の二大勢力の対立が深まります。
オスマン帝国の衰退によってバルカン半島に諸国が独立しますが、この地域に勢力を伸ばしたいオーストリアとロシアの利害関係の対立などによって三国協商と三国同盟の対立はさらに深まり、ロシアが支援するセルビア人の青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺したことが決定打となり、三国同盟と三国協商の全面戦争となる第一次世界大戦が勃発します。
第一次世界大戦は協商国側の勝利に終わりますが、ヨーロッパが主戦場となったことで各国の戦争によるダメージは甚大で、戦勝国も含めてヨーロッパ諸国の国力は低下します。中でもロシアは深刻で、内戦状態となります。
協商国側で参戦しつつも戦場とならなかったアメリカ合衆国と日本は武器の輸出などで好景気となり、国力を増加させます。特にアメリカ合衆国はイギリスを抜いて世界一の大国となり、覇権国家はイギリスからアメリカに移行しました。
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第一次世界大戦で甚大なダメージを受けた教訓から、戦争を予防するために世界初の国際的な平和維持機構である国際連盟が設立されますが、大国アメリカの不参加や武力制裁ができないなど、うまく機能しません。また、国土が甚大なダメージを受けた戦勝国であるフランスの要求により、敗戦国ドイツに対して天文学的な賠償金が課せられます。これはドイツの大戦後世界秩序に対する反発を招きます。
大戦中に革命が起こったロシアでは史上初の社会主義国家であるソビエト連邦が誕生します。社会主義・共産主義の波及を恐れた資本主義国家たちは干渉戦争を行いますが、撃退されてしまいます。
大戦後に覇権国家となったアメリカ合衆国は空前の繁栄を謳歌しますが、その反動で1929年に株価大暴落による世界恐慌が発生し、その影響はソ連を除く全世界に波及して世界中が貧乏になってしまいます。
内需が大きく資源の豊富なアメリカや、植民地帝国を持つイギリス・フランスはなんとか持ち直しますが、それらを持たない日本・ドイツ・イタリアは他国を侵略して資源や植民地を獲得する手段を取り、両者の対立が深まって新たな戦争の影がしのび寄ります。
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ドイツは1938年のオーストリア併合、1939年のチェコ併合と領土拡大を続けます。さらにドイツが1939年にポーランドに侵攻したことで、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発します。
東アジアでは日本が1937年から日中戦争を進めており、アメリカやイギリスとの対立を深めていきます。
第二次世界大戦はアメリカ・イギリス・フランスなどの自由主義陣営、日本・ドイツ・イタリアなどのファシズム陣営、ソ連などの共産主義陣営の3つの陣営による戦いでした。1939年の第二次世界大戦勃発時点では、独ソ不可侵条約により、ファシズムと共産主義が協調していたのです。
しかし、1941年に突如ドイツがソ連に侵攻したことでファシズム陣営と共産主義陣営は戦争状態となり、ファシズム陣営を共通の敵とする自由主義陣営と共産主義陣営が一時的に手を結びます。
また、同じく1941年に日本がアメリカ・イギリスなどと開戦したことで、ヨーロッパの戦争とアジアの戦争が連結し、地球規模の世界大戦となります。
序盤はファシズム陣営(枢軸国)に勢いがありましたが、次第に押され始め、1943年のイタリア降伏、1945年のドイツ・日本降伏により、ファシズム陣営(枢軸国)は全滅し、世界中で甚大な被害を出し人類史上最大規模となった第二次世界大戦は連合国(自由主義陣営と共産主義陣営)の勝利で終結します。
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ファシズム陣営(枢軸国)が倒れて平和が訪れるかに見えましたが、残る自由主義陣営と共産主義陣営はすぐに対立を深めます。もともと対立していた2陣営が対ファシズムで一時的に組んでいただけだったからです。
アメリカ・イギリスなどを中心とする自由主義陣営の西側諸国と、ソ連・中国などを中心とする共産主義陣営の東側諸国は、ほぼ世界を二分して地球規模で対立を深めます。1962年のキューバ危機で対立は最高潮に達し、核戦争の危機、危うく人類滅亡!?となりますが、なんとか踏みとどまります。
欧米諸国の植民地となっていたアジア・アフリカ諸国では第一次世界大戦後から独立運動が盛んになっていましたが、第二次世界大戦後さらに激化し、インドや東南アジアなどのアジア諸国は1945年の第二次世界大戦終結以降、すぐに多くの国が独立します。アフリカ諸国も少し遅れて1960年頃から一気に独立します。
このように、帝国主義列強による世界の植民地化、2度の世界大戦から冷戦と、激動の変化が起こった一方で、世界の一体化が完成し、グローバル社会・大衆消費社会が到来したのが、クライスラーが生きた当時の世界の状況です。
オーストリアの状況
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19世紀末のオーストリアは、ハプスブルク家の皇帝が支配するオーストリア=ハンガリー帝国でした。支配階級はドイツ人でしたが、帝国の総人口の約24%を占めるに留まっており、マジャール人やチェコ人など、多数の民族を含む多民族国家です。1967年から、ドイツ人に次いで帝国内で2番目の勢力を持つマジャール人を懐柔するため、形式的にはハンガリー王国を独立させつつ、実質的にはオーストリア皇帝が支配する二重帝国の体制を取ります。これを「アウスグライヒ」といいます。中欧から東欧にかけて広大な領土を持つ帝国ですが、常に民族運動を抱えており、近代化も遅れていました。バルカン諸国やロシア・イタリアとの対立も抱えています。このような不安定な状況ながらもなんとか多民族帝国として支配を続けていたオーストリア=ハンガリー帝国を崩壊させたのが、1914〜1918年の第一次世界大戦です。クライスラーもオーストリア軍の陸軍中尉として第一次世界大戦に従軍し、ロシア軍の攻撃によって一時は生死をさまようほどの重傷を負ってしまいます。
