【ドレフュス事件】ユダヤ人とフランスにとって大きな転換点となった事件について解説!

アルフレッド・ドレフュス(出典:wikipedia)

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです。

今回は、1894〜1906年、フランス第三共和政の時期に起こった反ユダヤ主義を原因とする冤罪事件、「ドレフュス事件」について解説します。

1894年、フランスのユダヤ系軍人ドレフュスがドイツのスパイとして軍法会議で有罪とされます。作家ゾラや言論人クレマンソーらが再審を要求しますが、反ユダヤ主義者やカトリック教会は再審に反対し、フランス世論は二分されます。最終的には軍による証拠の捏造が判明し、ドレフュスの無罪が認められます。

この事件をきっかけにユダヤ人はヨーロッパ以外に安住の地を求め、かつての故郷パレスチナを目指すシオニズム運動が起こります。一方、フランスでは軍やカトリック教会などの保守勢力の力が弱まり、自由・平等・人権という第三共和政の理念が守られ、近代市民社会がさらに発展することになります。

この記事では、まず当時の世界とユダヤ人の時代背景を分かりやすく解説し、ドレフュス事件の詳細と歴史的意義について解説します。

目次

ドレフュス事件の頃の時代背景

世界の状況

ドレフュス事件は、1894年に発生し、1906年にドレフュスの無罪によって終結します。この期間は、帝国主義列強による世界分割が完了し、列強間の対立が激化した時代でした。

1871〜1890年のビスマルク体制の期間は、ヨーロッパ列強間での対立は少なく平和が保たれていました。しかし、1888年にヴィルヘルム2世がドイツ皇帝に即位すると、政策の違いで対立したビスマルクが1890年に辞任し、ビスマルク体制は終了します。ヴィルヘルム2世は「世界政策」と称して植民地拡大を行なったため、もともと対立していたフランスに加えてイギリス・ロシアとも関係を悪化させていき、ロシアとフランスは1891年に露仏同盟を結びます。

1890年からのヨーロッパの国際関係は、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)、露仏同盟(ロシア・フランス)、大英帝国(イギリス)という構図でした。イギリスは「光栄ある孤立」と呼ばれる孤立主義を取っていましたが、アジアでのロシアの拡大に対抗するため、日本と同盟を結びます。1902年の日英同盟成立です。そして1904〜1905年の日露戦争で日本が勝利してロシアの拡大を食い止めることに成功します。20世紀に入るとドイツの生産力・軍事力の拡大が著しく、それに対抗するため、それまで対立していたロシア・フランスと一転して協調し、1907年に三国協商(イギリス・フランス・ロシア)が成立します。日露戦争後は日本とロシアでも1907年に日露協約が結ばれて和解したため、列強間の国際関係は、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)、三国協商(イギリス・フランス・ロシア)+日本、の2つの陣営に分かれて対立する構図となります。

第二次産業革命によって爆発的に生産力が向上した欧米列強は、原料・市場・労働力確保のため世界中を植民地化して世界の分割が行われます。ビスマルク時代は主にイギリス・フランス・ロシアでしたが、その後はドイツ・アメリカ、さらに日本も加わり、植民地獲得競争が行われます。

工業生産力世界一となったアメリカ合衆国も1897年に就任したマッキンリー大統領、1901年に就任したセオドア・ローズヴェルト大統領のもとで帝国主義政策を進めます。

日本は「富国強兵」「殖産興業」をスローガンに経済力・軍事力を高めます。朝鮮半島にも進出し、宗主国の清と対立が深まった結果、1894〜1895年に日清戦争が起こり、日本が勝利します。その後ロシアとの対立が深まったため1904年に日露戦争が起こり、日本が勝利します。2回の戦争で勝利した日本は台湾と南樺太を領土として獲得、朝鮮と遼東半島に対する権益を獲得します。日露戦争後、日本は韓国(朝鮮)を保護国化しますが、反発した朝鮮の安重根が首相伊藤博文を暗殺する事件が起こり、1910年に日本は韓国併合し、朝鮮半島を植民地とします。

