こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!
今回は、8〜9世紀の、イスラーム世界が繁栄した頃の世界史を解説します。
ユーラシア東西の大帝国のうち、西ではウマイヤ朝に代わってアッバース朝が最盛期となってイスラームの勢いはさらに高まる一方で、東の唐は安史の乱を経て弱体化します。そしてヨーロッパではフランク王国がローマ教会と結んで勢力を拡大します。
この記事では、そんな8〜9世紀はどんな世界だったのか、分かりやすく解説します。
8〜9世紀はどんな世界だったのか
ヨーロッパ
イベリア半島を征服したウマイヤ朝はフランク王国まで侵入しますが、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国が勝利し、イスラームの拡大を食い止めます。フランク王国では751年に宮宰であったカロリング家のピピンが国王となり、カロリング朝となります。ピピンはイタリア半島のランゴバルド王国を攻めてラヴェンナ地方を教皇領としてローマ教皇に寄進します。教皇領の始まりです。ピピンの子カール大帝はさらに征服活動を続けてイタリア半島の大半、ドイツ、ボヘミアまで勢力を拡大し、800年にカール大帝はローマ教皇レオ3世から西ローマ皇帝として戴冠されます。こうしてフランク王国はローマ教会と手を結び、独自の西ヨーロッパ世界を作っていきます。
しかし、カール大帝の死後、息子たちの間で広大な帝国の支配をめぐって争いが生じ、帝国は西フランク王国・東フランク王国・イタリア王国の3つに分割されます。これは現在のフランス・ドイツ・イタリアの基礎となります。
一方のビザンツ帝国もイスラーム勢力のさらなる侵入を抑えてアナトリアの防衛に成功しつつ、西方のローマ教会との対立を深めます。
西アジア・中央アジア
ウマイヤ朝はイベリア半島にも進出し、711年に西ゴート王国を滅ぼします。その勢いでフランク王国にも攻め込みますが、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで撃退されてしまいます。ウマイヤ朝ではアラブ人を優遇していましたが、全ムスリムの平等を主張するアッバース家が支持を集めてウマイヤ朝を滅ぼし、750年にアッバース朝が成立します。アッバース朝は751年のタラス河畔の戦いで東の大帝国「唐」を破り、中央アジアの支配を確立します。この頃、インド洋の海上交易も発達し、インドや東南アジアにイスラームが伝わります。広大なイスラームのネットワークはアッバース朝イスラーム帝国の大繁栄に繋がり、アッバース朝5代目カリフ、ハールーン・アッラシードの頃にイスラームは全盛期を迎えます。
しかし、9世紀後半から辺境地域で独立王朝が建てられるようになり、アッバース朝の勢力は次第に縮小していきます。
東アジア
唐は712年に即位した玄宗は、治世前半は「開元の治」と呼ばれる、科挙という試験を経て有能な官吏を登用する善政を行いますが、晩年は楊貴妃に溺れ、政治を顧みなくなり、唐は次第に衰えていきます。751年のタラス河畔の戦いでアッバース朝に敗れ、755〜763年に地方の軍事指揮官である節度史が起こした安史の乱が起こると、自力では反乱を鎮圧することができず中原の洛陽・長安まで失い、744年からモンゴルの支配者となっていたウイグルの支援を受けてようやく鎮圧します。こうして唐帝国の弱体化は決定的となり、西域から撤退します。その後、モンゴルのウイグルとチベットの吐蕃が弱体化しウイグルは840年に崩壊します。唐国内での反乱も相次ぎ、875年に起こった黄巣の乱の結果、朱全忠によって907年に唐は滅ぼされます。
朝鮮半島北部から満州では高句麗の遺民が渤海を建国し、朝鮮半島の大半を統一した新羅と対立します。
日本では、唐の制度を導入して律令国家の建設が進められ、東北の蝦夷や九州の隼人といった辺境勢力を征服して国内の統一を進めます。
南アジア・東南アジア
北インドはラージプート時代という小国分立の混乱時代でしたが、南インドでは9世紀後半からチョーラ朝が勢力を拡大し、インド洋交易路での交易を盛んに行います。
東南アジアでは、マラッカ海峡でシュリーヴィジャヤが海上交易によって繁栄し、カンボジアではアンコール朝が成立します。
8〜9世紀はイスラーム世界が繁栄した時代
このように、8〜9世紀はイスラーム世界が繁栄した時代でした。ユーラシア東西の大帝国のうち、西ではウマイヤ朝に代わってアッバース朝が最盛期となってイスラームの勢いはさらに高まる一方で、東の唐は安史の乱を経て弱体化します。そしてヨーロッパではフランク王国がローマ教会と結んで勢力を拡大します。
これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。