そして当時、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンは「音楽の都」と呼ばれ、ヨーロッパ音楽の中心都市でした。過去にはモーツァルト、ベートーベン、シューベルトなど多くの作曲家が活躍します。宮廷、舞踏会、教会などでも音楽が歌われたり演奏されたりすることが多く、歌手や演奏家の需要が高かったのです。ウィーン高等音楽院などの音楽教育を行う機関も多く、音楽の道に進むための環境としては世界最高の都市にクライスラーは生まれます。
ユダヤ人とは
クライスラーは、ユダヤ系オーストリア人です。のちにアメリカ人となります。ここで少しユダヤ人について解説します。
もともとはヘブライ人と呼ばれた、紀元前1500年頃からシリア・パレスチナ地方にいたセム語系の民族です。ヘブライ人は一神教のユダヤ教を作り、信仰します。紀元前11世紀末にヘブライ王国が建てられ、紀元前10世紀に全盛期を迎えますが紀元前922年頃に分裂します。北のイスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされます。南のユダ王国は新バビロニアに紀元前586年に滅ぼされ、このとき多くのヘブライ人がバビロンに連れ去られます。これをバビロン捕囚といい、この頃からヘブライ人はユダヤ人と呼ばれます。
紀元前538年に宗教に寛容なアケメネス朝ペルシアによって解放されてユダヤ人がパレスチナに戻ると、そこで一定の自治も認められます。紀元前332年からのヘレニズム時代にはさまざまな国の支配を受けながら内紛が続き、やがてローマに介入をされ、紀元前63年からローマの支配を受けます。ローマの支配は過酷で、ユダヤ人は抵抗を試みますが弾圧されます。2世紀前半にユダヤ人はローマ帝国によってパレスチナを追い出され、地中海、ヨーロッパ、メソポタミアなど世界各地に離散していきます。これをディアスポラといいます。
その後は各地で保護されたり迫害されたりを繰り返しますが、19世紀になるとパレスチナにユダヤ人国家を建設しようという動きが盛んになり、ユダヤ人入植者が増えていきます。これをシオニズムといいます。1914年に始まった第一次世界大戦でパレスチナを支配するオスマン帝国と戦ったイギリスは、各勢力の協力を得るため三枚舌外交を行います。ユダヤ人にパレスチナでの国家建設を約束する一方でアラブ人にも同様に国家独立を約束、さらにフランス・ロシアとはパレスチナの分割統治の約束をします。これが21世紀現在も続いているユダヤ人とアラブ人の対立の原因です。第二次世界大戦ではナチス・ドイツによって大量虐殺され、約600万人のユダヤ人が亡くなります。これをホロコーストといいます。大戦後の1947年、国連によってパレスチナをユダヤ人とアラブ人の居住地域に分割することが決定し、念願のユダヤ人国家イスラエルが建国されます。しかし、両者は納得せず、何度も戦争が勃発し、ユダヤ人とアラブ人の争いは続いています。
ナチスによるユダヤ人迫害(ホロコースト)
クライスラーはナチス・ドイツによるユダヤ人迫害(ホロコースト)の犠牲者ではありませんが、その時代に生きたユダヤ人です。運が良かっただけで、少し間違えば犠牲になっていたでしょう。ここで少しホロコーストについて解説します。
キリスト教徒が大多数のヨーロッパにおいて、中世の頃から、宗教的対立による異教徒迫害の1つとしてユダヤ教徒を蔑視する風潮はありました。19世紀後半になると、ユダヤ人を宗教的な反感ではなく人種差別としての反ユダヤ主義が生まれます。西ヨーロッパのキリスト教徒はほぼインド=ヨーロッパ語族のアーリア人であり、セム語系のユダヤ人をアーリア人に比べ劣った人種だという考えです。もともとアーリア人とは言語的分類によって定義されたものでしたが、誤った解釈により人種や民族を指すものとして用いられます。
20世紀初頭の多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンでも、各民族の民族運動に脅かされていた支配階級ドイツ人の間で、ドイツ人の民族的優位を主張する考えが広まっていました。ここで青年時代を過ごしたアドルフ・ヒトラーもその影響を強く受け、ドイツ人を含むゲルマン民族などのアーリア人種が最も優れた人種であり、ユダヤ人が最も劣っている、という思想を持ちます。明らかに偏った思想ですが、経済的成功者の多いユダヤ人によるユダヤ資本の支配に反発する民衆の支持を得て、ヒトラー率いるナチスは1933年にドイツで政権を獲得します。
ドイツの総統になったヒトラーはユダヤ人排斥・絶滅政策を進めます。1935年のニュルンベルク法で公民権を奪い、1938年にはドイツ全土でユダヤ人商店が襲撃され破壊される水晶の夜事件が発生します。1939年の第二次世界大戦勃発以降は占領地でもユダヤ人を排斥して強制収容所に収容し、過酷な強制労働に従事させ、多数の死者が発生します。1942年1月、ユダヤ人絶滅政策が本格化され、ゲシュタポ(秘密警察)がその任務を行います。労働可能な者に強制労働をさせる強制収容所に加え、労働できない者を毒ガスで即殺害するための絶滅収容所も建設されます。1945年にドイツが降伏して第二次世界大戦が終戦するまでに、約600万人のユダヤ人がホロコーストの犠牲となりました。これはヨーロッパにいたユダヤ人の約半数といわれます。
クラシック音楽の歴史
クライスラーは、作曲家にしてヴァイオリニストです。ここで、クラシック音楽の歴史について簡単に解説します。
一般的に、クラシック音楽とは、17〜20世紀前半の西洋音楽を指します。「クラシック音楽」と聞くと敷居が高いイメージを持つ人もいると思いますが、ドレミファソラシドといった音階やト音記号・ヘ音記号なども、クラシック音楽が生み出したシステムです。現在の世界に存在する音楽のほとんどは、クラシック音楽のシステムが基本となっています。ピアノやヴァイオリン、クラリネットといった楽器も、クラシック音楽の楽器です。
9世紀頃、カトリック教会からグレゴリオ聖歌が生まれ、それが発展して15〜16世紀にルネサンス音楽となります。この頃は歌がメインで、楽器はあまり発達していませんでした。
17世紀になると、オルガンやチェンバロなどの鍵盤楽器や、ヴァイオリンなどの弦楽器が盛んに作られ、それらのための音楽が作られるようになります。オペラなどの歌劇もこの頃誕生します。クラシック音楽の始まりです。歌劇が生まれた1600年からバッハが亡くなった1750年までがバロック音楽の時代です。代表的な作曲家は、ヘンデル、バッハ、ヴィヴァルディです。