このように、帝国主義列強による世界分割が完了し、列強間の対立が激化した時代に列強の1つフランスで発生したのが、ドレフュス事件です。

フランスの状況

1970〜1971年の普仏戦争でフランスはプロイセン率いるドイツ諸邦に大敗します。皇帝ナポレオン3世はドイツ軍の捕虜になって失脚し、パリは占領されてヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国成立宣言とプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式が行われます。ナポレオン3世が捕虜になるとパリ市民がクーデターを起こして第二帝政が倒されます。その後に成立した穏健な臨時国防政府はドイツとすぐに講和します。賠償金の支払い、アルザス・ロレーヌ地方の割譲といった内容です。反発したパリ市民の一部は徹底抗戦を主張しますが、臨時国防政府に鎮圧されます。やがて大資本と結んだブルジョワ共和政の第三共和政が成立します。

第三共和政のもとでフランスは国力回復に努めますが、左右双方からの攻撃を受け不安定な状態が続きます。アルザス・ロレーヌ地方の奪還などの対独強硬派の軍部と右派や、労働者や社会主義勢力などの左派の勢力が大きかったためです。1889年にはパリ万博が開催されるほど国力が回復しますが、同年に軍部独裁政権の樹立を目指したクーデター未遂のブーランジェ事件が発生するなど、第三共和政の基盤は弱いままでした。対外的には、アフリカや東南アジアで植民地を拡大していきます。

そんな脆い状態の第三共和政で発生した、共和政を揺るがす大きな事件が、1894年に始まったドレフュス事件だったのです

反ユダヤ主義の高まり

ユダヤ人にはイエスを殺した人々というイメージがあり、カトリック国のフランスでも根深い反ユダヤ主義が存在していました。普仏戦争敗北後には、フランスが負けたのはユダヤ人が裏切ったからだという噂も立ちます。フランスでは迫害や虐殺までは起きていませんでしたが、金融業や銀行業で成功するユダヤ人への嫉妬もあり、1894年の頃には反ユダヤ主義が高まっていました。

ドレフュス事件の経過

アルフレッド・ドレフュス(出典:wikipedia)

ドレフュス大尉がドイツのスパイの容疑で有罪判決を受け流刑にされる

除隊され軍刀を折られるドレフュス(出典:wikipedia)

1894年夏、フランス陸軍がドイツ大使館に送り込んでいたスパイが、ある手紙を見つけます。それは、フランス陸軍の誰かが、ドイツ陸軍の者あてにフランス陸軍の機密情報を知らせる内容でした。フランス陸軍が犯人を探したところ、筆跡が似ていた砲兵大尉アルフレッド・ドレフュスが疑われます。彼がアルザス生まれのユダヤ系フランス人だったことも疑われた理由の1つです。1894年10月15日、ドレフュスは逮捕されます。

ドレフュスは否定しますが、事件を報道した反ユダヤ系の新聞が「ユダヤ人の売国奴、逮捕される!」と報じます。これには大きな反響が起こり、12月に軍法会議にかけられます。杜撰な筆跡鑑定の結果、ドレフュスは有罪にされ、軍を除隊させられます。翌1895年1月5日、軍刀がへし折られます。見守る群衆はドレフュスに罵声を浴びせます。このとき群衆の中にいたユダヤ人青年ヘルツルは衝撃を受けます。終身刑および流刑とされたドレフュスは、1895年3月、南米のフランス領ギアナ沖にあるディアブル島に送られます。

1896年、フランス陸軍のピカール中佐は、エステラジー少佐という者がドイツの諜報員と連絡を取っていることを知ります。ピカールは密かに再調査を進め、エステラジーの筆跡が例の手紙と同一だと突き止めます。ドレフュスの無実を確信したピカールは上層部に報告しますが、シャルル・シャノワール陸軍大臣は、軍法会議の権威を守るため公開を拒否します。

ドレフュス支持派と反ドレフュス派で二分されるフランス世論

ドレフュスの妻リュシーと兄マチューはドレフュスの無罪を信じて弁護士や政治家に訴えます。ピカール中佐が真相をドレフュスの弁護士に話すと、驚いた弁護士は再審を請求します。これを知ったドレフュスの兄マチューもエステラジーを告発する手紙を陸軍大臣宛に書きます。エステラジーは軍法会議にかけられますが、反ユダヤ主義の世論や軍の意向もあり無罪となります。エステラジーはイギリスに逃亡し、そこで平穏な生涯を過ごします。

エミール・ゾラ(出典:wikipedia)
ジョルジュ・クレマンソー(出典:wikipedia)

