【時代解説:12世紀(1101〜1200年)】多極化が進んだ群雄割拠時代の世界史を解説!

こんにちは!歴史ワールド管理人のふみこです!

今回は、12世紀の、多極化が進んだ群雄割拠時代の世界史を解説します。

各地で地方政権の台頭と人口増加・経済発展が進み、イタリア商人・ムスリム商人・中国商人による海上交易が活発化し、地中海から東シナ海に至る広大な海上ネットワークが成立します。

この記事では、そんな12世紀はどんな世界だったのか、分かりやすく解説します。

目次

12世紀はどんな世界だったのか

ヨーロッパ

西ヨーロッパでは、封建制・荘園制の確立による中世の封建社会が到来し、農業生産力の向上による人口増加と経済発展の影響で、対外進出を引き起こします。十字軍・レコンキスタ・東方植民による西ヨーロッパ・キリスト教世界の拡大です。しかし、順調に進んだレコンキスタ・東方植民と異なり、十字軍はイスラーム教徒の激しい反撃に遭います。

1147年からの第2回十字軍はダマスクスの攻略に失敗し、その後エジプトのアイユーブ朝のサラディンによって聖地イェルサレムがイスラーム教徒によって奪還されます。これを受けて再度のキリスト教徒による聖地奪還のため1189年から第3回十字軍が派遣されますが、聖地イェルサレムを奪還することはできず、サラディンと講和します。

このようなキリスト教徒の対外進出により、文化も発展します。十字軍・レコンキスタによってキリスト教・ゲルマン文化とイスラーム文化が結びついたことで、西ヨーロッパの学問・文化にイスラームの影響が加わり、12世紀ルネサンスが引き起こされます。

西アジア・中央アジア

セルジューク朝は内部抗争に明け暮れており、十字軍に対して一致して反撃できず、1157年には分裂してしまいます。一方、エジプトではファーティマ朝の宰相サラディンがアイユーブ朝を建て、十字軍に反撃して聖地イェルサレムを奪還します。

セルジューク朝の分裂によってイスラーム世界は多極化が進み、アナトリアにはルーム=セルジューク朝、イランから中央アジアにはホラズム朝が成立、北インドのガズナ朝は1148年頃にゴール朝へ代わります。そしてモンゴルの遼が滅亡したことでその一部が中央アジアに入り、カラハン朝を滅ぼしてカラ=キタイ(西遼)を建国します。イベリア半島から北アフリカを支配していたムラービト朝は1147年にムワッヒド朝に代わりますが、徐々にキリスト教徒のレコンキスタに押されてイベリア半島の領土は縮小します。

東アジア

モンゴル・満州で遼に支配されていた女真族が1115年に金を建国し、1125年に遼を滅ぼします。その後、1127年に金は宋を攻撃して華北を占領します。これを靖康の変と呼びます。華北を奪われた宋は江南に逃れ、南宋を建国します。当初は南宋は金に反撃しようとしますが、南宋の内部で和平派が優勢となり、金と南宋は和約を結び、南宋は金に対して臣下の礼をとって毎年銀や絹を送ります、こうして東アジアにおける金の支配的な地位が確立します。一方の南宋では江南開発が進み、貨幣経済が発展します。

高麗では武人政権が誕生、日本でも武士が勢力を拡大して平清盛が平氏政権を誕生させます。しかし、源氏の源頼朝によって平氏政権は倒され、1192年に源頼朝が将軍となって鎌倉幕府が成立します。

南アジア・東南アジア

北インドではイスラームのゴール朝が勢力を拡大し、南部ではチョーラ朝が海上交易を続けています。東南アジアではカンボジアのアンコール朝が最盛期を迎え、アンコール=ワットを建設します。

12世紀は多極化が進んだ群雄割拠時代

このように、12世紀は多極化が進んだ群雄割拠時代でした。各地で地方政権の台頭と人口増加・経済発展が進み、イタリア商人・ムスリム商人・中国商人による海上交易が活発化し、地中海から東シナ海に至る広大な海上ネットワークが成立します。

これからも一緒に歴史を学んで未来をより良くしていきましょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。

目次