1750〜1820年頃までが、古典派音楽の時代です。交響曲やソナタ形式といった音楽形式のフォーマットが確立した時代です。代表的な作曲家は、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンです。クラシック音楽といえば、この頃の音楽をイメージする人が多いでしょう。
1820〜1900年頃までが、ロマン派音楽の時代です。この頃には、それまで教会や宮廷、貴族向けだった音楽が一般庶民にも広まり、自由でキャッチーな表現の音楽が生まれます。代表的な作曲家は、シューベルト、ショパン、ワーグナー、ブラームス、チャイコフスキーです。クライスラーは、ロマン派と印象派の要素を融合させた音楽を表現しました。
1900〜1945年頃までが、近代音楽の時代です。さらに自由な形態に進化します。無調や十二音技法など、これまでのクラシック音楽のシステムを根底から崩すような音楽が生まれます。代表的な作曲家は、シベリウス、ラフマニノフ、ドビュッシー、ラヴェルです。クラシック音楽と呼ばれるのは、ここまでです。1945年以降は現代音楽になります。ジャズ、ロック、ポップスなどです。
ヴァイオリンの歴史

中学生の頃に両親から買ってもらいました
ヴァイオリンは、弦を弓で擦って音を出す弦 楽器です。クラシック音楽の 楽器で、オーケストラの花形楽器です。オーケストラの弦楽器には他にヴィオラ、チェロ、コントラバスがあり、その中でヴァイオリンは最も小さく、最も高音域を出す楽器です。明るく華やかな音色が特徴で、主要なメロディーを演奏することが多いです。
ヴァイオリンの先祖と言われているのが、中世のアラビアで使用されていたラバーブです。ラバーブは中世中期にはヨーロッパに伝えられ、レベックやフィドルと呼ばれます。レベックは抱えて弾くタイプと床に立てて弾くタイプに分かれ、抱えて弾くタイプがヴァイオリンに進化します。
これらの先祖と比べて、ヴァイオリンは楽器としての完成度がずば抜けていました。しかも、改良を重ねて完成されたのではなく、1550年頃のイタリアで突如として生まれ、最初から現在と同じ形で生まれたとされています。記録に残っている最初の製作者は、北イタリアの人で、クレモナのアンドレア・アマティと、サロのガスパロ・ディ・ベルトロッティの2人です。現存する世界最古のヴァイオリンは、アンドレア・アマティが制作した1565年頃の作品です。
17世紀後半から18世紀前半にかけて、ヴァイオリン製作は黄金期を迎えます。特に3人の有名な製作者が名器を大量に生み出します。いずれもクレモナの人で、アンドレア・アマティの孫のニコロ・アマティ、その弟子のアンドレア・グァルネリ、アントニオ・ストラディバリの3人です。彼らは一族でヴァイオリンの名器を大量に生み出します。その中でもストラディバリ一族の製作したヴァイオリンはストラディバリウスと呼ばれ、世界最高峰の名器として有名です。アマティ、グァルネリウス、ストラディバリウスは、300年以上経った現在も美しい音を出し続けています。
クライスラーの生涯
ヴァイオリンの神童として活躍した幼少期