エステラジー無罪決定の2日後の1898年1月13日、のちにフランス首相となるクレマンソーが主催する新聞「オーロール」紙が、作家エミール・ゾラの署名でフォール大統領宛て公開書簡の形で、「私は弾劾する!」と題する記事を掲載します。それは、ドレフュスの無罪と軍の不正を告発する内容でした。反ユダヤ系新聞や軍は激しく反論し、ゾラは逆に軍に対する誹謗中傷の罪で告発されます。反ユダヤと陸軍擁護の世論が強く、その裁判でゾラは有罪とされてしまいます。ゾラは言論活動ができなくなることを避けるため、イギリスに亡命します。ピカール中佐も軍を追われます。

再審と特赦によるドレフュス解放

ドレフュス裁判の様子(出典:wikipedia)

しかし、1898年8月31日、不正に加担した陸軍のアンリ中佐が自殺します。軍に対する疑惑と再審を求める声が一気に高まり、例の手紙の筆跡鑑定が再度行われた結果、ドレフュスではなくエステラジーのものと判明します。軍はやむを得ず再審を認め、1899年8月に再審が行われます。ドレフュスは4年以上の流刑を解かれ、再審を受けるためにフランス本土に帰還します。

ところが、ドレフュスは再び有罪とされ、終身刑から流刑10年に減刑とされます。しかし、政府内の共和派はドレフュス救済に動き、再審を取り下げ有罪を認めることと引き換えに大統領特赦でドレフュスを解放することを提案します。あくまで無罪を主張するクレマンソーは強く反対し、ドレフュス自身も悩みますが、結局これを受け入れます。ドレフュスは有罪を認める代わりに大統領特赦で釈放されたのです。

ドレフュス無罪確定と名誉回復

ドレフュスはその後も無罪を主張し続け、1906年7月12日、フランスの最高裁にあたる破毀院で無罪が確定します。軍に戻ったドレフュスは少佐に昇進し、砲兵部隊の司令官になります。しかし、長い流刑生活で健康状態が良くなかったため、1909年6月に退役します。その後、1914年に第一次世界大戦が勃発すると召集され、中佐に昇進し、砲兵中佐として従軍します。そして1935年7月12日、75歳で生涯を終えます。

ドレフュス事件の影響

シオニズム

テオドール・ヘルツル(出典:wikipedia)

ドレフュス事件で衝撃を受けたハンガリー出身のユダヤ人青年ヘルツルは、反ユダヤ主義が渦巻くヨーロッパにはユダヤ人安住の地はないと考え、ヨーロッパ外でのユダヤ人国家建設が必要と考えます。ヘルツルは1897年にスイスのバーゼルで第1回シオニスト大会を開催し、1つの政治勢力となります。このユダヤ人国家建設運動のことを「シオニズム」と言います。シオニズム運動は最終的に1948年のイスラエル共和国建国に繋がっていきます。

政教分離の実現

ドレフュス事件によって、軍とカトリック教会を結びつける反ユダヤ主義が根深い原因であることが明らかになります。ユダヤ人はイエスを殺した人々のため、カトリック教会はユダヤ人を敵視しています。中世の頃からフランスではカトリック教会がフランス国家と結びつき、二重権力構造で大きな力を持っていました。近世に入るとカトリック教会の影響力は衰えたものの、1801年のナポレオンのコンコルダートによってカトリック教会の影響力が回復していました。ドレフュス事件によってカトリック教会への批判が高まったため、クレマンソー率いる急進社会党がフランス社会党と協力して1905年に議会で政教分離法を成立させます。ドレフュス無罪確定の前年のことでした。

フランス民主主義の成熟

ドレフュス事件でドレフュス有罪が覆されたため、軍はドイツへの憎しみを煽って軍国主義体制を作ることができませんでした。事件後は軍の影響力は弱まり、脆弱だったブルジョワ民主主義の第三共和政の基盤が強化されます。ドレフュス事件は第三共和政の危機でしたが、乗り越えたことでかえって強化されたのです。自由・平等・人権・民主主義といった近代市民社会の価値観がさらに発展する結果となりました。しかし、軍の力が弱まった結果かは分かりませんが、その後の2度の世界大戦でフランスは戦勝国となったものの、フランス軍は実質敗北しています。第一次世界大戦ではドイツ軍にパリ目前まで迫られ、第二次世界大戦ではすぐにドイツ軍にパリを占領されて一時的に本土を失いました。

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