クライスラーは1875年2月2日に、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで生まれます。フルネームだとフリッツ・クライスラーといいます。クライスラーの父は医者でしたが、大の音楽好きでアマチュアのヴァイオリン奏者でもありました。そしてユダヤ人でもありました。医者であった父は、同じくユダヤ人である心理学者・精神科医のフロイトと親しくしていました。

5人兄弟の2番目として生まれたクライスラーは、1978年、3歳のとき、文字(アルファベット)より先に音符が読めるようになります。
それは天から与えられた才能だったのです。私はそれを習得したのではありません。(出典:フリッツ・クライスラー『塹壕の四週間ーあるヴァイオリニストの従軍記』)
クライスラーの才能に驚いた父はアルファベットより先に音符の仕組みを教えます。1979年、4歳のとき、父のアマチュア音楽仲間の1人がクライスラーにおもちゃの楽器をプレゼントします。クライスラーはそれを巧みに弾きこなしたため、父は本物の小型ヴァイオリンを買い与えます。するとクライスラーはあっという間に上達します。それを見た父は自分のヴァイオリンをケースに収めて引退を宣言し、翌日からチェロの練習を始めたそうです。父は自分がアマチュアの域に過ぎないことを自覚しており、クライスラーを厳しく教育することはありませんでした。

1882年、7歳のとき、クライスラーはウィーン音楽院に入学します。現在はウィーン国立音楽大学と呼ばれる、世界最高峰の音楽大学です。それまで入学が許可されていたのは10歳以上でしたが、クライスラーは特例で入学が許可されます。まさに神童です。音楽院ではヴァイオリンをヘルメスベルガー2世から、和声学と音楽理論をブルックナーから学びます。1885年、クライスラーは10歳でウィーン音楽院を首席で卒業し、パリ国立音楽院に留学します。

1887年、12歳のとき、パリ国立音楽院を最年少にして首席で卒業します。これで正規の音楽教育は終了し、以後クライスラーは誰の指導も受けませんでした。
1888年11月、13歳のとき、クライスラーは初めて演奏会を行います。デビューはニューヨークのスタインウェイ・ホールでした。この初演奏会は成功を収め、翌年にかけてピアニストでリストの弟子であったモーリツ・ローゼンタールとともにアメリカで演奏旅行をします。当時のローゼンタールは25歳で名ピアニストとして名高く、ツアー同伴者に選ばれたクライスラーは大抜擢でした。

翌1889年、14歳のとき、ウィーンに凱旋帰国します。普通であればそのままヴァイオリニストとしての道を突き進むと思いますが、父の勧めで、一般教養と学問を身につけるため、高等学校へ進学します。クライスラーは軍人を目指そうと思い、音楽教育で遅れた分を取り戻すため必死に勉強します。家庭教師を雇う余裕もなかったため、父が仕事終わりから夜中まで教えます。クライスラーは、父と同じ医学の道を志すようにもなります。医師の資格は取れず、1895年、20歳のとき、オーストリア帝国陸軍に入隊します。最初は皇帝親衛隊に配属されますが、その後すぐに予備役中尉として、将校に任命されます。予備役とは、平時は一般社会で生活し、戦時のみ参集する軍人のことです。そこでクライスラーは、再び音楽の道に戻り、ヴァイオリニストとして生きていくことを決意します。
ウィーンフィルの入団試験に落ちソリストとして活躍する

6年間のブランクを取り戻すため、1人でウィーン郊外の宿屋に引き篭もり、2ヶ月かけてヴァイオリンの猛練習をしてリハビリします。かつての演奏力を取り戻すと、1896年、21歳のとき、ヴァイオリニストとして収入を得るため、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の第2コンサートマスターのオーディションを受けます。しかし、審査員だったコンサートマスターのアルノルト・ロゼが、「音楽的に粗野」「初見演奏が不得手」という理由で失格にします。そのため、ソリストとして巡遊しながら演奏し、収入を得ることにします。この頃から、レパートリー拡大のために作曲を始めます。結果的に、このオーディションに落ちたことは良かったと思います。クライスラーと同じくユダヤ人だったアルノルト・ロゼは1938年のオーストリア併合後すぐにコンサートマスターをクビになり、国外追放処分を受けロンドンに逃れています。もしクライスラーがウィーンフィルのコンサートマスターになっていたら、アルノルト・ロゼと同様に1938年にクビになり国外追放されていたでしょう。
ソリストの道を選んだクライスラーは、ヨーロッパだけでなくトルコやロシアにも巡遊し、着実にヴァイオリニストとしての名声を築いていきます。オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世の宮廷で御前演奏も行います。ゆったりとした曲を演奏していると皇帝が手を鳴らしたので、拍手だと思って喜んで弾き続けていると、お付きの者に「命が惜しくないのか。あれはやめろという意味だ」と囁かれます。咄嗟にテンポの速い曲に切り替えて命拾いしました。
ロシアでも、皇帝ニコライ2世の御前演奏を行う予定でした。しかし、クライスラーは皇帝のいるモスクワに行く途中に立ち寄ったワルシャワで出会ったフィンランド人女性と恋に落ち、御前演奏をキャンセルして一緒にフィンランドに渡ろうとしていました。ところが、途中で捕まってロシアから国外退去処分を受けてしまいます。当時のフィンランドはロシア支配下にあり、ワルシャワもロシア領です。そのため、その女性とはこれで離ればなれになります。クライスラーは御前演奏の栄誉よりも恋に夢中だったのでしょう。

1899年、24歳のとき、ソリストとしてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演します。この公演が名ヴァイオリニスト・作曲家であるイザイに絶賛され、クライスラーはイザイと親交を結ぶようになります。この頃からクライスラーの演奏活動は軌道に乗り始めます。
1901年、26歳のとき、フランスのパリで、ミミという名の女性に夢中になり、バイオリンまで質に入れて貢いだ結果、宿代すら払えなくなってしまいます。このときは、父がわざわざウィーンからパリまでやってきて身元を引き受けに行きます。しかし、父はそんな放蕩息子を温かく迎えたそうです。
アメリカ人女性と結婚!凄腕マネージャーとしてクライスラーの音楽活動を支える

そんなクライスラーの放蕩生活も、1901年、26歳のとき、終わりを告げます。パリでの失態から数ヶ月後、アメリカのニューヨークへ演奏旅行に行ってヨーロッパに戻る途中の船でした。この船の理髪店でアメリカ人のハリエット・リースという女性に出会い、船内で婚約、翌1902年、27歳のとき、ニューヨークで結婚式を挙げます。ハリエットはニューヨークの裕福な煙草商の娘で、離婚経験者でした。音楽や楽器の知識はありませんでしたが、クライスラーの音楽の才能を理解し、凄腕マネージャーとしてクライスラーを支えます。
ハリエットのおかげで、クライスラーは音楽家として大成していくことになります。ハリエットはクライスラーに音楽に関係ないことは一切させず、部屋に閉じ込めて練習させるなど徹底してクライスラーの生活を厳しく管理します。マネージャーとしても有能で、交渉して演奏会の出演料を大幅に上げさせたりもします。同年1902年、ロンドンデビューを果たし、しばらくの間、ロンドンを本拠地とします。2人はどこに行くのにも一緒で、ロンドンでイギリス王妃アレクサンドラからクライスラーにお茶の誘いが来たときも、最初その誘いがクライスラー1人と聞いて辞退します。ロンドン訪問が夫人同伴と知らなかった王妃アレクサンドラは陳謝し、改めて夫妻を招待します。
1905年、30歳のとき、代表作である『愛の喜び』『愛の悲しみ』『美しきロスマリン』を作曲します。この3曲は『ウィーン古典舞曲集』としてセットで演奏されます。この3曲は愛がテーマです。ハリエットと結婚して3年後に作られました。
第一次世界大戦に従軍!一時は生死をさまようほどの重傷を負う

世界各地でヴァイオリニストとして名声を築いていたクライスラーですが、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍の予備役中尉として、定期的に軍事演習には参加していました。そのため、1914年に起きた第一次世界大戦に従軍します。ヨーロッパでは、19世紀末から帝国主義列強同士の利害対立により、2つの大きな陣営が形成されます。ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商です。特に対立が激しかった場所が、バルカン半島です。パン=ゲルマン主義を掲げてドイツ人の勢力拡大を目指すオーストリア=ハンガリー帝国と、それを支援するドイツ。パン=スラヴ主義を掲げてスラヴ人の勢力拡大を目指すセルビアなどバルカン諸国と、それを支援するロシア。両者の対立の舞台であるバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、いつ大戦争が起きてもおかしくない状況でした。
1908年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起こると、オーストリア=ハンガリー帝国はその混乱に乗じてオスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴヴィナを一方的に併合します。ここには多数のセルビア人が居住していたことで、セルビアは強く反発します。そんな中、決定的な事件が起こります。1914年6月28日のサラエボ事件です。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻がボスニアの州都サラエボを訪問した際、セルビア人の青年に暗殺されてしまいます。これを受けてオーストリア=ハンガリー帝国はドイツ帝国の支援を取り付けた上で、セルビアに最後通牒を発します。セルビアが拒否したため、7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告します。するとセルビアを支援するロシア、オーストリアの同盟国ドイツ、ロシアの同盟国フランスと、連鎖的に参戦します。瞬く間にヨーロッパ列強諸国の全てが2つの陣営に分かれ、大戦争が勃発してしまいます。これが第一次世界大戦です。

7月31日、妻ハリエットと保養に来ていたスイスの温泉で、クライスラーは軍の召集令状を受け取ります。クライスラー39歳のときです。翌8月1日、クライスラーとハリエットはウィーンに到着します。ウィーンでは父親に別れを告げるだけで、すぐに自分の所属する第四大隊がいるレオーベンに行きます。クライスラーは、その第四大隊の傘下にある第十六中隊の中の第一小隊長として、約60名いる小隊の指揮を取ります。レオーベンでは1週間過ごしますが、そこでの日々は楽しいものでした。戦いの準備を進めながらも、士官たちは楽しく交流し、友人のような関係を築きます。クライスラーの小隊には、画家、大学教授、銀行家などがいました。ハリエットはウィーンに留まり、兵営で傷病者の看護の仕事をします。

レオーベンで1週間過ごした後、クライスラーたちはロシアとの国境近くの前線に送られます。とはいえ、送られた場所はロシアとの国境から何百kmも離れた場所だったため、しばらく駐屯して訓練するのだろうと思っていました。ところが、到着したその日の晩に非常召集を受けて何十kmも行軍させられます。最初は意味がわかりませんでしたが、しばらくすると砲撃音が聞こえてきます。なんと、ロシア軍は既に国境から何百kmも離れたオーストリア帝国領の奥深くまで侵入していたのです。クライスラーたちは塹壕を掘り、ロシア軍を待ち受けます。レンベルクの戦いです。攻め寄せるロシア軍を何度か撃退しますが、数で圧倒的に優勢なロシア軍の連続攻撃に押されていきます。そのため、クライスラーたちはロシア軍と戦いながら徐々に撤退することにします。
9月6日、クライスラーたちは防衛線を築きます。このときまでにクライスラーの小隊は55名から34名にまで減っていました。クライスラーは既に戦場に適応していました。何十日も服を着替えることなく、泥地や湿地で眠り、雨でずぶ濡れになると動かず陽が昇って乾かしてくれるのを待ちます。食べ物は全て手づかみで食べ、水が足りないときは草の露を舐めてしのぎます。3日間、何も口にせず歩き続けたこともありました。もはやヴァイオリニストの面影すらありません。戦うこと以外、全てに無関心になります。塹壕でパンをかじっているときに隣の人間が撃たれて死んだ時も、一瞬その人に目をやり、再びパンをかじり続けます。仲間の死を何度も目の前で見て、クライスラーの感覚は麻痺していました。
防衛線を張ったクライスラーたちの近くにロシア軍が攻めてきます。今度はロシア軍も塹壕を掘り、両軍が数日間睨み合います。ここで驚くべきことは、オーストリア軍とロシア軍という敵同士にもかかわらず、お互いに塹壕から出てふざけたり笑いあったり、煙草を交換したりしたことです。この非公式の休戦状態は数日間続きます。あるとき、2人のロシア兵がオーストリア軍の塹壕にやってきて、餓死寸前なので食糧を少し分けてほしいと頼みます。オーストリア軍も決して余裕があるわけではありませんが、できる限りの食糧を分け与えます。ロシア兵は目に涙を浮かべて感謝し、自軍のもとに戻っていきました。戦争とはいっても現場の兵士たち同士に本来憎しみは存在しないのです。この出来事でクライスラーは非常に良い気分になり、気力が回復したと語っています。
しかし、そんな休戦状態も長くは続きません。ロシア軍の別の部隊の攻撃により、クライスラーの隊と本隊が遮断されてしまいます。しばらくして退却命令を受けますが、敵にほぼ囲まれた状況から撤退するのは困難でした。弾薬もほぼ底をついていました。それを知ってのことか、すぐにロシア軍の夜襲を受けます。ここでクライスラーは馬の蹄で肩を蹴られてしまいます。肩が砕けるような痛みが走ります。さらに、剣で右腿を切られてしまいます。クライスラーは意識を失います。かなりの重傷です。
直後に感じたのは、肩が砕けるような痛みだった。馬の蹄で蹴られたのだった。つづいて右腿に鋭い刃物で切られた痛みが走った。私は自分の上のぼんやりとした人影に向かって拳銃を撃ち、それが転倒するのを見たあとで意識を失ってしまった。(出典:フリッツ・クライスラー『塹壕の四週間ーあるヴァイオリニストの従軍記』)
しばらくして目を覚ますと、1人の部下がいました。まだ塹壕の中です。他の人たちはクライスラーに気づかず退却してしまっていました。しかし、2人はなんとか塹壕を脱出し、ロシア軍の中をかいくぐってオーストリア軍のもとに帰還します。
負傷者のクライスラーは応急処置を受け、すぐに隊を離れて近くの野戦病院へ送られます。またすぐに列車に乗せられ、ハンガリーを経由してウィーンに帰還し、赤十字の病院に送られます。2週間の療養の後、クライスラーは負傷のため軍務には不適格であると宣告されます。軍務を解かれたクライスラーは、軍服を脱いで市民に戻ります。
忠節なる仲間の将校、戦友、忠実な従卒に別れを告げ、愛着ある軍服を脱いで一市民の平服な服に着替えなければならないことを深く悔やみつつ、また、たとえ微々たるものではあっても祖国のために奉仕できたことを感謝しつつ、ここに私の軍隊での経験は幕を下ろした。(出典:フリッツ・クライスラー『塹壕の四週間ーあるヴァイオリニストの従軍記』)
こうしてクライスラーは除隊となりますが、戦争はまだ序盤でした。オーストリア=ハンガリー帝国軍全体で約120万人が亡くなったこの戦争で、早い段階で除隊されたのはむしろ幸運だったでしょう。しばらくは足を引きずって歩くほどでしたが、腕や手には後遺症は残りませんでした。軍人としての未来は絶たれましたが、ヴァイオリニストに戻ることはできます。ここからクライスラーは再びヴァイオリニストとして活躍していくことになります。
ヨーロッパを中心に世界中で演奏活動を行う

クライスラーは妻ハリエットの祖国であるアメリカに渡ります。ヨーロッパはまだ戦争の真っ只中であり、演奏活動ができる状況ではなかったためです。しかし、1917年にアメリカが連合国側で参戦すると、敵国オーストリア出身のクライスラーの名声に陰りが見えます。クライスラーの演奏に対する抗議活動まで起こり、コンサートは全て中止になります。クライスラーは一旦演奏活動をやめ、代わりに作曲に集中します。オペラの作曲も行い、歌劇『リンゴの花』が終戦後の1919年に上映されます。クライスラー44歳のときです。
終戦後は、再びヨーロッパを中心に世界中で演奏活動を行います。1921年、46歳のとき、イギリスのジョージ首相の前で「ロンドンデリーの歌」演奏します。首相は非常に感動したとのことです。1923年、48歳のとき、妻ハリエットとともに来日して帝国劇場で演奏します。日本滞在中は、特に京都がお気に入りだったようです。

1924年、49歳のときから、ドイツのベルリンに住みます。この頃から、作曲家兼ピアニストのラフマニノフと親交を深めます。ラフマニノフは「愛の喜び」「愛の悲しみ」をピアノ独奏用に編曲する一方、「コレルリの主題による変奏曲」をクライスラーに贈ります。
1926年、51歳のとき、レオ・ブレッヒ指揮のもと、ソリストとしてベルリン国立歌劇場管弦楽団とベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を共演し、録音します。これはクライスラーの名盤の1つです。
ナチスから逃げてアメリカに永住する

ベルリンに拠点を置いていたクライスラーの生活も、1933年にヒトラー率いるナチスが政権を獲得すると、状況は一変します。既にキリスト教に改宗していたとはいえ、ユダヤ系だったクライスラーは、反ユダヤを掲げるナチスのもとで生活するわけにはいきません。クライスラーの大衆的人気は凄まじかったため、ナチスはその人気を利用するために、ドイツへの残留を要請しますが、クライスラーは断固拒否します。1938年、63歳のとき、ナチス・ドイツがオーストリアを併合したのを機に、フランス国籍を取得してパリに移住します。

1939年、64歳のとき、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発します。フランスもドイツに宣戦布告して戦争状態になったため、クライスラーはアメリカ永住を決意してニューヨークに渡ります。のちにアメリカ国籍を取得し、以後一度もヨーロッパに戻ることはありませんでした。1941年4月、66歳のとき、交通事故で重傷を負います。ニューヨークの通りを歩いているときにトラックにはねられたのです。頭蓋骨骨折などで1週間以上も昏睡状態が続きますが、翌年奇跡的に復活し、再びヴァイオリニストに復帰して録音やリサイタルを行います。

しかし、事故の後遺症の視力障害や記憶障害により、1947年、72歳のとき、公式には最後のコンサートをニューヨークのカーネギーホールで行います。その後、1950年、75歳で完全に引退します。1955年、80歳の頃には、視力も聴力もほとんど失っていました。そして1962年1月29日、86歳のとき、心臓状態悪化のため亡くなります。ニューヨークのブロンクスのWoodlawn墓地に埋葬されます。翌年、妻ハリエットも亡くなります。


クライスラーの腕前と人柄

クライスラーは、20世紀を代表する巨匠ヴァイオリニストであり、史上最も偉大なヴァイオリニストの1人です。その演奏スタイルの特徴は、ウィーン情緒あふれる甘美な音色です。ヴァイオリンの音色は、演奏者によって大きく異なります。おしゃれで甘く美しい音色には、親しみやすく誰からも愛されるクライスラーの人柄が出ているのでしょう。
クライスラーの人柄といえば、控えめなことでも有名です。彼は自分が作曲した曲を、自作ではなく過去の作曲家の作品を編曲し直したものだとして公開します。『プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ』などです。『愛の喜び』『愛の悲しみ』『美しきロスマリン』でさえも、過去の作曲家のものだと言っていました。ところが、1935年頃、『ニューヨーク・タイムズ』の音楽担当記者が、クライスラーが「編曲」と言っている作品の「原曲」が見つからないことを疑問に思って尋ねたところ、クライスラーはあっさりと、ほぼ自作の曲だと認めます。「自作ばかりじゃ聴衆が飽きるし、また自分の名前がついた作品だと他のヴァイオリニストが演奏しにくいだろう?だから他人の名前を借りたのさ」と答えました。
また、クライスラーは、音楽は人を楽しませるためにある、という考えを持っていました。そのため、激しい曲や重苦しい曲、絶叫するような曲は作らず、超絶技巧を見せびらかすような曲も作りませんでした。『愛の喜び』や『序奏とアレグロ』は比較的難易度の高い曲ですが、それでも超絶技巧とまでは言えず、他の作曲家の超絶技巧曲に比べれば遥かに易しく、弾きやすい曲です。しかし、クライスラー自身は色々な作曲家の超絶技巧曲も難なく弾きこなしています。
クライスラーは、バランス感覚に優れた人物でもあります。一般的に「天才」といえば、音楽に人生の全てをかけ、それ以外のことはおろそかにしがちというイメージがあります。しかし、クライスラーはそうではありません。音楽だけでなく一般教養も身につけており、音楽の道と軍人の道の2つを目指しながら、一方に偏りすぎない人生を送りました。生活をおろそかにすることもなく、妻ハリエットと長く連れ添い、86歳という長寿を全うします。35歳で亡くなったモーツァルトや、57歳で亡くなったパガニーニなどの他の音楽家と比べ、クライスラーは長く音楽家人生を送ったのです。富や名声を必要以上に求めることもなく、慈善活動も行っていました。もらった勲章は宝石を外して寄付し、貧しい後輩のヴァイオリニストたちに惜しげもなく名器を贈与します。
この動画はクライスラー自身による『美しきロスマリン』『愛の悲しみ』『愛の喜び』の録音です。
『愛の喜び』『愛の悲しみ』『美しきロスマリン』※管理人によるヴァイオリン演奏付き
クライスラーは1905年、30歳のとき、代表作である『愛の喜び』『愛の悲しみ』『美しきロスマリン』を作曲します。この3曲は『ウィーン古典舞曲集』としてセットで演奏されます。この3曲は愛がテーマです。ハリエットと結婚して3年後に作られたことから、『愛の喜び』は結婚生活の喜びを表現したのでしょう。『愛の悲しみ』はドイツ語で「Liebesleid」です。「悲しみ」を意味する「leid」は、ドイツではそのままの意味ですが、オーストリアでは、悲しみの中にも希望がある、という意味があります。同じドイツ語でも、地方によって意味が異なるのです。日本の方言と同じです。『美しきロスマリン』の「ロスマリン」とは、花の名前「ローズマリー」のドイツ語ですが、ウィーンでは美しい女性のことを指す言葉でもあります。「美しきハリエット」という想いで作曲したのでしょう。
楽器編成はヴァイオリンとピアノです。独奏楽器(ヴァイオリン)と伴奏楽器(ピアノ)の2人で演奏します。
管理人は幼少期からヴァイオリンを習っていました。『愛の喜び』『愛の悲しみ』『美しきロスマリン』の演奏動画を載せましたので、良ければお聴きください。この3曲はとても有名なので、みなさんも聴いたことがあると思います。
愛の喜び
結婚式でよく演奏される曲です。
愛の悲しみ
アニメ「四月は君の嘘」で流れた曲です。
美しきロスマリン
バレエの音楽としてよく使われています。
クライスラー年表
1875年2月2日(0歳) | ウィーンで生まれる |
1882年(7歳) | ウィーン音楽院に入学 |
1885年(10歳) | ウィーン音楽院を主席で卒業、パリ国立音楽院入学 |
1887年(12歳) | パリ国立音楽院を主席で卒業 |
1888年11月(13歳) | ニューヨークで演奏会デビュー |
1889年(14歳) | 普通の高等学校に進学、軍人を目指す |
1895年(20歳) | オーストリア帝国陸軍入隊、予備役に回され再びヴァイオリニストを目指す |
1896年(21歳) | ウィーンフィルの第2コンマスのオーディションに落ちる、ソリストとして各地を巡遊 |
1899年(24歳) | ベルリンフィルと共演 |
1901年(26歳) | アメリカからヨーロッパに戻る船でアメリカ人ハリエット・リースと出会い婚約 |
1902年(27歳) | ニューヨークで結婚式 |
1905年(30歳) | 代表作『愛の喜び』『愛の悲しみ』『美しきロスマリン』を作曲 |
1914年9月(39歳) | 第一次世界大戦に従軍、レンベルクの戦いで重傷を負い軍務を解かれニューヨークに渡る |
1919年(44歳) | 歌劇『リンゴの花』上映 |
1921年(46歳) | イギリスのジョージ首相の前で『ロンドンデリーの歌』を演奏 |
1923年(48歳) | 日本の帝国劇場で演奏 |
1924年(49歳) | ドイツのベルリンに移住、ラフマニノフと交流 |
1926年(51歳) | ベルリン国立歌劇場管弦楽団と共演 |
1938年(63歳) | フランスのパリに移住 |
1939年(64歳) | ニューヨークに移住 |
1941年4月(66歳) | トラックにはねられ重傷を負う |
1947年(72歳) | ニューヨークのカーネギーホールで公式には最後のコンサート |
1950年(75歳) | 完全に引退 |
1955年(80歳) | 視力も聴力もほとんど失う |
1962年1月29日(86歳) | 心臓状態悪化のためニューヨークで死去 |